ウワイト(倭人)大学院講義録
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録02:9頁
山門説も無駄。やはりヤマト説だから
説明はいらないと思うが、
九州北部にある「山門だ」という説も、
全く「大和説」と同じ理由でダメである。
やはり「邪馬臺」という存在しないものを、
それが正しいと錯覚したために「ヤマト」という発音を根拠にして、
ただ奈良以外にそれに合う土地を探して、
「九州に山門郡というのがあった!…」と
喜んだだけの説だからである。
参考までにこれもあらましをお話ししておこう。
内藤氏の論文は7月に出たが、
それはその前の6月に出た雑誌『東亜の光』に、
東京帝国大学の白鳥庫吉氏が
「『魏志』をよく読めば、倭国とは主として九州地方を指したもので
四国などはまだその範囲に入っていない。
女王国は九州北部にあり南部は狗奴国のもので、これと戦って卑弥呼が敗れた。
狗奴国は熊襲である。
邪馬臺国までの行程を考えると、恐らく今の熊本県の中にあったと思う」などと書いた。
これはそれ以前に近藤芳樹氏が「肥後山門郡」だと唱えたのを意識してのことである。
内藤氏の「大和説」はこれに対する反発として受けとられたとみえて、
同じ年の10月から12月にかけて橋本増吉氏が『史学雑誌』に
「内藤博士の論はすペて邪馬臺は大和だという仮定に過ぎない。
もしそれが誤りなら徒労で無意義だ」と痛烈に非難し、
「このヤマトは肥後ではなく、筑後の山門郡である。
[女山]にはその遺跡もある。
明治41年出版の久米邦武博士の
『日本古代史』に書いてあるのが正しい」と喧嘩を売った。
これが始まりで以後80年を超える現在まで「大和だ」
「九州北部だ」という論争が続いてきたである。
今の私たちの尺度からいえばこの間題の要点に関しては、
今の小学生以下の知識と発想と思考力しかなかったのが、
明治末期の大学教授の知能指数だったのだ。
文献の制作年代も、その前後関係も、発音変化も、政権の移動も、倭の五王の記録も、
まるで見落していながら、
そのおかしさを指摘されても自説を改めようとはしなかったのである。
『参考』
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