2015年1月31日土曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承③

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫

 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭
 浅草神社

 2.社殿、神輿、その他

  ◎社殿

   今の社殿は徳川三代将軍家光が慶安2年(1649)12月に

   1,129両1分の費用にて建立寄進したもので、

   徳川初期の代表的建築で、本殿並びに幣殿と拝殿とを

   渡廊下でつないだ、権現造り風の社殿である。

   境内地に1,452坪9合1勺、社殿建坪45坪7合8勺。

    本殿 三間社流造

    幣殿 桁行3間、梁間1間

    拝殿 桁行7間、梁間3間

   尚、昭和21年に国宝建造物に、

   更に昭和26年重要文化財に指定され、国家の保護を受けている。

 ◎修復

  記録に残っている社殿の修理は大体次の如くである。

   明治5年 天明元年 文化12年 天保6年

   明治8年 天明26年 大正2年 大正6年

 ◎神輿

  戦前にあった神輿は同じく家光により、

  寛永14年に建造寄進されたもので、

  3百年間かつぎぬかれた見事なもので、

  昭和2年依頼保存され、新しく3基の神輿を新調したが、

  戦災により四の宮(明治初年田町で新調した東照宮の神輿)とも

  新旧7基全部惜しくも消失してしまった。


  現在の神輿は一の宮、二の宮が昭和25年に、三の宮が昭和28年に

  四十四ヶ町の氏子によって奉納されたもので、

  宮本神輿店の製作である。

  但し昔の神輿より胴が細く、わらび手が大きく、近代的ではあるが、

  古風な味は失われた。
 
  神輿の形一つにも時代の流れが感じられる。

 ◎「三社大権現」の額は公遵親王の筆であったが、

  改称後は越前の太守松平春嶽が書いた「浅草神社」の額が

  拝殿の正面に掲げられている。

  名高い浅草神社の古楽面は現在でも無事保存され、

  一番古いものには「元久」の銘があり、

  何れも古色蒼然たる逸品揃いである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年1月12日月曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承②


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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫

 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭
 浅草神社

 1.神社の沿革

  ◎祭神

   祭神は

    土師真中知命(ハジノマツチノミコト)

    檜前浜成命(ヒノクマハマナリノミコト)

    檜前竹成命(ヒノクマタケナリノミコト)

