2012年1月31日火曜日

応神天皇の名替え


『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:1頁

応神天皇の名替え
応神天皇の名替え

前回の最後でお約束した

「二つの倭の発生」=「応神天皇の名替え」という

重要な問題の解き方をみてみよう。

これが何を意味するかを考えるためには、

この天皇が何時の人物で、他の人物とどんな関係にあったか?…、

わかっているデータの整理から始める必要がある。

応神天皇は「誉田天皇」「品陀和気天皇」と書かれているが、

神功皇后=壹與の次の天皇だから、

壹與当時の天皇=位宮=垂仁天皇の皇子・本部別と一見、同一人のようにみえる。

『日本書紀』は「本都」を「ホンタ」と読んで「誉田」と当て字し、

『古事記』はその誉田を「ホンダ」と読んで「品陀」と当て字を変えたことが、

はっきりみてとれる。

名前を取り替えたというのだから、

同じ名をもった人物が二人できたわけである。

その前の持主と後の持主のうち後の持主が応神天皇なのだから、

「前の持主は誰か?」というのがこの問題の主題なのだ。

母の壹與は247年に女王になったのだから3世紀半ばの人。

彼女の前に君臨していたのが卑弥呼で、この二人は政権を握ってはいたが、

どちらも女性で、その名にも「ホンタ」はないから、名替えした相手候補には入らない。

候補者はこの二人の周囲にいる。

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2012年1月30日月曜日

『八幡教』が生まれた世界宗教史



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:24~26頁

 『八幡教』が生まれた世界宗教史
 『八幡教』が生まれた世界宗教史

 言葉を変えると、

 ヤマト朝廷の権威の源が『八幡信仰』だったのである。

 だから全国に3万を超える八幡社があり、

 それが会社のような働きをもつ「社」の全国組織を形成し、

 朝廷の名が「八幡徒=ヤマト」と呼ばれてきたのだということが、

 はっきりわかる。

 では八幡とはなにか?…。

 それは「八幡大菩薩」の名が示すように

 実体は仏教、概観は神道の日本独特の宗教だが、

 その実体は次のような歴史が産み落した混血児である。

 ① シュメルでは「山」を崇拝する伝統からジグラット=巨塔を神体とした。
   
   この宗教をバビロンの滅亡後、日本列島へもちこんだのが「カリエン」人たちで、

   彼等が神と、その継承者を「シュメル=スメラ」「王=キ」=「スメラギ」と呼び、
   
   バビロンのアキツゥの祭り(正月)が「秋津島」の語源になって、
   
   神話の古代国名を生んだのである。

 ② シユメルがスメラになったのは、

   それが日本へくる前にインドに入って「ヒマラヤ」
   
   「スメラ山」と呼んだからであるが、そこでスメラはさらに多くの方言によって、

   「スベラ」から「スバラ=素晴らしいの語源」「スバ・スワ・シバ・ジマ・ジャマ・ヤマ」

   などと訛り、その主神を「シバ・ヤマ」神とするシンドゥ教の一派「シバ派」になった。


 ③ それより前、バビロンに倒されたシュメル人たちは、中国に入って「周」と呼ばれ、

