2012年1月13日金曜日
確認できた多くの「定点」
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録02:20~21頁
確認できた多くの「定点」
私たちは、『魏書倭人章』の帯方郡使が来たコースの、
動かない「定点」を確認することができた。
次はその定点について、
もっと詳しくして考えてみよう。
① 「厳原」と
② 「勝本」はそれぞれ動かない定点だし、
③ この二点が「古来も同じ位置にあった」ことが、その距離の逆算から確認できた。そこで
④ その「距離・間隔」もまた「倭人里の千里に当たる」という定点として確認できた。
この距能の確認によって
⑤ 同じく「千余里に当たる」距離だけの間隔をもっている「狗邪韓国と対馬の最短距離」も
動かない定点になったし、
⑥ その出発点が「巨済島」だということも定点だし、
⑦ その島「巨済島が狗邪韓国だ」ということも確認できたからこれも定点である。
⑧ 特にその尺度が「1里=55m」と確認できたことは、以後に登場する多くの国を
特定できる定点になった。
⑨ しかもその尺度が「クビトだということも定点だし、そのクビトの実在によって、
⑩ 「さらにもっと大きな倭人の背景」を立証する定点まで解明して確認することができた。
この航海の問題は単純ではない。
それは地図を見ると、
最後の壱岐と九州本土との距離が、厳原と勝本との距離より短いからである。
これはどう考えればいいのだろうか?…。
やはり帯方郡使は距離について無知か…いい加減だったのだろうか…?。
だがよく考えてみると、「三つの千余里」は、
狗邪韓国から九州までの全航程を書いたものではない。
それは「島と島」の間の航路の長さである。
だから、最後の距離は壱岐と九州本土との最短距離の長さではなく、
船を降りた上陸点までの「航路の長さ」だったのである。
最短距離を表示した「地理上の記述」ではない。
最短距離とは無関係に航海を続けて、
同じ「千余里」を行った先に上陸した事実を、
「又、一海を渡る、千余里、末盧国に至る」と、
ありのままに書いただけなのである。
帯方郡使は船が進んだ「進行方向」と「距離」はわかっていたが、
最短距離というような地理関係までは書いていないのである。
この方式は、後の記事も同じである。
国には広さがあるから郡が国の中央部にある場合、
「百里=5.5km」などという距離では
国外へは出ていけないはずなのに、次々にその百里が続出する。
この場合も島と島の「千余里」と同じで、「国境から国境まで」の距離なのである。
だから島の場合も「島の大きさ」は、この「千余里」とは無関係である。
このことは、最後の「千余里」が示すものは、
船は九州本土の内部に奥深く入りこんで
停泊したのであり、帯方郡使はそこから上陸したということを、
はっきり書いてあるということなのだ。
『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録
『My ブログ』
ウワイト(倭人):大学講義録
古代史ブログ講座
歴史徒然
ネット歴史塾
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史の画像
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
ひねもす徒然なるままに
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
メソポタミア世界
シュメル-人類最古の文明
The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
ひねもす徒然なるままに
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