ウワイト(倭人)大学院講義録
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録02:7~8頁
「邪馬堆」は愛媛県八幡浜市
現在いわれている京大系の大和説は、
1910(明治43)年に
内藤虎次郎(湖南=京都帝国大学総長)が、
『芸文』という雑誌に寄稿したもので、
彼の研究方法を述べた中に
*「南至邪馬臺国」は『隋書』『北史』に
「倭国は都を邪靡堆におく、
すなわち魏志がいう所の弥馬臺なり」と書き、
また『梁書』以来、
大和朝廷を『魏志』の倭王の後だとしているから、
邪馬臺国は大和朝廷と解するよりない」*
と書いている。
しかしこの3つの中国正史は、すべて7世紀に書かれたもので、
卑弥呼当時とは4世紀も後のものである。
これは「いま日本の首都は東京で、天皇は万世一系なのだから、
4世紀前の都は東京に決っている」というのと同じ論法である。
だが4世紀どころか、130年前までは天皇は京都にいた。
また「邪靡堆」は7世紀の発音で当て字されている。
中国では「邪」の字は卑弥呼時代には「ジォ・ジャ」と発音されていたが、
7世紀には「ヤ」と発音が変わっている。
「靡」は非の字が発音記号で、
漢魏音=ビ、
隋唐音=ファ、
北京音=ミ、
南中国音=ピである。
「堆」は
漢魏音=デゥ、
隋唐音=タイ、
北京音=ドイ、
南中国音=ヅイである。
これをつないでみると「邪靡堆」は、
7世紀の隋唐音では「ヤ・ファ・タィ」になる。
これは日本の地名の中では誰がみても「八幡」である。
当時の都には隋の使者・文林郎「裴清(裴世清)」がやってきて、
『隋書』の中に貴重な記録を残している。
それを詳しく検証すると、その都は現在の愛媛県の中にあったことが、
その紀行文から完全に立証されているし、
国全体の形と主要な国数がピツタリ四国に合うし、
宇和島は「大=ウ、倭=ワ、之=シ、国=マ」に対する後世の当て字として、
ぴったりの発音をもっている。
これは「倭の五王」の記事とも完全に一致するが、
5世紀の倭王・武の時代でも、
彼の領土に奈良市は入っていない。
だからどこからみても、卑弥呼当時に奈良に大和朝廷があった事実はない。
内藤氏がヤマトと読んだ「邪靡堆」は、「八幡」で、
それは現在の愛媛県八幡浜市のことなのである。
(『加治木義博著・誰が巨大古墳を造ったのか』参照)
『参考』
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