ウワイト(倭人)大学院講義録
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録02:3~4頁
怪物「邪馬臺」はなぜ発生したか?
では「邪馬臺」は一体、
どこからどうして発生した「怪物」なのであろう?…。
中国・蜀の陳寿が、
『魏書倭人章』を含む『魏書』を編集したのは280年頃だが、
5世紀になってから『後漢書』が編集された。
その中に「倭」という項目があるがその文章を読むと、
陳寿の記事を写して、
少し変えただけのものであることがすぐわかる。
もちろん三国時代の魏より、後漢のほうが前の時代である。
しかし後漢の「正史」がなかったので、
『魏書』よりずっと後になって追加編集したのである。
昔は印刷がなかったし、紙も貴重品だったから、
一冊ずつ手書きで写していたのだから、
カビや虫食いや破れなどで200年もたつと
原本があったとしてもかなり痛むし、
写本の場合はその読めなくなった部分に適当に文字を書き込むから、
元の本とは違った文字に変わっても仕方がない。
ことに外国の記事は、なおさら事情がわからないから、
名詞などは変わりやすい。
「邪馬壹」の「壹」の字が、「臺」の字に変わるようなことも当然のことで、
それは仕方がないというしかないが、怪物・邪馬臺はこうして生まれた。
後世ほど間違った字が増えてくるから、
最初の原文とはまるで違ったものになるのが当然である。
だから研究者は先ず、そんな事情をよく検討して、前に書かれた原本から、
どうして写し間違いが起こったかという事情から、徹底して解明する必要がある。
それをいい加減にして間違ったほうを採用したのでは、それ以後、
どんなに苦労して謎解きをしてみても、
その研究結果がメチャメチャになることは、
出発点で決っているのである。
それなのにこれまでの『邪馬台国』論争は、原本にある「邪馬壹国」は
最初から放り出してしまって、3世紀にあったのは「邪馬臺国」だったと、
『後漢書』の写し間違いのほうが正しいという常識はずれな誤りを犯した上に、
さらにその誤りを正当化しようとして、いろいろ言いわけを主張したあげく、
さらに「邪馬台国」と文字を変えて議論してきた。
それがどんなにバカげているか、だれが考えてもわかると思う。
しかし、この二つの国名、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」との問題は、
本一冊では書ききれないほどの問題が、まだまだ山のようにある。
なぜかというと、卑弥呼の政権と、それを倒した高句麗・山上王・位宮の政権と、
2つの政権があり、『魏書倭人章』が書く「邪馬壹国」は後の政権名で、
卑弥呼政権の名は書かれていないからである。
だから敵どうしの政権が同じ名を名乗ることがあるかないか、
それから立証していかねばならない。
これまでお話ししたのは、あくまで『魏書倭人章』を研究し議論する場合に、
「邪馬臺国」がないといっているのではないから、混同しないで戴きたい。
「邪馬臺国」の存在は、海外から客観的に見た
中国文献・『魏書倭人章』とは全く「別物」の、
こちら側の記録に基づく「日本史」の問題なのである。
この二つは全く「別物」であることも、よくお考えになっておいて戴きたい。
『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録
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