   殷人の帝国・商を倒して天下を取ったが、以後、「山」を崇拝する伝統が中国各地の

   名山崇拝となり、それを台湾を「ホーライ=ギリシャ神話の季節の女神」と呼ぶ

   ギリシャ系中国人・徐福らの「方士」が受け継いで「道教」の体系をととのえた。

 ④ これが秦の始皇帝のとき、徐福が日本に「ヤマ教」としてもちこんだもので、

   それは本来「オリンパス山」を神の住いとするギリシャ宗教につながる山岳宗教だから

   「ヤマ」で、種子ガ島・南種子町の「広田海岸遺跡」から発見された「貝製装身具」

   漢字の「山」と、ギリシャ文字の「アイ・クマ」とが書かれているのは、

   このためなのである。

 ⑤ この地域には、さらに古くからインド語や、マレー語を話す人々が定住していたし、往来していた。

   それは土器などの共通性と貝製腕輪などの出土品、それに今も大量に日本語の中に

   残っているマレー語やパーリ語ヒンドスタニーの単語が証拠であるし、
  
  『記・紀』の神名や人名もまた動かない証拠群をかたちづくっている。

 ⑥ こうしたものが相互に影響し合って次第に融合したものに、卑弥呼当時に最大勢力に

   発展し君臨したのがアショカ仏教で、その後をこの「八幡教」が継いだことが、

  『魏書倭人章』の卑弥呼・壹與と、『記・紀』の[神功皇后紀]から複元できる。

 ⑦ 「ヤマン」に対する当て字が「八幡」で、これを「ヤバーナ」と発音したものが、

   中国から西の広いアジア全域で「ギリシャ人」を指す固有名詞として使われてきたのである。

 ⑧ しかし「八幡」は『大隈正八幡の縁起』に登場する八幡=応神天皇と、

   天皇に位を譲った先代の八幡がいて、それが二つの「倭」を生んで、

   日本の建国史を非常に複雑にしているから、

   この『倭』を主役にした講義は、その締括りとして、

   この問題を解明せずに通過することはできない。

   なぜなら『古事記』の[神功皇后記]に応神天皇が「イザサ=伊奢狭・和気大神」と

   名前を取り替えたという話しが載っているからである。

 次回にそれ解明しよう。

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ヤマト朝廷の語源は『八幡徒』



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:23頁

 ヤマト朝廷の語源は『八幡徒』
 ヤマト朝廷の語源は『八幡徒』

 ここまでくると、天武天皇の正体も明らかにしておかねばならない。

 彼は天智天皇が樹立した日本朝廷を倒して、もう一度、実質「倭=ウワイ」

 ヤマト朝廷をつくったのだから、

 この問題こそ本講義の主題・『倭』の総括そのものだからなのである。

 「ヤマト」というのは「ハヤト」と対照になった固有名詞で

 「海幸・山幸」神話に語源があるから

 「ヤマト=山人・ハヤト=海人」であって、争いがあったのは古いことで、

 7世紀後半の天智・天武時代にはそれが一体化していたことが天武天皇の名でわかる。

 彼の初めの名は「大海人」だから「倭・隼人=上井・隼人」または

 「大隈隼人」の領主ということである。

 彼が間違いなく「隼人」の王だとわかると、

 彼が新たに開いた朝廷がなぜ?