   の三神を主座神とし、徳川家康と大国主命を合祀する。

  ◎社名

    昔は俗に三社権現と云われていたが、

   明治元年に三社明神社と改められ、

   同5年10月11日に郷社に昇格し、

   更に翌6年2月浅草神社と改められた。

    当社の社紋の三つ網の紋は土師氏並びに檜前氏の家紋、

   葵は東照宮即ち徳川家の家紋である。


  ◎起源

    浅草神社の起源については、明確な資料がなく、

   その創建時代を確定することは不可能であるが、

   権現思想との関係から、本地垂述説が流行しだした、

   平安から鎌倉時代以降ともみられ、

   網野宥俊氏もその著『浅草神社の今昔』(昭和38年刊)の

   中に於いて

   「今より650年から700年前の創建と推考することにおいて

    一応異論はない様に思われる」と云われている。

  ◎由来

    神社関係の古述としては『藤原煌窩文集』や

   『本浅神社考』(林羅山著)の二書に、

   三社権現に関する記述があり徳川時代の書物は

   大体この書の伝承をそのまま伝えているが

   これは浅草寺縁起に

   見える浅草権現示現の伝承とほぼ一致している。

   即ち推古天皇の36年3月18日(陽暦4月30日)、

   春日うららかなる朝まだき、猟師の檜前浜成、竹成兄弟が、

   浅草浦(今の隅田川)で漁労に精を出していたが、

   その日に限り一匹の漁もなく、

   投網にかかるのはただ人型の像だけで、

   始め兄弟は観音像であることを知らず、

   幾度か像を海中に投げ捨て、

   何度場所を替えて網を打ってもかかるのは

   不思議と人型の像だけなので、

   最後には兄弟も不思議に思い、

   その尊像を奉持して今の駒形から上陸し、

   エンジュの切株に安置して、

   当時郷士の文化人であった土師真中知に

   この日の出来事を語り、

   一見を請うたところ、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして、

   自らも帰依の念深仏体であることを告げて、

   諄々との功徳、おはたらきにつき説明する所があった。

   兄弟の者は始めてきく観音の現世利益仏であることを知り、

   何となく信心のもようされて、深く観音を念じ、名号を唱え、

   吾ら猟師なれば、

   漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、

   明日はよろしく大漁を得さしめたまへ、と厚く祈念して、

   翌19日再び網を浦々に打てば、

   願いの如く船中に魚くづ満ちて、

   大漁を得、土師真中知は間もなく剃髪して沙門となり、

   自宅を改めて新構の寺となし、さきの観音像を奉安して、

   供養護持のかたわら郷民の教化に

   生涯を捧げたというのが、

   『浅草寺縁起』伝承の起こりとなっている。

   『承応縁起』による真中知の没した

    (舒明天皇の11年(639)3月18日)後、
  
   間もなくその嫡子が観世音の夢告を蒙り、

   「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、

    故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、

    その感得供養の力は賞すべきなり。

    即ち観音堂の傍らに神ととして親達を鎮守主すべし、

    名づけて三社権現と正氏、いつき祀らば、

    その子孫、土地と共に繁栄せしむべし」

   といった意味の告示があって、

   ここに三社権現社が創建された様になっている。

   これによると三社の創建は

   今を去る1357年にの昔と云うことになるが、

   これは少々無理の様で、文中に見える「権現」の初見すら、

   既に承平年中(923~937)であり、

   『応永縁起』に於いて土師真中知を阿弥陀如来の化現とし、

   檜前浜成を観世音菩薩、檜前竹成を勢至菩薩の

   夫々化現としている事からも平安末期から鎌倉へかけて

   仏教普及の一つの方便として、

   仏が本であり、神は仏が権(か)りに姿を現じたものである、

   とする権現思想が流行し出した以後に於いて、

   上記の三氏の末孫が宗祖のあまり郷土神として

   祀ったものであろうと推定される。

  ◎社家

    三社権現の祭神の子孫は代々僧形で、

   浅草寺及び浅草神社に奉仕し、

   いわゆる社僧として三社の社務を分掌していた。

   土師氏の子孫は専当坊、浜成の子孫は斎当坊、

   竹成の子孫は常当坊と称し、世に浅草寺三譜代と唱え

   明治維新にまで至ったが、

   折りしも神仏分離の政策に当たり、

   専当坊長夷は復飾して土師内膳と改め、

   純然たる三社の神職となった。

   現宮司の矢野泰良氏はこの土師氏62代に当たる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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2015年1月9日金曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承①


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 《参考:年表・資料》

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    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫

