2014年10月31日金曜日

延喜式巻九 神祇九 神名上


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ※出典:延喜式巻九 神祇九 神名上

  延喜式神名帳


 神名帳                        
 社名 読み 付記 社名所地 備考

 『相模國』

 足上郡 1座(小)

  寒田神社 サムタノ 寒田神社 神奈川県足柄上郡松田町

 余綾郡 1座(小)

  川勾神社 カハワノ 川勾神社 神奈川県中郡二宮町 相模国二宮

 大住郡 4座(並小)

  前鳥神社 サキトリノ 前鳥神社 神奈川県平塚市四之宮 相模国四宮

  高部屋神社 タカヘヤノ   高部屋神社 神奈川県伊勢原市下糟屋

 (論)高森神社 神奈川県伊勢原市高森

  比比多神社 ヒヒタノ   比々多神社 神奈川県伊勢原市三ノ相模国三宮

 (論)比比多神社 神奈川県伊勢原市上粕屋

  阿夫利神社 アフリノ 大山阿夫利神社 神奈川県伊勢原市大山

 愛甲郡 1座(小)

  小野神社 ヲノノ 小野神社 神奈川県厚木市小野

 高座郡 6座(大1座・小5座)

  大庭神社 オホハノ   大庭神社 神奈川県藤沢市稲荷

 (論)熊野神社 神奈川県藤沢市大庭

  深見神社 フカミノ 深見神社 神奈川県大和市深見

  宇都母知神社 ウツモチノ 宇都母知神社 神奈川県藤沢市打戻

  寒川神社 サムカハノ 名神大 寒川神社 神奈川県高座郡寒川町 一宮

  有鹿神社 アリカノ 有鹿神社 本宮:神奈川県海老名市上郷

   中宮:神奈川県海老名市上郷

   奥宮:神奈川県相模原市南区磯部

  石楯尾神社 イハタテヲノ   石楯尾神社 神奈川県相模原市緑区名倉
 (論)石楯尾神社 神奈川県相模原市緑区佐野川

 (論)石楯尾神社 神奈川県相模原市南区磯部

 (論)諏訪明神 神奈川県相模原市緑区大島

 (論)諏訪神社 神奈川県大和市下鶴間

 (論)諏訪明神 神奈川県座間市入谷

 (論)石楯尾神社 神奈川県藤沢市鵠沼 鵠沼皇大神宮境内末社


 『武蔵國』

 荏原郡 2座(並小)

  薭田神社[注 1] ヒエタノ

  磐井神社 イハヰノ

 都筑郡 1座(小)

  杉山神社 スキヤマノ 杉山神社 神奈川県横浜市緑区西八朔町 武蔵国六宮

 (論)杉山神社 神奈川県横浜市港北区新吉田町

 (論)杉山神社 神奈川県横浜市都筑区茅ケ崎中央

 (論)杉山神社 神奈川県横浜市都筑区中川

 (論)杉山神社 神奈川県横浜市西区中央

 (論)杉山神社 神奈川県横浜市保土ケ谷区川島町

 (論)杉山神社 神奈川県横浜市保土ケ谷区星川

 (論)鶴見神社の旧称 神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央

 ほか論社多数(詳細は「杉山神社」項を参照)

 多磨郡 8座(並小)

  阿伎留神社 アキル 阿伎留神社 東京都あきる野市五日市

  小野神社 ヲノ 小野神社 東京都多摩市一ノ宮 武蔵国一宮

 (論)小野神社 東京都府中市住吉町

  布多天神社 フタテノ 布多天神社 東京都調布市調布ケ丘

  大麻止乃豆乃天神社 オホマトノツノ- (論)武蔵御嶽神社 東京都青梅市一御岳山

 (論)大麻止乃豆乃天神社 東京都稲城市大丸

 (論)天満社 東京都八王子市北野町

 (論)大國魂神社 東京都府中市宮町 武蔵国総社

  阿豆佐味天神社 アツ- 阿豆佐味天神社 東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷

  穴沢天神社 アナサハノ- (論)穴澤天神社 東京都稲城市矢野口

 (論)谷保天満宮 東京都国立市谷保

 (論)穴沢天神社 東京都あきる野市深沢

 (論)羽黒三田神社 東京都西多摩郡奥多摩町氷川

  虎柏神社 トラカシハ 虎柏神社 東京都青梅市根ケ布

 (論)虎狛神社 東京都調布市佐須町

  青渭神社 アヲヰノ-ヌマノ

 (論)青渭神社 東京都調布市深大寺

 (論)青渭神社 東京都青梅市沢井

 (論)青渭神社 東京都稲城市東長沼

 足立郡 4座(大1座・小3座)

  足立神社 アタチノ

  氷川神社 ヒカハノ 名神大 月次新嘗 氷川神社 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町 武蔵国三宮のち一宮

