2013年2月28日木曜日

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈(ふもんぼんげ)』とは



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録21:4頁

 《『妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈(ふもんぼんげ)』とは
 「『妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈(ふもんぼんげ)』とは


 鳩摩羅汁の観音経は『法華経』中から

 「観世音菩薩普門品」を取り出したもので、

 前半の本文を記憶し易いように持に要約した

 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈』が付記してある。

 それを読めば観音経がどんなものかわかるのでご覧に入れるが、

 本講は横書きで縦書きの詩は載せられないから別刷にして巻末につけ、

 その要約だけをここに書いておく。

 この経は、釋迦の弟子・無尽意(むじんに)菩薩が

 「なぜ アバ ロキ テシバラ というのですか?」

 と質問したのに釋迦が答えた問答集である。

 釋迦の答えは

 「それは常に人々のために千億の仏に仕えるという清く偉大な願いを

  擬人化したものだ。
 
  時を無駄にせずボンヤリしている暇があったら、

  常にこの アバ ロキ テシバラ を唱え、

  み仏の姿を思い浮かべ、心に念じる習慣をつけなさい。
 
  そうすればそのモットーの力=観音力で、火口も涼しい池に変わり、

  暴風の海に落ちても溺れない。

  というように常に救われる」と、

 わかり易く具体的に一つ一つ例を挙げて説明して、

 アバ ロキ テシバラ を念じ続けるように教える。

 おわかりのように

 これは心の奥の深層真理に働きかける心理療法であって、

 アバ ロキ テシバラ は

 本来なら意味不明の方が効果的な「呪文」の一種である。

 それを鳩摩羅汁が卑弥呼の観世音に結びっけて人格仏にしたのは、

 当時の中国大衆の教養に合わせた新しい説法の工夫だったのである。


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2013年2月27日水曜日

観世音菩薩経はいつ出来たか、その真相



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録21:3頁

 《観世音菩薩経はいつ出来たか、その真相
 「観世音菩薩経はいつ出来たか、その真相


 観世音は卑弥呼のマレー語名だといっても、もう一つ疑問が残る。

 それは大学講義録20でお話しした『十一面観音経』のほかに、

 『観世音菩薩経=観音経』や『高王観世音経』というものがあり、

 経とは釋迦が信者に話した説法を記録したものだから、

 観世音の名は卑弥呼よりはるかに古い釋迦の時代からあった名だと、

 これまで信じられていたからである。

 しかし観世音という仏名だと思われていた

  Avalokitesvara アヴァロキテスヴァラ とは、

 仏の御利益(ごりやく)の内容を圧縮したキャッチフレーズだったことは、

 大学講義録20でおわかり戴けたと思う。

 その『経』を訳して『観世音菩薩普門品(ふもんぼん)』と名付けたのは、

 中国西域の楼蘭(ローラン)の西500余kmの都市国家キジール(亀慈)の

 Kumarajiva クマーラ ジヴァ(鳩摩羅汁)で、

 五胡十六国の一つ後秦の王・符堅(フケン)の捕虜になったが、

 405年 後秦の高官・姚興(ヨウコウ)に見出だされて国師とされ、

 長安で経74部385巻を訳し、

 408年に三論(さんろん)宗を開いた人物である。

 卑弥呼からは2世紀後で、

 南中国にも観世音(カシイ)信仰が伝わって盛んだった当時だ。

 中国人でない鳩摩羅汁は翻訳だけして聞かせ、

 中国人の筆記者が観世音菩薩と当て字したのである。

 『国王観世音経』は530年代に出来たもので、

 明(ミン)の学識貴かな高僧・蓮池(れんち)大師は、

 「北魏の皇帝を廃してロボットを皇帝にした

