2012年1月11日水曜日

「伊都国から南へ」で、東ではない

ウワイト(倭人)大学院講義録

『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録02:10頁

「伊都国から南へ」で、東ではない

情けないのはそれだけではない。

その後がいけない。

間違いを無理に弁護しようとすると

さらに無茶な「コジつけ」の上塗りが必要になる。

それは当り前のことである。

事実は一つしかないのだから、

どんなにしても間違ったものは全て記録と一致しないからである。

どれくらい無茶な説が生まれたかは、面倒なので一々挙げていられない。

それはお暇なとき、残されている本をお読みになればわかるが、

全部無意味なコジツケの「歴史的大記録」だ。

とてもそんな厖大なものを挙げていられないし、

また役にも立たない無駄なことだから、その代表的なものの一つ、

「方角」の問題だけをとり上げてみようと思う。

これはそのインチキ説の中でも最も有名で、普通の知性をもった方なら、

どなたでも正しいか正しくないか、すぐ見破れる問題だからである。

『魏書倭人章』の記事を読むと、

間違いなく伊都国までやってきた帯方郡使が二人いる。

『魏書倭人章』は彼らが体験したままを書いた報告書を基礎にして、

陳寿が編集したものである。

だから当然、彼らはまず、女王国までのコースを詳しく記述している。

それによると「女王の都する邪馬壹国」は、

「九州の中にある[伊都国]から[南]へ水行10日して上陸し、

それから陸行1月のところにある」とはっきり書いてある。

いうまでもないと思うが、奈良は九州から「東」にあって南ではない。

だから大和説はこの「南」さえ理解できない説なのだ。

通常人なら最初に国名を間違えても、ここで気がつくのが当り前なのに、

あくまで自説を押し通そうとしたために、

帯方郡使は方角を知らない人物だったといい、

本当は東なのに、間違えて「南」と書いてしまったのだと、

『魏書倭人章』の記録を「訂正」してしまったのである。

『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録 

『My ブログ』
ウワイト(倭人):大学講義録

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