 「ヤマト朝廷」と呼ばれたか、その理由が明らかになる。

 隼人町に現在もある鹿児島神宮は、

 江戸時代以前までは全国各地に

 「市=いち」

 「座=ざ」を設け、

 「歩き巫女」

 「座頭」

 「検校=けんぎょう」

 「神主」

 その「位=くらい」を授け、全国に派遣して、

 支配、運営していた日本の「祭政一致」の大本山だったからである。

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大化大戦(乙巳の変)は高句麗主導連邦への復讐戦



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:22頁

 大化大戦(乙巳の変)は高句麗主導連邦への復讐戦
 大化大戦(乙巳の変)は高句麗主導連邦への復讐戦

 その動かない証拠が7世紀の大化大戦(乙巳の変)の前に「中の大兄の皇子」が

 蘇我入鹿を斬ったとき言った言葉として記録されされている「革命の理由」である。

 彼はこう言った。

 「鞍作は天宗を滅ぼし尽くして将に日の位を傾けようとしている。

 絶対に鞍作に天孫の代りをさせてはならない」。

 これは「天孫が王たるべき国なり」という神勅を前提にしている。

 鞍作とは「クラックリ=高麗造=高句麗国造」のことであり、

 言葉を変えると高句麗王になるが、

 中央政府からみれば「国造」すなわち「知事」のようなものだったのである。

 そんなものが本当の天孫族の人々を押しのけて皇帝の座に座っているだけならまだしも、

 天孫系を殺し尽くして皇室に代わろうとしているのは許せない」というのである。

 本当かどうか?孝徳天皇から言語復原してみよう。

 孝霊天皇の孝と同じ「孝」は高句麗系だということである。

 では天孫は誰だろう?…。

 「天」は沖縄~大隈語で「チヌ・チン」で

 標準語の「キヌ=黄の」、

 鹿児島語の「キン=金」である。

 天智天皇は「天命・開別」=「チンのみこと・ハラキわけ」で、

 『日本書紀』や『三国史記』の他の当て字では

 「金・春秋=キン・ハルアキ」と書かれている。

 沖縄語の「チン・ハラキ」は標準語の「キン・ハルアキ」だから、

 天を名乗る彼も天孫族なのである。

 近畿に始めて入った天皇は「倭王・済」以後で、

 興=蓋鹵王が都にした百舌鳥耳原は

 チヌ地域にあるから、

 そこが天下の中央=五彩圏連邦の「黄の国=キン・チヌ」だったことは明瞭だ。

 その応神・仁徳天皇系の皇朝武烈天皇で絶えて、

 応神天皇の5世孫と称する継体天皇が後を継いだが、

 「邑婁」の王だったことは18頁で明らかになっている。

 だが他の系統は2人の皇子・安閑、宣牝、2代の天皇で終り、

 高句麗王であることの確かな

 「欽明天皇=広開土王」系の敏達、用明から孝徳天皇まで続いたのである。

 これが鞍作なのだ。

 広開土王と長寿王に苦しめられた報復としての大化大戦の構造がよく見えたと思う。


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用明天皇時代の実力政権は「高句麗藩」



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:21頁

 用明天皇時代の実力政権は「高句麗藩」
 用明天皇時代の実力政権は「高句麗藩」

 だからもうおわかりのように、

 「長寿王」という名乗りは「山口県」を指す「長州王」を美化した当て字だったのである。

 しかし「まさか……」という方がありそうだから、証拠をも一つ提出してみよう。

 それは彼の次の用明天皇の名乗りである。

 橘豊日天皇(『日本書紀』)  橘豊日王(『古事記』)