  極悪人・高歓(コウカン)に媚(こ)びて、
 
  国王と呼ぶような奴(やつ)が偽作したニセ経だ」と

 暴露している。


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2013年2月26日火曜日

観世音と卑弥呼は全く同じ意味をもつ呼び名



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:34頁

 《観世音と卑弥呼は全く同じ意味をもつ呼び名
 「観世音と卑弥呼は全く同じ意味をもつ呼び名


 卑弥呼が少女時代に結婚した

 ソナカ=足仲(ソナカ)彦・仲哀天皇は

 熊襲や三韓を征服しようとして北九州死んだ。

 これは「天の稚(わか)彦物語」にもなっている。

 皇后の卑弥呼はそこに「廟」を建てて天皇を葬ったのち、

 女王に共立されて九州連邦に君臨した。

 その後 723年、元正女帝が僧満誓に福岡の観世音寺を改築させ、

 同時に仲哀天皇廟の側に仲哀天皇皇后の神功皇后を祀る社殿を建てさせて、

 それだけを「香椎宮」と呼ばせ、

 区別するために仲哀天皇廟は「古宮」と呼ばせることにした。

 「香椎宮」が官幣大社になったのは明治18年で、

 仲哀天皇を香椎宮に遷座、

 合祀したのは、大正4年になってからである。

 これで卑弥呼と壹與が

 『日本書紀』の神功皇后混同のせいで、大混乱しているが、

 香推とは卑弥呼だけの名で、

 単なる地名ではなかったことが、はっきりおわかり戴けたと思う。

 香椎は 「愛・慈悲」という意味の、マレー語「kasih カシイ」への当て字だった。

 卑弥呼は「愛・慈悲」という意味の、パーリ語「pemaka ペマカ」への当て字だった。

 卑弥呼をマレー語系の人々は「カシイ・カシヒ」と呼び、

 「生き菩薩」として崇敬していた。

 とすると「観世音菩薩」というのは、

 マレー語による「カシイ菩薩」への当て字のひとつで、

 それはパーリ語の

 「pemaka ペマカ=卑弥呼」菩薩と全く同じものだったのである。


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2013年2月25日月曜日

香椎はカシヒ=愛・慈悲への当て字



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:33頁

 《香椎はカシヒ=愛・慈悲への当て字
 「香椎はカシヒ=愛・慈悲への当て字


 インド名の訳ではないとすれば、では誰が?、いっ?、

 原文にありもしない「観」の字を使って、

 「観世音」などという意味不明の名をつけたのだろう?。

 観世音を何か意味のある当て字と考えて、

 『日本書紀』に使われている感じ発音を使って頭音使用の万葉読みにすると

 「観=カ、世=シ、音=イ」という読み方ができる。

 なぜそう読むかといえば、

 「カシイ」は卑弥呼と切っても切れない言葉だからである。

 卑弥呼という名の語源がパーリ語の「pemaka 愛・慈悲」であることは、

 倭人の墓であることが確認できている古墳に、

 可愛山陵とかアイノ陵(董野陵=大阪府茨木市)といった名がついており、

 pemaka を沖縄発音に直すと、

 「卑=pieg,弥=miar,呼=ka」にピッタリ合っていて、

 彼女の祭政一致の理念が「愛・慈悲」で

 表現される不殺生・不戦でなければ、

 好戦的ナショナリズムの女王・壹與=日本のジャンヌ・ダルクとしての

 神功皇后に敗死することもなかったことなど、

 動かぬ証拠群が立体的な構造になって存在している。

 その「愛・慈悲」のマレー語が

 「kasih カシイ・カシヒ」なのである。

 このカシイには、もう一つ動かない証拠が今も厳然として残っている。

 それは卑弥呼の夫・ソナカ=仲哀天皇の「廟」であった

 福岡市香推(かしい)にある

 元官幣大社の「香椎宮」である。


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2013年2月24日日曜日

インドには存在しない「観世音」菩薩



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:32頁