 浅草神社:東京都台東区浅草

  「社伝」推古天皇36年に檜前浜成、竹成の兄弟が

   隅田川投網を用いて漁をしていたところ、

   網に人型像が何度かかかって上がってきた。
 
   そこで土師真仲知(あるいは真中知)にみせたところ、

   聖観音菩薩像と判ったので、土師真仲知が沙門に入り、

   自宅を寺として像を安置することとしたのが浅草寺で、

   後になって真仲知の子孫が夢のお告げにより、

   土師真仲知、檜前浜成、竹成を奉祀し

   三社権現と称するようになった。

  〇土師氏は推古天皇の時代(6世紀後半)に

   ここにいたことを示している。

  〇「檜前」は奈良県高市郡明日香村檜前と同名、

   その周辺に見瀬、呉原など百済の呉人に係わる地名がある。

   また、同地区に於美阿志神社が鎮座し、

   漢人(あやびと)に係わっており、百済系の渡来人の足跡がある。

  『日本書紀』欽明天皇元年(593年)の8月条
  
   「集秦人・漢人等諸蕃投化者、安置国郡、編貫戸籍。

    秦人戸数総七千五十三戸、以大蔵掾為秦伴造」

  『日本書紀』天智天皇5年(666年)条

   「この冬百済(くだら)男女2千余人を以て東国に居らしむ」

  〇久伊豆神社(さいたま市岩槻区宮町)の創建由来

   欽明天皇の御代(539~571)土師氏が出雲から渡来して開創

  ※遅くとも6世紀の前期後半には秦氏族は

   東国に移り始めていたと推測される。

 三社祭(5月17日・18日/第3日曜日)神輿渡御

  輿(こし):כֶסתֶל,KISTL,kestel,箱、(Grk.)kasten

  掛け声「ソイ・ヤー、ソイ・ヤー」

   :סִַ יַה,SI YH,sai yah,「行け神よ」

  ※<ヨシュア記>

 第3章 ヨルダン川を渡る

 3:1 ヨシュアは、朝早く起き、

   イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、

   ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。

 3:2 三日たってから、民の役人は宿営の中を巡り、

 3:3 民に命じた。

   「あなたたちは、あなたたちの神、

    主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、
 
    今いる所をたって、その後に続け。

 3:4  契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、

    それ以上近寄ってはならない。

    そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、

    あなたたちの行くべき道は分かる。」

 3:5 ヨシュアは民に言った。

   「自分自身を聖別せよ。

    主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」

 3:6 ヨシュアが祭司たちに、

   「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、

   彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。

 3:7 主はヨシュアに言われた。

   「今日から、全イスラエの見ている前であなたを大いなる者にする。

    そして、わたしがモーセと共にいたように、

    あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。

 3:8  あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、

    ヨルダン川の水際に着いたら、

    ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」

 3:9 ヨシュアはイスラエルの人々に、

   「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」と命じ、

 3:10 こう言った。

   「生ける神があなたたちの間におられて、

    カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、

    アモリ人、エブス人をあなたたちの前から

    完全に追い払ってくださることは、

    次のことで分かる。

 3:11 見よ、全地の主の契約の箱が

    あなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。

 3:12 今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。

 3:13 全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足が

    ヨルダン川の水に入ると、

    川上から流れてくる水がせき止められ、

    ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」

 3:14 ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、

    契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、

 3:15 ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、

    ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、

    箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、

 3:16 川上から流れてくる水は、

    はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。

    そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、

    民はエリコに向かって渡ることができた。

 3:17 主の契約の箱を担いだ祭司たちが

    ヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、

    全イスラエルは干上がった川床を渡り、

    民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

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 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 1.浅草神社・浅草寺の起源伝承

 2.土師真仲知・檜前兄弟の出自

 3.檜前名の由来〔奈良県:明日香村檜前〕

 4.於美阿志神社〔明日香村檜前〕

 5.伊都〔和歌山県橋本市〕の墨田と真土

 6.「マッチ〔真土〕」「スミタ〔墨田〕」の語義

 7.「アサクサ〔浅草〕」の語義と「聖天宮」

 8.「イマト〔今戸:聖天宮の隣り〕」の語義と「土師」

 9.檜前兄弟の職業(漁師)と「山谷」〔江戸名所図会の山谷堀〕

 10.日本堀(現在)の本義と呼称

 11.浅草神社の御神輿渡御祭事〔三社祭〕での

   掛声「ソイヤー・ソイヤー」

 12.「上野」の本義


  日本の古代史には謎が多く秘められています。

  特に5世紀以前の歴史にはそれが顕著です。

 当講座はそのような不明のままになっている謎を

 『古事記』『日本書紀』など日本の古代史料は元より、

 神社の由緒、神名また地名さらに

 中国、インド、メソポタミア、ギリシアなどの古代史料をも参照しつつ

 解明すべく努力しています。

  よって当講座は古代の秘密のヴェールを切り裂く

 独特の研究成果となっています。

  21世紀に入った今日、

 東京都内で外国人観光客が最も集まっているのは

 浅草寺の雷門からの参道周辺で、いつも人で溢れています。

  その「浅草」の語義は正確に知られているのでしようか。

  確かに浅草寺、浅草神社の創建伝承はよく知られています。

  しかし、

 「土師(はじ・つち)氏」や「檜前(ひのくま)」の由来が

 知られているとはいえません。

  「アサクサ」の語義は

 彼等の来歴を考察することによって明白となります。

  漢字「浅‐草」が示す「丈の低い草の原」などでは全くありません。

  そして

 三社祭の御神輿渡御(おみこしとぎょ)の際の掛け声「ソイヤー」や

 「聖天宮(せいてんきゅう)」の「聖火」こそ

 その来歴の証明となります。

  その深遠な来歴を明確にご説明申し上げます。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

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