 どちらも同じ「橘=タチバナ」に、孝徳天皇と同じ「豊日=フジ=百済」がついている。

 このタチバナは「多遅馬奈」と書くと「タジマナ」と読めるから

 「但馬国=タジマナ」だとみると、

 彼は蘇我・稲目の娘・石寸名(イシキナ)・意富芸多志比売(オオキタシヒメ)と結婚しているので、

 「稲目」は「イナの国」に対する当て字で、但馬・猪名・豊島と領土がつながる。

 これは彼の代になると、但馬から猪名、豊島と領土が拡張したという名乗りになつているから、

 5代あとの孝徳天皇の名乗りの「天萬・豊日」はこの領土を受け継いだものにさらに

 「天萬」という領土が加わったものだとわかる。

 これで「長寿王」が「長州王」でなければならない理由がおわかりいただけたと思うが、

 その中間には「呉=クレ=高麗」という地名まであるので疑いは残らない。

 こうして見てくると『日本書紀』が書く天皇家は、倭王・武の系統が絶えたあと、

 高句麗系の天皇家が後を継いだ事実が明瞭に見えてくる。

 だが、その交替は決して外国による侵略ではない。

 いわば徳川政権時代の御三家のような関係にあった

 「親藩=しんぱん」の間の政権争いであり、

 政権授受であったのである。

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倭王・武の仇敵だった敏達天皇



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:20頁

 倭王・武の仇敵だった敏達天皇
 倭王・武の仇敵だった敏達天皇

 武の手紙は高句麗を悪くいうが、よく読むと、

 先祖代々海を北に渡って95国を侵略したと書いてある。

 海北95国は朝群半島以外にはないから被害者は高句麗のほうなのだ。

 武の時代を細かく考証してみると、その時の敵が

 「高句麗・長寿王・巨漣=フトタマ=太珠敷天皇=敏達天皇」だったことがわかる。

 孝霊天皇の太瓊(瓊は珠)に一致する名乗りだ。

 彼は98才で死んでいるから、長寿王と号したと

 『三国史記』は書くが、名乗りは「領土名」なのだから、それを探る必要がある。

 それは倭王・武が「道 百済より遥かに、船舫を装おいととのえて」

 「天極(中国・宋の朝廷)に帰崇(心から敬って服従)」したいと思っているのに、高句麗が無道で…」

 と書いていることが手掛かりになる。

 彼がいう百済は、大坂の大国・百済=モズミで、

 朝鮮半島の小国・百済=クダラではない。

 大坂から船で宋まで行くには当時の船では瀬戸内海を通り、

 玄海灘に出て壱岐、対馬を経て、

 朝鮮半島西側の沿岸を北上して遼東半島に渡る。

 おわかりの通り北鮮の高句麗本土を通る必要はない。

 このコースで邪魔ができる土地は、

 瀬戸内海の出口を押えている山口県の下関だけである。

 そこを押えられると海流のために四国、

 九州をぐるりと迂回することの不可能だった当時は、

 中国へ行こうとしても、もうどうすることもできなかったのである。

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ダブル皇朝?…欽明天皇=広開土王



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:19頁

 ダブル皇朝?…欽明天皇=広開土王
 ダブル皇朝?…欽明天皇=広開土王

 ここまでわからないと、「倭人」とは何だったのか…?。

 本当にわかったとはいえない。

 高句麗や邑婁を完全に外国あつかいしている『魏書倭人章』は、

 真実の歴史を知らない記録だということが、おわかりいただけたと思う。

 またこれで高句麗が倭国政権の内側の国で、だからこそ

 「高句麗・広開土王」として

 『三国史記』に記録された

    「開広庭天皇=欽明天皇」

  次が「高句麗・長寿王・巨漣=フトタマ=太殊敷天皇=敏達天皇」

 その次が「高句麗・文咨明王=モチメイ=用明天皇」


 であっても少しも不思議ではない。

 だが倭王・武の名乗りは、自称でも

 「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」


 であって、どこにも高句麗も高麗も見当たらない。

 しかも彼の上表文にはこう書いてある。

 「…句驪 無道 図欲見呑 掠抄 辺隷…」

 「句驪」は高句麗のこと、

 「道にはずれたやつで、見るものすべてを欲しがって自分のものにしょうとし、

  私どもの辺境の人民を掠めさらっていきます……」。

 これでは高句麗は同じ国どころではない。

 恨み重なる仇敵である。

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2012年1月29日日曜日

大国主~継体天皇~天智天皇の謎は同じ



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:18頁