 《インドには存在しない「観世音」菩薩
 「インドには存在しない「観世音」菩薩


 ところが、

 そのインド・マドゥラ海岸にあるボダラッカ山の仏「観世音」菩薩は。

 本当は「観世音菩薩」ではない。なぜか?。

 その仏は「 Avalokitesvara アヴァロキテスヴァラ」という菩薩だが、

 この名はどんなに無理をしてみても、「観世音」という名にはならない。


 日本ではこれを

 「観自在=自由自在に観る」または

 「世間の衆生の音声を観じて解脱させる」

 という意味の名だと教えてきたが、そんな固有名詞はパーリ聖典にもない。

 この名はパーリ語で綴った短文なのである。

 「アヴァ ava 」は「卑しい・下級の」という意味で、

 「ロキ loki」は「世間・社会」。

 「テス tes」は「それ・彼」。

 「vara ヴァラ」は「願望・恵みを与える・最高・優れた・高貴」

 という意味だから、

 インドの人々がこの言葉を聞いて受ける感じは、

 「卑しい身分の世間の大衆にも、

  その願望する恵みを与えて、

  最高に優れた高貴な人々にする」

 という意味になる。

 どこにも「観=見る」や「自在=自由自在」という意味はない。

 それよりは「世音=世間の人の音声(願望)」というほうが、

 はるかにマシだが、

 こちらも「それを観じて=見て」「解脱させる=逃がす」だけでは

 「その願望する恵みを与えて最高に優れた高貴なな人々にする」

 という能力および御利益(ごりやく)が消えてしまって、

 原文の意味に比べると余りにもお粗末な訳でしかない。

 やはり駄目である。


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2013年2月23日土曜日

日光と富士が物語る第2次倭国東遷



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:31頁

 《日光と富士が物語る第2次倭国東遷
 「日光と富士が物語る第2次倭国東遷

 フダラッカ山の子孫が、

 「フタラ」の名を残しているというのは、

 日光の二荒山(フタラサン)である。

 このフタラが百済の語源だということを知る人はまだ少ない。

 日光に「ニコウ=二荒」を当て字したものだと正反対に思い込んでいる人がいる。

 しかし、もう説明の必要はないと思うが、

 それは7世紀の大化大戦による敗戦で

 東国へ大移動した百済倭国(フジワラ)勢力の遺跡であり、

 百済=フタラ=二荒=ニコウ=日光と変化したのであって、

 その名は富士山=百済山や、

 甲斐=蝦夷などの地名と同系のものである。

 だから日光は大化改新によって倭国が東遷した後の、

 観音の聖地=普陀落迦山=フタラ カ 山 だったのである。

 そこには輪王寺があるが、

 その正しい発音は「インノウジ」であって、

 韓国で李を「イイ」と発音するように、

 「リをイ」と発音する大隅語~韓国語系の発音をとどめている。

 そして徳川家譜代の大名である井伊家のイイも、

 同じく倭国東遷の貴重な文化財なのである。

 卑弥呼当時は鹿児島の百済津香山。

 次いで中国淅江省の普陀落伽山。

 1次東遷後の奈良の百済香山。

 2次東遷で二荒ケ山と変遷が読み取れ、

 発音の風化が時代経過を記録している。

 仮にどれかのフダラッカ山が偶然だとしても、

 これだけのフダラッカ山が実在する。

 どれをとっても古い日本列島に、

 観音の故郷ボダラッカ山の子孫が実在したことは間違いない。


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2013年2月22日金曜日

普陀落迦山は鹿児島の聖地



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:30頁

 《普陀落迦山は鹿児島の聖地
 「普陀落迦山は鹿児島の聖地


 「百済津(フダラッ)カ山」はどこにあったか?。

  倭迹迹日百襲姫の朝廷記録「崇神天皇紀」をみると、

 3年 磯城(シキ)の瑞籬(ミズカキ)の宮に遷都する。

        敷根(鹿児島県姶良郡国分市の南部、港と川がある)

 5年 民の死亡が国民の半ばを過ぎようとする。(『魏書倭人章』大乱起こる)

