2012年1月11日水曜日

「邪馬堆」は愛媛県八幡浜市

ウワイト(倭人)大学院講義録

『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録02:7~8頁

「邪馬堆」は愛媛県八幡浜市

現在いわれている京大系の大和説は、

1910(明治43)年に

内藤虎次郎(湖南=京都帝国大学総長)が、

『芸文』という雑誌に寄稿したもので、

彼の研究方法を述べた中に

*「南至邪馬臺国」は『隋書』『北史』

「倭国は都を邪靡堆におく、

すなわち魏志がいう所の弥馬臺なり」と書き、

また『梁書』以来、

大和朝廷を『魏志』の倭王の後だとしているから、

邪馬臺国は大和朝廷と解するよりない」*

と書いている。

しかしこの3つの中国正史は、すべて7世紀に書かれたもので、

卑弥呼当時とは4世紀も後のものである。

これは「いま日本の首都は東京で、天皇は万世一系なのだから、

4世紀前の都は東京に決っている」というのと同じ論法である。

だが4世紀どころか、130年前までは天皇は京都にいた。

また「邪靡堆」は7世紀の発音で当て字されている。

中国では「邪」の字は卑弥呼時代には「ジォ・ジャ」と発音されていたが、

7世紀には「ヤ」と発音が変わっている。

「靡」は非の字が発音記号で、

漢魏音=ビ、

隋唐音=ファ、

北京音=ミ、

南中国音=ピである。

「堆」は

漢魏音=デゥ、

隋唐音=タイ、

北京音=ドイ、

南中国音=ヅイである。

これをつないでみると「邪靡堆」は、

7世紀の隋唐音では「ヤ・ファ・タィ」になる。

これは日本の地名の中では誰がみても「八幡」である。

当時の都には隋の使者・文林郎「裴清(裴世清)」がやってきて、

『隋書』の中に貴重な記録を残している。

それを詳しく検証すると、その都は現在の愛媛県の中にあったことが、

その紀行文から完全に立証されているし、

国全体の形と主要な国数がピツタリ四国に合うし、

宇和島は「大=ウ、倭=ワ、之=シ、国=マ」に対する後世の当て字として、

ぴったりの発音をもっている。

これは「倭の五王」の記事とも完全に一致するが、

5世紀の倭王・武の時代でも、

彼の領土に奈良市は入っていない。

だからどこからみても、卑弥呼当時に奈良に大和朝廷があった事実はない。

内藤氏がヤマトと読んだ「邪靡堆」は、「八幡」で、

それは現在の愛媛県八幡浜市のことなのである。

(『加治木義博著・誰が巨大古墳を造ったのか』参照)

『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録 

『My ブログ』
ウワイト(倭人):大学講義録

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