 大国主~継体天皇~天智天皇の謎は同じ
 大国主~継体天皇~天智天皇の謎は同じ

 これで「廬戸」はお終いではない。

 「イホド」には「意富戸」という当て字ができるが、

 これは「オホト」とも読めることに注意がいる。

 なぜなら謎の人物とされる継体天皇の名乗りは

 「男大迹(『日本書紀』)、袁本抒(『古事記』)」

 と書かれていて、どちらも「オホド・オホト」と読まれている。

 だから当て字を「意富戸」に変えてもいいし、

 そのほうが「イフド」と読むにはずっといい。

 このことでわかるのは、

 継体天皇が住んでいた「三国」とは

 『三国史記』の三国、

 すなわち朝鮮半島のことだったのである。

 文字をかえれば彼は「邑婁」と名乗っていたのだ。

 この「意富」は在来は「オフ」と読むことになっていた。

 そして「大」と同じ意味に使われていた。

 だが文字の発音からいえば

 「意=イ、富=トミ=イトミ」と読むのが正しい。

 このイトミは鹿児島語なら「イツン」という発音になる。

 そしてこれに当て字すれば「出雲」か「出水」になる。

 すると「大国主」は「意富・国王」で、

 その意富は「出雲」なのだから「大=意富=出雲」で、

 同じものだったことがわかる。

 だから天智天皇の「大津」も「意富都」であり、

 それは「意富戸」や「廬戸」「邑婁」でもあったのである。

 これだけわかればどれくらい謎が解けるか…考えてみていただきたい。

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壮大な真の歴史を小さく縮めた天武天皇



『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:17頁

壮大な真の歴史を小さく縮めた天武天皇
壮大な真の歴史を小さく縮めた天武天皇

こうしたことがわからなくなっているのは、

7世紀のあの新羅軍と唐の援軍とによる内戦

「大化大戦」によって五彩圏連邦が消滅し、

半島が独立して領土が激減した屈辱の歴史を

消去する目的で、天武天皇が『日本書紀』を作ったからである。

そのためには過去の天皇たちの都をすべて奈良にあったものとして、

その証拠になる地名を奈良県とその周辺に創作する必要があった。

本来は高句麗・邑婁だったものを文字を変えて

「黒田」「廬戸」とし、

それに合う地名を磯城郡に新たに作ったのである。

「まさか…新しい地名を作るなんて…?」とお思いかもしれないが、

奈良にはその「新しく作った地名」が無数にある。

それは日本全国の国名や地名を網羅している。

薩摩もあれば豊前・吉備・出雲・飛騨から西之宮などまである。

「狛=コマ」もあれば「白木=シラキ」もある。

壹與は沖縄の「ヨナバル=與耶原」で即位したが、

「ヨナバリ=吉隠」もあるから、

壹與が奈良で即位したということもできる構造に仕上げられているのである。

地名からいえば奈良は日本の縮図とも言えるが、

天武天皇は実際に東アジアの

全域に広がっていた壮大な古代日本の歴史を、

ちっぽけな西日本だけに縮めてしまった。

これが過去に神聖とされていた「皇国史観」の正体なのである。

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壮大な真の歴史を小さく縮めた天武天皇



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:17頁

 壮大な真の歴史を小さく縮めた天武天皇
 壮大な真の歴史を小さく縮めた天武天皇

 こうしたことがわからなくなっているのは、

 7世紀のあの新羅軍と唐の援軍とによる内戦

 「大化大戦」によって五彩圏連邦が消滅し、

 半島が独立して領土が激減した屈辱の歴史を

 消去する目的で、天武天皇が『日本書紀』を作ったからである。

 そのためには過去の天皇たちの都をすべて奈良にあったものとして、

 その証拠になる地名を奈良県とその周辺に創作する必要があった。

 本来は高句麗・邑婁だったものを文字を変えて

 「黒田」「廬戸」とし、

 それに合う地名を磯城郡に新たに作ったのである。

 「まさか…新しい地名を作るなんて…?」とお思いかもしれないが、

 奈良にはその「新しく作った地名」が無数にある。

 それは日本全国の国名や地名を網羅している。

 薩摩もあれば豊前・吉備・出雲・飛騨から西之宮などまである。

 「狛=コマ」もあれば「白木=シラキ」もある。

 壹與は沖縄の「ヨナバル=與耶原」で即位したが、

 「ヨナバリ=吉隠」もあるから、

 壹與が奈良で即位したということもできる構造に仕上げられているのである。

 地名からいえば奈良は日本の縮図とも言えるが、

 天武天皇は実際に東アジアの

 全域に広がっていた壮大な古代日本の歴史を、

 ちっぽけな西日本だけに縮めてしまった。

 これが過去に神聖とされていた「皇国史観」の正体なのである。