  調神社 ツキノ 調神社 埼玉県さいたま市浦和区岸町

  多気比売神社 タケヒメノ

 横見郡 3座(並小)

  横見神社 ヨコミノ

  高負比古神社 タケフヒコノ タカオヒ-

  伊波比神社 イハヒノ

 入間郡 5座(並小)

  出雲伊波比神社 イツモノ-

  中氷川神社 ナカヒカハノ 中氷川神社 埼玉県所沢市山口

  中氷川神社 埼玉県所沢市三ヶ島

  広瀬神社 ヒロセノ 広瀬神社 埼玉県狭山市上広瀬

  物部天神社 モノノヘノ-

  国渭地祇社 クニヰチノ- ヌマノクニツカミ

 埼玉郡 4座(並小)

  前玉神社 二座 サイタマノ 前玉神社 埼玉県行田市埼玉

  玉敷神社 タマシキノ 玉敷神社 埼玉県加須市騎西

  宮目神社 ミヤメノ

 男衾郡 3座(並小)

  小被神社 ヲフスマノ

  出雲乃伊波比神社 イツモノイハヒノ

  稲乃売神社 イナノヒメノ

 播羅郡 4座(並小)

  白髪神社 シラカミノ シラカノ

  田中神社 タナカノ

  楡山神社 ニレヤマノ

  奈良神社 ナラノ

 賀美郡 4座(並小)

  長幡部神社 ナカハタヘノ

  今城青八坂稲実神社 イマキアヲヤサカイナミノ

  今木青八坂稲実荒御魂神社 イマキアヲサカノイナミアラミタマノ

  今城青八坂稲実池上神社 イマキアヲサカイナミノイケカミノ -イケノウヘノ

 秩父郡 2座(並小)

  秩父神社 チチフノ 秩父神社 埼玉県秩父市番場町 武蔵国四宮

  椋神社 ムクノ クラノ

 (論)椋神社 埼玉県秩父市下吉田

 (論)椋神社 埼玉県秩父市蒔田

 (論)椋神社 埼玉県秩父市蒔田

 (論)椋神社 埼玉県秩父郡皆野町野巻

 (論)椋神社 埼玉県秩父郡皆野町皆野

 児玉郡 1座(大)

  金佐奈神社 カナサナノ 名神大 金鑚神社 埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮 武蔵国五宮(二宮)

  伊古乃速御玉比売神社 イコノハヤミタマヒメノ

 那珂郡 1座(小)

  甕たま神社[注 2] ミカタマノ

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ
 

『飯倉神名宮』・『毘沙門天』


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「山王神社・天津神社〔恵比寿神社〕及び目黒の大鳥神社の祭神」

 ※出典:江戸名所図会

 江戸名所図会 巻之一 天樞之部

 ≪飯倉神名宮≫

 同東の方神名町にあり。

 江戸名所記等に日比谷神明とあり、今俗間芝神明と称す。」

 其舊地は増上寺境内飯倉天神の社地なりと、

 或云赤羽の南小山神明宮の地なりとも。

 社司は西東氏〔割註〕名所記に往古当社の神託宣ありしにより、

 相州足柄郡より斎藤氏なる人を招て神主とすと云云。」

 別当は金剛院と號す、其余社家巫女等あり。

  神鳳抄云 武蔵國飯倉御厨 当時四貫文

  同書又曰 飯倉御厨 長日 御幣五十丁

  東鑑曰 …略…

 江戸名所図会 巻之一 天樞之部 飯倉神明宮

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部

 ≪毘沙門天≫

 同所四町許巽の方、渋谷川の北岸、

 多門山天現寺といへる禅刹に安置せり。

 本尊毘沙門天の霊像は、樟の丸木作りにして、

 聖徳太子の彫造なりといへり。

 〔割註〕其丈三尺一寸。」相傳ふ、
 
 多田満仲の念持仏にして、源家累代守護の霊像たり。

 傳通院殿深く尊信ましまし、

 安部摂津守信春に御預あり、

 其後仙石因幡守久信の家に傳へ、又祥雲寺に収め、

 竟に当寺を開創し、始てここに安置せり。

 〔割註〕本尊来由の記は、

 林學士信充先生の文章にして、当寺の什寶たり。」 

  武州豊島郡城南麻布邑、多聞山天現寺、毘沙門縁起

    従五位下守大學頭 林 信充 誌

  …略…

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 毘沙門天

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
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『霞が関』


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「山王神社・天津神社〔恵比寿神社〕及び目黒の大鳥神社の祭神」

