2012年1月18日水曜日

倭=仏教国のキメ手は巴利国の存在



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録03:24~25頁

 倭=仏教国のキメ手は巴利国の存在

 この小見出しの巴利国はパーリ国と発音し、

 『魏書倭人章』の女王国の旁国の中の一国である。

 仏教の教典はすべて「パーリ=巴利」語で書かれているが、

 釋迦とその弟子とがパーリ人であったわけではない。

 釋迦はいうまでもなく

 「シャカ=シャケ=スキタイ」人であるから

 その言語はスキタイ語である。

 それをなぜパーリ語と呼ぶかといえば、パーリとは「聖なる経典」のことで、

 パーリ語とは「お経の用語」ということなのである。

 それを、一般の言語が国名を言語名にしているのでそれと混同して、

 パーリという人種や国があったように錯覚する人がある。

 インドには古代から現在に至るまでパーリ人かパーリ国も存在しない。

 それなのに日本列島の中には同じ名の小国が実在したのである。

 それは卑弥呼当時は南九州にあったが、

 後世に移動して定着した後身が

 「播磨=兵庫県の西半分」であることも確認できている。

 『魏書倭人章』と現存する播磨地方が実在の証拠であり異物なのである。

 同じことは「シャカ=シャケ=スキタイ」人という人種名の上にも起こつている。

 これは鹿児島語では「サカ=サケ」という発音になるから「佐賀(古音はサカ)」や

 「坂・大阪・坂井・堺・境」などはそれから生まれた国名や地名の子孫なのである。

 このサカにはもう一つ「塞」の字がある。

 天狗の面で知られる猿田彦は「塞の神」と呼ばれる。

 彼は『記・紀』の天孫降臨に登場するがその容貌からみて

 モンゴリアン系統ではない。

 その「サカのカミ=塞の上」という国有代名詞は

 彼がスキタイ人の王だったことを

 表わしているのである。

 こうみてくると「巴利国」は彼がいた国でなければならない。

 だがそれは「塞国」ではなく、

 わざわざ「パーリ国」と呼ばれていたのである。

 このことは卑弥呼当時、釋迦と同じ言葉を知り、

 経典を正しく読めることが尊とばれて特別視され、

 新たな人種名=国名になっていたことを示している。

 これに似たことは現代でも見る。

 今の日本でも欧米人を特殊視し、

 尊敬の念をこめてみる人がいるのは、

 「自分にはなかなか覚えられず難しい言語を欧米人がスラスラ話す」からである。

 古代にはより以上に卑弥呼らにとってスキタイ人が貴重な存在だったことが、

 国の呼び名をパーリという特殊なものにしたのである。

 だから巴利国は、仏教と経典がなければ生まれなかった国名なのである。

 これはインド史・仏教史の側からみた「倭は仏教徒である」という動かぬ証拠である。

 あらゆる角度から見るという原則がどんなに大切か、おわかり戴けたと思う。

 倭人と古代仏教の問題を検討しているのであるから

 仏教史の側からも見るのは当然の常識なのだが、

 過去のヤマタイ論者はそんなととを考えもしなかった。

 私たちが議論する相手ではないことを忘れてはならない。

 『参考』
  ウワイト(倭人)大学院講義録 

 『My ブログ』
 ウワイト(倭人):大学講義録

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