2012年1月12日木曜日
1里は55mの「倭人里」だった
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録02:18~19頁
1里は55mの「倭人里」だった
これだけでも「千余里」がどれほどの距離か、ほぼ見当がつく。
「巨済島」と対馬との最短距離はほぼ50数kmある。
これを対馬と壱岐とのあいだで計ってみると、
対馬の首都・厳原と壱岐の北の玄関・勝本との間が55.65kmある。
だから「余里」を取り去って、「千里=55km」とみると、
私の研究した「古墳間測量用尺度=55cm」と、完全にぴったり一致する。
私はこれを「倭人里」と命名している。
この古墳間の測量については
加治木義博著の『誰が巨大古墳を造ったのか』や『邪馬臺国の言葉』
『日本人のルーツ』をご参考に…。
単位が55cmというと何か半端な尺度のように見えると思うが、
それは古代ギリシャで使われていたクビト(キユービット)という尺度で、
中指の爪先から肘までの長さが基準になつている。
これはシュメールでは
紀元前2170年頃のラガシュのエンシ(王)・グデアの像にも刻まれていて、
以後広く西方世界に広まったものである。
その長さは支配者の腕の長さに支配されて変化したから、
国により時代によって長さがまちまちであるが、
ギリシャ世界ではフェニキヤのものが長くて563mm、
いちばん短いのはアテネのパルテノン建造に使われたもので463mm、
しかし通常は550mmが平均的な目安として通用していた。
この尺度は近世までインド以西で使われていたポピュラーなものなので、
不思議なことに私の手でも、ちょうどきっかり55cmある。
これはトルコ語では現在も「ピク」と呼ばれて使われているが、
その名は『魏書倭人章』に登場する「卑拘」と一致する。
この問題は後でさらに許しくお話しするが、記憶しておいていただきたい。
なおグデア像の写真やクピドの説明は、
前記の加治木義博著の『誰が巨大古墳を造ったのか』などをご覧戴きたい。
島は面積と、長い海岸線をもっている。
だからその島のどこから相手の島のどこまでを計るのかが不明だと測れない。
ところがこの朝鮮半島と九州の間の航行距離は、
うまい具合に三ケ所とも同じ「千余里」だったから、
一カ所だけ距離がわかれば、
この厳原と勝本とのように、
等距離にある候補地を見つけることができたのである。
そしてさらに好都合なことに、この厳原と勝本の場合は現代でもまだ双方とも、
それぞれの島の玄関として知られる代表的な港だった。
このことは3世紀の港が今と同じだった事実を物語るのだから、
これも私たちの手法と答えの数値の正しさを立証しているのである。
『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録
『My ブログ』
ウワイト(倭人):大学講義録
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