ウワイト(倭人)大学院講義録
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録02:15~16頁
現存する巨大なザ・メジャー
では、なぜこの二つの島はそんな偉大な働きをもっているのだろう?。
それはこの2島が、不動の「定点」だからである。
どんな難問でも動かない定点さえ見つかれば、後のたくさんな謎も解ける。
だから『魏書倭人章』問題では、まず何よりも先に、
この2島についての徹底した分析と測定と法則の発見が必要なのである。
島はなぜ定点に使えるか?…。
それは3世紀当時と、ほとんど形が変わらないからである。
帯方郡使がこの二つの島のあいだの距離を書いているのとまったく同じ距離が、
今も「遺物」として現存していると考えればいい。
帯方郡使はこう書いている。
「対馬国(以下省略)」から
「また南に(名は瀚海という)一つの海=千余里を渡ると一大国に至る」。
この対馬は今の対馬と全く「同じ文字」で、「同じ位置」にあるから何の疑問もない。
その次に九州への足場になる
「対馬の南にある島」といえば「壱岐の島以外にはない」が、
「一大」の名は「一が上についていて」、
「文字は違っても同じ発音」の「壱が上についている」
今の壱岐であることは疑う余地がない。
「一大」は、鹿児島発音では「イッデ」で、これは沖縄発音では「イーティ」、
沖縄諸島の「ティ・チ」は九州北部では「キ」に変わるから、
「一大」は「壱岐」という当て字に
変わっても不思議はないからである。
またその島がある海は今「玄海灘」と呼ばれている。
「瀚海」も「げんかい」と読めなくもないし、
それが1700年以上も経てば発音が
訛っても当り前だから、
これも双方とも、「まったく同じ位置にある海」に名付けられた
「独特の名」であることからいって、同じ海であることを疑う余地がない。
すべてが今も当時のままだといっていい。
この「2つの大きな島と島の間隔」が「千余里」だというのだから、
2つの島を「目盛り」代わりにすると、
そのあいだの距離は「尺度(ザ・メジャー)」として使える。
その距離は今の尺度で何kmあるか計ってみればいいのである。
すると帯方郡使が記録した「千里」とは、
メートルに換算すれば何kmかがわかる。
その千分の一が一里なのだから、
一里は何mだったかも簡単に割り出せる。
これによって『魏書倭人章』の全ての里数がメートル化できて、
非常に明確なものになるのである。
『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録
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