 6年 国民流離、背叛。

    天照大神の怒りが強く、困った崇神天皇が

        倭の笠縫邑(カサヌヒムラ)に移す。

    (『魂書倭人章』男王立つも国中不服、更に相誅殺、当時、数千余人を殺す)

     この笠縫は首都の敷根付近のはずだ。

    大隅にはこれに一致する地名がある。

     鹿屋(かのや)市の笠野原と肝属郡の高山(コウヤマ)町である。 

     香山(カサン)→香山(コウヤマ)→コウヤマ→高山と変化した地名だ。

  笠縫       笠野原       重日 (これは女帝、皇極・斉明天皇の名乗り)

 (カサヌヒ) (カサンハイ) (カサヌヒ)    

       香山        百済ッ香山       =普陀落迦山

            (カサン)     (クダラ)(カサン)   (フダラクカサン)

       高山     (肝属郡 高山(コウヤマ)町)

            (コウヤマ)

 この香山はカグヤマとも読まれるから、

 奈良の香具山・香久山は、その子孫である。

 この高山町には富山(トミヤマ)という地名もあるから、

 これが鳥見山に、

 また官名の弥弥那利から

 耳成山・耳梨山が生まれたことも想像に難くないが、
 
 畝傍(うねび)山は采女(うねべ)制度ができた後世の名でしかない。

 ところが神武天皇は「畝傍橿原宮」で即位し皇居にした。

 後世の人とするほかない。


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2013年2月21日木曜日

ポセイドンから普陀落への変身



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:29頁

 《ポセイドンから普陀落への変身
 「ポセイドンから普陀落への変身

 これまで詳しく検討してきた通り、

 飛鳥、春日、大和など旧地名の当て字を

 そのまま使って発音だけ変えるという、

 我が国古代独特の手法の早期の先例が
 
 「百済」のボセイドン→フダラ→クダラ→モズミ(百舌鳥耳)→

 フジ→ホズミ(穂積)→

 モモダリ(桃太郎)→モモダイ(桃谷)などで、

 卑弥呼の名乗り百襲姫の「百」も、唯一この百済しかない。

 これは4世紀より以前はまだクダラとは読まれず、

 ギリシャ語時代のボセイドンへの当て字音「百=ポ」で、

 「済」だけを「ダラ」と読み替え始めている。

 その理由はソナカ仏教宣布団がマガダを出発して南進し、

 前記のマドゥラなど南インドで教化に努め、

 スリランカ= Tambapannidipa へ入った Mahinda らと分かれて

 ボダラッカ山を聖地としたグループの一部が東へ船出し、

 東南アジアを布教しながら南九州までやってきた。

 そしてそこに観音信仰の本山を置いてボダラッカ山と名づけた。

 その地域の主力が沖縄語人だったので、

 母音「O(オー)」のない沖縄発音で「百」の発音が「フ」に変わり、

 さらに「済」も「ダラ」と読まれることになり、

 不足する「カ山」を新たに補って「フダラッカ山」、

 すなわち後の「普陀落迦山」と同じ発音の当て字として使った。

 この推理は、その子孫がいまもその古い型の「フタラ」の名を残していて、

 この結論の確かさを強く保証している。


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2013年2月20日水曜日

中国の普陀落迦山(フダラッカサン)は5世紀以後のもの



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:28頁

 《中国の普陀落迦山(フダラッカサン)は5世紀以後のもの
 「中国の普陀落迦山(フダラッカサン)は5世紀以後のもの


 この結論が正しいことは、

 次の有名な記録が明確に立証してくれる。

 それは西晋が倒れて東晋になった後の、

 安帝、隆安3年(399年)にインドへ取経に行った

 中国の法顕(ホッケン)三蔵が、

 その旅行記『仏国記』中に

 「インドでは観音信仰が非常に盛んだった。

  その本山はマラヤ国(今の南インド、マドゥラ一帯)の海岸にある