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卑弥呼の父は「孝霊」は「高麗天皇」



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録05:14~16頁

 卑弥呼の父は「孝霊」は「高麗天皇」
 卑弥呼の父は「孝霊」は「高麗天皇」

 私たちは倭迹迹日百襲姫と卑弥呼が同一人であることを突きとめている。

 それは『加治木義博著:卑弥呼を攻めた神武天皇』ほかでご覧にいれたように、

 縦横どんな角度からみても立体的に立証する記録が大量にあって、

 もうそれを突き崩す方法がないからである。

 彼女は崇神天皇より前の7代の「欠史天皇」の一人、

 第7代・孝霊天皇の皇女である。

 まず孝霊天皇の名乗りから見ていこう。

 『日本書紀』 大日本根子彦太瓊天皇  『古事記』 大倭根子日子賦斗邇命

 このうち大日本根子彦と大倭根子日子は

 4、6、7、8、の4代に同じ名乗りがついているので、

 同じ領土名を並べた肩書として除外すると、

 個性的な部分は「太瓊」と「賦斗邇」だけである。

 これは「太珠」と書いた当て字もある。

 これは倭の五王の場合の、名乗りの最後についた

 讃、珍、済、興、武という

 「最新領土名」だから「地名」なのである。

 これはどこを表わしているのだろう。

 賦斗邇=フトニだが、太瓊はフトニのほかにタニとも読める。

 すると卑弥呼が沖縄出身であることを考えると、

 エ・オの母音のない沖縄語では

 「ネ」は「ニ」に変わるから、

 「タニ」がタネの沖縄発音に一致すると気がつく。

 しかし種子ガ島は「百・豊・穂=ホの国」

 大隅発音で「フ」だとみると「フトニ」も

 「百・種子」をフトニと発音した大隈語と見ることもできる。

 『古事記』のほうも必すしも間違いといいきることはできない。

 だが念のため他にも地名を名乗りにした欠史天皇があるか見ておこう。

 第4代の大日本彦耜友天皇(『日本書紀』)=大倭日子鉏友命(『古事記』)は、

 「耜友・鉏友」を「ソトモ」と読むと沖縄発音では「サツマ」になり、

 「薩摩」という地名に一致する。

 この天皇の皇居は『軽之境岡宮』と『古事記』にあり、

 『日本書紀』も「軽に遷都」と書いてある。

 「カル」は「鹿児」と書いてもやはり「カル」と読めるから、薩摩と一致する。

 欠史天皇は歴史を水増しするために付け加えた架空の天皇だという説があるが、

 それは奈良県に紀元前後から朝廷があったと信じているからで、

 こうして名乗りで皇居の所在地を復元してみると、

 少なくともこの二人の天皇の場合、

 2~3世紀の卑弥呼時代の領土や地域の実情にぴったり一致する。

 この天皇たちは確かに実在したとしか考えられない。

 しかし孝霊天皇は即位する前に都を

 「黒田・廬戸の宮」に移したと書かれていて、

 これは奈良県磯城郡の地名だということになっている。

 名乗りは種子ガ島で、

 都は奈良県だというのでは、疑いをもつなというほうが無理であろう。

 ご存じのとおり卑弥呼当時の高句麗は五彩圏連邦の1国で、位宮が王だった。

 高句麗は北にある「黒の国」である。

 また鹿児島語は「ラ」を「ダ」と発音するから「クロダ」は

 「黒・ラ=国」すなわち高句麗のことである可能性がある。
 
 なぜなら地名は一つで充分なのに「黒田」「廬戸」と重ねて書いてある。

 これは前のものが広域の地名で、後のものが小地域の名であるとみていいから、

 前が国名で、後がその中の都市名か、

 または別の国名を大小の順に並べたものかだということになる。

 すると高句麗には「廬戸」に合う都市はないが、

 隣接した小国が『魏書東夷伝』に記録されている。

 廬戸はイホドと読めるが、

 鹿児島語のこの「ド」は「ロ」に当たるから「イホロ」になる。

 沖縄~大隈語なら「ホ」は「フ」でなければならない。

 すると廬戸は「イフロ」に対する当て字の可能性が強い。

 高句麗に隣接するその候補地は「邑婁」で、「イフロー」と発音されてきた。

 これは突飛な想像に過ぎないのであろうか?……。

 そうではない。

 このことを私たちに教えようとした有名な人物がいる。

 淡海の三船だ。

 彼は天皇の漢風諡号(かんふう・シゴウ)をつけた人物である。

 彼はこの天皇に「孝霊」とつけた。

 これは「コーレイ=高麗」に対する当て字だったのである。

 『記・紀』は高句麗のことを一度も高句麗とは書かない。

 すべて「高麗」と書いている。

 「孝霊」は疑いなく「高麗天皇」だったのだ。

 これで、なぜ?…孝霊天皇一族の位宮が高句麗王だったのか、

 おわかりになったと思う。

 卑弥呼と位宮は本当に同族だったから

 天照と素戔鳴(スサノオ)の神話が生まれたのだ。

 『参考』
  ウワイト(倭人)大学院講義録 

 『My ブログ』
 ウワイト(倭人):大学講義録

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