2012年1月15日日曜日

明瞭に仏教による葬儀



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録03:2~3頁

 明瞭に仏教による葬儀

 『魏書倭人章』にはどう書いてあるか?…。

 卑弥呼が「鬼道で国民をうまく指導していた」というのは

 もう常識になっている事実だから、

 「その結果どういう生活現象が見られたか?」

 と考えるのが正常な頭の働きであり、

 正しい文献研究態度である。

 しかしもちろん勝手な創造は許されない。

 『魏書倭人章』に記載されている

 記事=Aのほかに、

 『記・紀』その他の共通の登場者、

 たとえば卑弥呼と天照大神の記事の一部分のような、

 この二人の人物は「同一人である」というふうに、

 その相互の関連が確実に

 「立証済みの記事=B」や、

 「儀式や慣習、発掘出土品など疑いなく実在していたもの=C」

 などと比較検討する必要がある。

 倭人の宗教行動は『魏書倭人章』に「

 幾種類もの史実」が詳しく明瞭に記録されている。

 「其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死 停喪十余日 当時不食肉 

  喪主 哭泣 他人 就歌舞飲酒」

 これを正確な日本語に翻訳すると

 「其(倭人に) 死(死者が出た時の習慣は) 

  有棺(木製の棺は作るが)

  無槨(木や石や粘土などで外囲いを造ることはしない)

  封土(そのままで土葬して)

  作冢(土を盛り上げて塚を造る)」

 以上は

 ①「死者の死体の処理法」である。ミイラ葬でも風葬でも水葬でも火葬でもなく、

 ②「土葬」だったことがまずはつきりと「区別」できる。これは、今では衛生上の

   配慮から特殊な地域以外は市外を火葬にしてすぐ葬るが、それ以外は

 ③「現在の日本の習慣とほとんど変わらない」。この今の習慣というのは

 ④「仏教による葬儀の習慣」のことである。また木棺であることは、

 ⑤「当時、甕棺葬しかなかった北部九州での記事ではない」こともわかる。帯方郡使が

   書いたこの実見談は、それが北部九州以外の土地での観察であることを証言している。

 それはまた

 ⑥「甕棺葬について何一つ書いていない」ことでも重ねて立証されている。当時の中国では

   木棺葬が常識で、甕棺葬は珍しかったに違いないから、帯方郡使が甕棺葬を見たなら必ず

   特筆大書しなければならない。その記事が「ない」ことは彼が倭人を観察した地域が

   北部九州ではなかったという動かない証拠なのである。

 ではそれは近畿地方だったか?…。

 私は兵庫県伊丹市勝部地区の大阪空港拡張工事に伴う文化財発掘調査に従事して、

 弥生中期の木棺葬群を実見しているが、当時の近畿地区には銅鐸が広く実在していた。

 銅鐸は儀式用具だから葬儀にも必す使用されたはずで、見聞をしたなら必ず記録するのに、

 ⑦「銅鐸についても何一つ書いていない」。これは彼が

 ⑧「近畿地方を全く知らないことの動かぬ証拠」である。

   帯方郡使の道程記録では邪馬壹国は

   南九州以外には存在しないが、

   それは葬制をみてもこんなに明瞭に立証されているのである。

 『参考』
  ウワイト(倭人)大学院講義録 

 『My ブログ』
 ウワイト(倭人):大学講義録

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