  ボダラッカ山だと詳しく書いている。」

 この名はパーリ語で

 Bodharakkha ( Bodha 菩提)( rakkha 守護)で

 当て字の普陀落迦山であり、死者の菩提を守るという意味が、

 卑弥呼の宗教を「鬼道」と呼ばせたことに一致する。

 この法顕の記事から、

 中国の観音信仰について、実に多くのことがわかる。

 それを順番にお話ししてみよう。

 ① 中国の観音信仰は佐和氏のいう570年頃でなく、

   もっと早くから中国でも知られていたこと。

 ② しかしインドのようには盛んではなかったこと。

 ③ また、

   中国の観音信仰の大本山である南中国・淅江省定海県の東にある

   落伽山に伝わる

   「観音大士がこの落伽山に化現したので、

    この聖地を『南海』という略称で呼ぶのだ」

   という伝承では、先に『落伽山』という山があって、

   そこへ観音が出現したことになっているが、

 ④ この山の名は間違いなくインドのボダラッカ山を写したもので、

 ⑤ そんな山名は法顕がインドから帰った

   5世紀初めまでは中国にはなかった名であること、

   などが明確に理解できる。


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2013年2月19日火曜日

『観音経』中国布教時期混乱の原因



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:27頁

 《『観音経』中国布教時期混乱の原因
 「『観音経』中国布教時期混乱の原因

 掖邪狗は張政を帯方郡まで送った後、

 洛陽の魏政府に生口30人を贈っているが、

 生口は捕虜ばかりとは限らない。

 知識人や僧侶もいていい。

 中国政権が西晋に変わったとき、

 彼が当然また親善使節として謝名崛多を伴って行き、

 観世音菩薩について教え、

 謝名を残して掖邪狗だけ帰国したとすれば、

 日本の記録は二人の業績とし、

 中国では謝名崛多=若羅厳一人の業績として

 彼の名だけしか記録に残さなかったとしても

 不思義はない。

 また掖邪狗が教えた業績は観音だけだが、

 謝名崛多はそれ以後に幅広く経典を訳した可能性があるから、

 それに埋没して細部の記録は残らなかったとしても、

 これまた不思義ではない。

 では佐和氏のいう、

 西紀五七○年頃の、

 耶舎崛多(ヤジャクッタ)による十一面観音経翻訳はどういうことなのか?。

 これにも納得のいく答えが見つかった。

 馮承(ヒョウ)承鈞の『歴代求法翻経録』をさらに見ていくと、

 「元魏北齋北周録」に、

 麻伽陀 Magadha 国の禅師「闍那耶舎 Jnanayasas 」が、

 弟子の「闍那崛多 Jnanagutta 」らと共に561年から578年の間に長安で

 『定意天子経六巻』を訳したあと実歴( Turkut は北京付近)で死んだ」という記事がある。

 この闍那邪舎はジナナヤサスへの当て字だが、

 闍那耶舎という漢字だけを見ると、

 「ジャナ・ヤジャ」と読んでしまう。

 おまけに弟子まで「ジャナグッタ」と読めるので、

 これと混同したのである。

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2013年2月18日月曜日

耶舎(ヤジャ)崛多と掖邪(ヤジャ)狗は同じ名前



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:26頁

 《耶舎(ヤジャ)崛多と掖邪(ヤジャ)狗は同じ名前
 「耶舎(ヤジャ)崛多と掖邪(ヤジャ)狗は同じ名前

 戦後、多くの仏教論文と著書を世に問うた佐和経賢氏の『密教美術論』には、

 「十一面観音の経典が最初に漢訳されたのは、

  西紀五七〇年頃、耶舎崛多(ヤジャグッタ)によってである。

  その経名は『仏説十一面観音神呪(しんじゅう)経』一巻だ」とある。

 耶舎崛多は明らかにヤジャグッダであり、経名もほぼ同じであるから、

 加納氏が紹介したものと同じであることは疑いない、

 とすれば佐和氏の説では300年も後に中国に入ったことになる。

 それにジャナグッタについては全く触れられていない。

 これは一体?

