2012年1月18日水曜日
発見できた「呉」の古代史
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録03:20~21頁
発見できた「呉」の古代史
この會稽王はさらに南の荒れ地を開拓して「越」の国を作った人物だが、
彼が従ったその風習は司馬遷の『史記』に、
周の国の先祖の王子・太伯が国を捨てて南方の蛮地に行き、
そこの王になったのが呉の国の始まりで、
彼が受け入れた風俗が
「頭髪を短く切り、身体に入れ墨をする」というものだったということが
書いてあるから、
その風俗は少なくとも
「殷」の時代=紀元前1000年頃には、その地域にあったものである。
私(加治木義博)がカリエン人を中心とする「宝貝産業」が殷帝国を支え、
東アジアを支配したことを突き止めたのは、
いまもミャンマーから中国・雲南省にかけて住むカリエンの人々が入れ墨をしていることと、
この倭人と呉人の入れ墨の記録とを総合して検討して、
彼等の伝えた歴史伝承が正しいことを確認したからであって、
それがまた
倭人とは何か……
どういう人種構成になっていたか……
という疑問に、動かない答えを多数追加してくれたのである。
以上で殷=商時代にカリエン人が、
台湾、沖縄だけでなく、少なくとも長江河口南部にもいて
潜水漁業と宝貝産業に徒事していたことがわかる。
この地域から、
いま国際紛争の火種の<南沙群島/a>にかけてが、
かって世界最大の宝貝産地であった琉球列島に次ぐ宝貝の宝庫だからである。
ちなみに現在も海南島民の大半はカリエン人の一派である藜(リ)族である。
今回は主題が『倭=仏教』を立証するにはどうするか?であったから、
この呉音の問題とそれから
派生した多くの答えが全て異口同音に多くの的確な証言を追加してくれた。
それだけでなく、
さらに「ではどんなふうに、卑弥呼の仏教が日本に伝わったのか?」
ということを、今度は別の角度から観察して、
新たな答えを得るために『魏書倭人章』を離れて、
『記・紀』その他の中から見つけ出さなければならない。
その最初のて掛かりになるのは「名詞」である。
私が『日本誕生シリーズ』の名書でその一例をお話ししたように、
それは「崇神天皇」「垂仁天皇」「仲哀天皇」「神功皇后」の
各記・紀に多数の手掛かりになる「名詞」が見つかる。
ここではそれを繰返してお話しする余裕はないから、
私(加治木義博)の既刊書を改めて読み返して戴けば充分役立つと信じる。
そこに挙げておいたように、『記・紀』の中に登場する事件はまた、
その他の文献『風土記』や『大隈一の宮・正八幡の縁起』、
台湾の古代伝説などにも形を変えて残っている。
だから当然この場合、相互に名詞や事件が食違うものがある。
それは正確な「言語知識」があれば方言による変型だとか誤訳によるものだとか、
はっきり理解し
証明することができるが、それが欠けていると、
無関係に見えたり、説明がつかなかったりして、
過去の学者のように誤解したり無視したりしたままで終わってしまう。
私たちの「言語復原(復元)」という歴史解明システムが絶対に不可欠で、
これだけがキメ手を生むのである。
『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録
『My ブログ』
ウワイト(倭人):大学講義録
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