2012年1月30日月曜日
『八幡教』が生まれた世界宗教史
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録05:24~26頁
『八幡教』が生まれた世界宗教史
『八幡教』が生まれた世界宗教史
言葉を変えると、
ヤマト朝廷の権威の源が『八幡信仰』だったのである。
だから全国に3万を超える八幡社があり、
それが会社のような働きをもつ「社」の全国組織を形成し、
朝廷の名が「八幡徒=ヤマト」と呼ばれてきたのだということが、
はっきりわかる。
では八幡とはなにか?…。
それは「八幡大菩薩」の名が示すように
実体は仏教、概観は神道の日本独特の宗教だが、
その実体は次のような歴史が産み落した混血児である。
① シュメルでは「山」を崇拝する伝統からジグラット=巨塔を神体とした。
この宗教をバビロンの滅亡後、日本列島へもちこんだのが「カリエン」人たちで、
彼等が神と、その継承者を「シュメル=スメラ」「王=キ」=「スメラギ」と呼び、
バビロンのアキツゥの祭り(正月)が「秋津島」の語源になって、
神話の古代国名を生んだのである。
② シユメルがスメラになったのは、
それが日本へくる前にインドに入って「ヒマラヤ」を
「スメラ山」と呼んだからであるが、そこでスメラはさらに多くの方言によって、
「スベラ」から「スバラ=素晴らしいの語源」「スバ・スワ・シバ・ジマ・ジャマ・ヤマ」
などと訛り、その主神を「シバ・ヤマ」神とするシンドゥ教の一派「シバ派」になった。
③ それより前、バビロンに倒されたシュメル人たちは、中国に入って「周」と呼ばれ、
殷人の帝国・商を倒して天下を取ったが、以後、「山」を崇拝する伝統が中国各地の
名山崇拝となり、それを台湾を「ホーライ=ギリシャ神話の季節の女神」と呼ぶ
ギリシャ系中国人・徐福らの「方士」が受け継いで「道教」の体系をととのえた。
④ これが秦の始皇帝のとき、徐福が日本に「ヤマ教」としてもちこんだもので、
それは本来「オリンパス山」を神の住いとするギリシャ宗教につながる山岳宗教だから
「ヤマ」で、種子ガ島・南種子町の「広田海岸遺跡」から発見された「貝製装身具」に
漢字の「山」と、ギリシャ文字の「アイ・クマ」とが書かれているのは、
このためなのである。
⑤ この地域には、さらに古くからインド語や、マレー語を話す人々が定住していたし、往来していた。
それは土器などの共通性と貝製腕輪などの出土品、それに今も大量に日本語の中に
残っているマレー語やパーリ語やヒンドスタニーの単語が証拠であるし、
『記・紀』の神名や人名もまた動かない証拠群をかたちづくっている。
⑥ こうしたものが相互に影響し合って次第に融合したものに、卑弥呼当時に最大勢力に
発展し君臨したのがアショカ仏教で、その後をこの「八幡教」が継いだことが、
『魏書倭人章』の卑弥呼・壹與と、『記・紀』の[神功皇后紀]から複元できる。
⑦ 「ヤマン」に対する当て字が「八幡」で、これを「ヤバーナ」と発音したものが、
中国から西の広いアジア全域で「ギリシャ人」を指す固有名詞として使われてきたのである。
⑧ しかし「八幡」は『大隈正八幡の縁起』に登場する八幡=応神天皇と、
天皇に位を譲った先代の八幡がいて、それが二つの「倭」を生んで、
日本の建国史を非常に複雑にしているから、
この『倭』を主役にした講義は、その締括りとして、
この問題を解明せずに通過することはできない。
なぜなら『古事記』の[神功皇后記]に応神天皇が「イザサ=伊奢狭・和気大神」と
名前を取り替えたという話しが載っているからである。
次回にそれ解明しよう。
『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録
『My ブログ』
ウワイト(倭人):大学講義録
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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