 どう考えればいいのか?。

 その結論はあとにして、まずヤジャグッタを検討してみよう。

 この名の「耶舎」は

 ターラナータ Taranatha の『インド仏教史』によると、

 アソカ王が、前非を悔いて仏教に帰依(きえ)したのは

 「 Yaja arhant 耶舎阿羅漢(アラカン)」の弟子が見せた

 不思議な現象によるのだとある。

 卑弥呼の重臣・掖邪狗も、この「耶舎」公に対する当て字の可能性が強い。

 掖邪狗は壹與時代になったあとも、張政を送る使者の長官に任命され、

 率善中郎将として魏都洛陽まで行っている。

 ヤジャグッタと記録された人物は彼の後身であるとすると、

 彼なら観世音という仏名をつけたとしても何の不思義もないし、

 我が国各地の最古の仏教遺物が、

 すべて十一面観音であることもまた、

 何の不思議もないことになる。

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2013年2月17日日曜日

ジャナグッタはインド系沖縄人か



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:25頁

 《ジャナグッタはインド系沖縄人か
 「ジャナグッタはインド系沖縄人か

 「西晋録」のその最後の解説は、

 「若羅厳 拠 諸経目録 外国人 也 三一六年前後在 洛陽 訳経 此人名 似 為 

  Janayna  之封音 此言 智乗 非印度人 即 西域受 印度文化之人=

  若羅巌は『諸経目録』によると外国人である。

  三一六年前後に洛陽にいて経を訳した。

  この人の名はジャナヤナに似ている。

  これは『智乗』という意味だ。

  インド人ではない。

  西域でインドの文化を身につけた人ではなかろうか?」と書いている。

 このジャナと、先のヤシャの名のあとについている「グッタ」は、

 パーリ語の「 gutta 守護されている」という

 仏のご利益(りやく)を肩書きにしたもので、

 三蔵というようなものである。

 しかし中国の学者は知らないが、

 私たちはこの「ジャナ 謝名」は

 今でも沖縄に実在する地名や姓であることを、

 すでに大学講義録13でよく知っている。

 ジャナグッタは沖縄の人で卑弥呼を知る人物だったから、

 観世音という名を中国へ教えることができたのだ、ということになる。

 それでなければあとで詳しくご説明するように、

 慈悲のマレー語であるカシーに合う発音を感じで

 「香椎(かしい)」や「観世音(かしい)」と

 当て字できたのは当時の倭人だけで、

 日本語やマレー語を全く知らなかった当時のインドや西域の人が、

 こんな当て字をすることは絶対にありえない。

 それが偶然だとすれば、

 それは奇跡以上で、決してありえないことだからである。

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2013年2月16日土曜日

西晋・武帝の時、観世音を伝えた人物



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:24頁



 《西晋・武帝の時、観世音を伝えた人物
 「西晋・武帝の時、観世音を伝えた人物

 中国で最も古い観音信仰の記録は、

 卑弥呼の死後約10年後の魏の甘露3年(258年)に、

 帛延(ハクエン)が翻訳した『平等覚経』の中で、

 「光世観」という訳名で記載されているのが、

 私たちのいう観世音菩薩のことで、中国にはこれより古いものはない。

 次は中国の記録にはないが、

 昭和初期の我が国観音研究の先覚・加納元氏がその著書で、

 西晋武帝の時(265年~289年。卑弥呼死後約20~40年後)、

 我が国の神功皇后の御時に、

 ヤシャグッタとジャナグッタという二人の僧が長安の四天王寺へ行き、

 『十一面観世音神呪経』という初めて仏名を

 「観世音」と呼ぶ経典を中国語に翻訳したのだと発表した。

 これによると卑弥呼当時はまだ中国には観世音菩薩という菩薩号はなかったことになるし、

 その命名者もヤシャとジャナの二人のグッタだということになる。

 しかし前記の中国の湯錫予撰『漢魏両晋南北朝仏教史』や、

 馮(ヒョウ)承鈞の『歴代求法翻経録』などの研究書にはこの記録が見当たらない。

 ただ『歴代求法翻経録』中の「西晋録」の最後に『若羅厳』という名前がある。

 これは「若=ジャ、羅=ラ→ナ、厳=グッタ」への当て字の可能性が高いから、

 これが本当に西晋時代に中国へ行ったジャナグッタの記録かどうか、

 この人物はどこから中国へ行ったのか?、

 そして何をしたのか?、検討してみょう。

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2013年2月15日金曜日

卑弥呼を殺した宿命の『鬼道』



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:23頁

 《卑弥呼を殺した宿命の『鬼道』
 「卑弥呼を殺した宿命の『鬼道』

 『魏書倭人章』は、我が国建国史上最古の、

 隣国による客観的記録という私たちにとって掛け替えのない宝物だが、

 その『魏書倭人章』中でも当時の精神文化の高さを立証する唯一のものが、

 卑弥呼の指導原理『鬼道』であって、

 それが政権の分裂、彼女の死と内乱に次ぐ国土の喪失、

 政権の亡命という国家的大悲劇を生み出した直接の心因でもあった。

 祭政一致の当時、その教義が施政方針を固定していたため、

 倭人連邦を取り巻く国際情勢が魏の優勢。

 対中国バリアーとしての宗主国・公孫氏の滅亡。

 倭人圏である朝鮮半島の一角・高句麗の敗戦といった激動に襲われた時、

 愛と不殺生を至高のモラルとしてきた卑弥呼の威信は崩れて、

 国家の防衛を至上命令とするナショナリズムが、

 彼女を圧倒したのは当然の宿命であった。

 しかしいまだに『鬼道』問題の重大さを意識する教養に欠け、

 観音信仰は中国から入った信仰だと信じている人々のために、

 これまでは「倭国史」側からその卑弥呼の仏教が初期の観音信仰だったことが、

 今なお南九州の優婆夷(ウワイ)たちが観音講を「ヒメコ様」と呼んでいることなど、

 遺物を数多く残していることで充分立証されている事実を、

 関連事項を検討する都度お話ししてきたが、
 
 今度は「宗教史」の視点から、

 観音信仰の発生から伝播までの経緯を、

 できるだけ手短かに頭に入れておくことにしよう。

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2013年2月14日木曜日

卑弥呼の仏教の内容と歌垣



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:22頁

 《卑弥呼の仏教の内容と歌垣
 「卑弥呼の仏教の内容と歌垣

 先にもお話ししたが、

 『梵網経』などにみられる戒品 Silavagga シラバッガ は、

 太陽、幸福の女神、吉祥天の崇拝を禁じ、鏡、巫女、神託を排斥している。

 この3つは全て卑弥呼の鬼道が特徴としてもつもので、

 敵の位宮の国は後に新羅になったと壹與を始祖王・赫居世にしているから、

 シラの名が示す通りシラバッガ派の国である。

 これを卑弥呼と位宮の争いに当てはめて見ると、

 こうした対立する教義の差が、狗奴国が女王に属さず、

 戦いに発展してしまった根本理念であって、

 位宮の国が後にシラと呼ばれて白、斯盧と書かれ、

 後世さらに新羅と書かれた理由は、

 「仏国」に対抗して「神国(シンラ)」を名乗ったものだったから、

 倭国側が神国(シンラ)と書くのを嫌って、

 当て字を替えて「新羅(シンラ)」と書いたものだったことがわかる。

 戦いは女尊の観音教徒と男尊のシンドゥ教徒の宗教戦争だった。

 アソカ王の碑文には、

 山頂に登って音楽、讃歌、舞踏、歌劇などを催す祭の、

 Samajja があったと記録されている。

 これは我が国でも後世、

 『常陸国風土記』が筑波山などで盛んに行なわれたと記録している

 「歌垣=かがい」などだから、

 アソカ王系の仏教徒・倭国の風習をもつ人々が、

 東国に移ったったことを示している。

 筑波は西の峰は「雄神」と呼び登山を禁じて、

 東の峰だけに登らせたが、

 春秋には東国諸国からの男女が遊び集(つど)うたとある。

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2013年2月13日水曜日

中国の北伝仏教と南伝卑弥呼仏教との差



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:21頁

 《中国の北伝仏教と南伝卑弥呼仏教との差
 「中国の北伝仏教と南伝卑弥呼仏教との差

 また人類が生存できる限界の激しい気象環境も宗教の内容を左右する。

 同じ仏教でもラマ教の悪魔や怪物の仮面舞踏は、

 そうした環境が悪魔や悪神の暴力によるもので、

 それらから身を守り子孫を繁栄させるには、

 仏の教えに従って身を慎み善を行って、

 善神が悪神を退治る戦いに参加し助力せよと教える。

 また農業が成立しない環境では、

 畜産によって乳を飲み、殺して肉を食べ、皮を着る以外に生存の道がない。

 争わず殺さずという釋迦の教えは、とうていそのままでは守れない。

 殺生が容認される幅が、私たちからみれば遥かに拡大される必要があったのである。

 だから北方へ進んだ布教団の教義は、

 卑弥呼の名の実意「慈悲や愛」といった甘っちょろい観念論ではありえない。

 中国へ西域から入った仏教は、

 生首を提げた女性像が訶梨帝(カリティ)菩薩として壁画に描かれるような、

 卑弥呼仏教とは正反対のものだったのである。

 この鬼菩薩を鬼子母神(きしもじん)と訳して日本に紹介したのは日蓮で13世紀末である。

 日本で過去に信じられて来た6世紀の仏教伝来は、

 この北方仏教(北伝仏教)であって、

 東南アジア経由の南方仏教(南伝仏教)だったソナカ=卑弥呼の仏教とは別物である。

 「図」西夏の首都カラ・ホト遺跡の壁画

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2013年2月12日火曜日

『魏略』が書かれた時期とその前後の中国仏教史



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録20:20頁

 《『魏略』が書かれた時期とその前後の中国仏教史
 「『魏略』が書かれた時期とその前後の中国仏教史

 伊藤徳男氏の

 「魏略の製作年代に就いて(『歴史学研究』第四巻第一号、昭和10年5月)」によると

 『魏略』を魚豢が書いたのは、

 晋の武帝の太康年間(280年~289年)というのが、最も合理的だ。

 内藤虎次郎氏などは、

 陳寿は『魏略』の文章を殆どそのまま取って用いているというほどで、

 上記のように魚豢は卑弥呼や壹與と同時代に生き、

 事件記録をはとんど時間を置かずに採録したのだから、

 個々の報告が全て生々しく、

 後世になってから文献だけに頼って編集したものより、

 はるかに誤りが少なく真相を伝えているとみていい。

 なぜ私がこうして『魏略』の記事を強く重視するのかというと、

 中国でも卑弥呼当時には、

 仏教についてすでにかなり知られていたという事実を前提にしないと、

 帯方郡使が卑弥呼の宗教を仏教と書かずに『鬼道』と書いたことへの考察が甘く、

 片手落ちになるからである。

 『鬼道』と書いた郡使には、

 当時中国で知られていた彼の知る仏教と、

 卑弥呼の仏教とは同じでなく別物のように見えたので、

 仏教とは書けなかったという点が重要なのである。

 当時中国へ伝わった仏教の伝播経路は西域からの陸路で、

 その元はマガダ国から北進してガンダーラやカシミールを教化し、

 さらにカラコルム山脈を越えてタクラマカンの大砂漠に入った

 「Majjhantika マッジャンチカ」布教団である。

 東進してきたソナカ布教団の我が国までのコースに比べると距離は短いが、

 その難路は屈強な男性僧でも大変なものだった。

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