 ※出典:江戸名所図会

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部

 ≪霞関旧蹟≫

  櫻田御門の南、黒田家と浅野家との間の坂を云。

 往古の奥州街道にして関門ありし地なり。

 〔割註〕宗祇法師の名所方角抄に、霞が関は西に高き丘あり。

 東向の所なれば富士はみえず、西より河はながれたりとあり、

 武蔵風土記に、荏原郡、東は霞が関に限るとあり。

 此地今は豊島郡に属せり。

 北村季吟翁云、浮橋をすぎて霞村といふ所、

 霞が関の旧地なりといへど。霞村と云地名なし。」 

  武蔵野地名考云 或古記曰。

  荏原郡霞関。日本武尊蝦夷之儲関也。爾来連綿大被置之。

  挙国之勝景。而然其遠眺隔雲霞。故有霞関之號。云云。

 続千載 

  おなじくば空に霞の関もがな雲井の鴈をしばしとどめん 為世
 
 続千載

  わかれ行春の霞の関守も過る月日をとどめやはする 宣子

 新拾遺

  徒に名をのみとめてあづま路の霞の関も春ぞくれぬる よみ人しらず

 新明題

  関の戸にききしやそらぬ鳥が鳴くあづまの山は霞こぶかき 仙洞

 夫木

  立とまる霞の関の朝朗花も幾重か匂ひそふらむ 亀山院

  
 夫木

  あづまには霞を関の名に立て春来る事を人に告らむ 慈鎮

 夫木

  わけそむる関路の名のみ霞にて末は霧なるむさししの秋 為守

 ≪霞山稲荷明神祠≫

 櫻田道より右にあり。

 往古は櫻田霞が関にありしを、御郭定まりし頃、

 今の地へ移さるるといへり。

 別当は天台宗にて霞山櫻田寺観妙院と號く。

 本尊咜枳尼天像は足利義國の守神にして、

 行基大士の作、秩父重康安置せりと云。

 相傳ふ、当社は渋谷荘司重國勧請し、文明中道潅再興せり。

 又往古、右大将頼朝卿櫻田村にて美田五百七十石を寄附ありて、
 
 供田の印に櫻樹を植、要害を構て、

 江戸太郎重長をして往来を改めしむ。

 其後遙かに年月を経て、此地と共に社を麻布へ移されしとなり。

 〔割註〕今麻布櫻田町、百姓町抔號くるは、

 則櫻田より引れし町也。」 

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 日吉山王神社

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 霞が関

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 霞が関古図

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 溜池白山祠

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 麻布一本松

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 霞山稲荷社

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
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2014年10月28日火曜日

『櫻田』


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 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「山王神社・天津神社〔恵比寿神社〕及び目黒の大鳥神社の祭神」

 ≪日吉山王神社≫

 ※出典:江戸名所図会

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部

 『櫻田』古の郷名なり。

 和名類聚抄にも荏原郡櫻田〔割註〕佐久良太。」とありて、

 其の称尤も久し。

 〔割註〕今は豊島郡に属せり。

 小田原北条家の所領役帳に、

 太田源七郎及び牛込宮内少輔勝行、興津加賀守、會田中務丞等。

 其余の所領にも往々櫻田の地名を注し加ふ。

 櫻田久保町、同兼房町、備前町の類ひ。

 また今の麻布六本木の南に櫻田町と唱へてあるもの、

 同所百姓町等いづれも御入國の後、

 かしこに地を替給ひしなりとぞ。」

 武蔵國風土記曰 荏原郡櫻田郡郷。

 公穀四百六十三束三字田。

 號櫻田者。以其郷之岡及野櫻樹多也。云々。

 〔割註〕太平記云、

 元弘三年五月武蔵野合戦の條下に、九日軍の評定ありて、

 翌日上総下総の勢うを討て後、敵の後攻とて、

 金澤武蔵守将五万余騎を差副へて、下河邊へ下る、

 一方へは櫻田治部太輔貞國を大将にて、

 長崎二郎高重、同孫四郎佐衛門、加治二郎佐衛門入道に、

 武蔵上野両国の勢六万余騎を相添て、

 上路より入間河へ向らるゝとあり。

 新著聞集に、櫻田は虎の御門より愛宕の辺迄田地にて、

 畔には櫻の樹幾千本も植ありし、

 田の中の流れを櫻川といひし、

 今は源介橋其印とてのこりたるとかや云々。

 又求涼亭云く、櫻田の櫻は御入国の後、

 今の吹上の御庭中へうつされしとぞ云々。

 …以下略…


 『櫻か井』

 井伊候藩邸表門の前、石垣のもとにあり。

 亘り九尺ばかり、石にて畳みし大井なり。

 釣瓶の車三つかけならべたり。

 或云、事蹟合考に、井伊家中屋敷四ッ谷喰違の屋敷ともあり。

 若葉井は同所御堀端番屋の裏にあり、

 柳の木をうゑし故に柳の水ともいへり。

 いづれも清冷たる甘泉なり。

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 桜の井

《参考》

 ARPACHIYAH 1976



 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等




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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
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、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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≪日吉山王神社≫


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 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「山王神社・天津神社〔恵比寿神社〕及び目黒の大鳥神社の祭神」

 ≪日吉山王神社≫

 ※出典:江戸名所図会

 江戸名所図会 巻之三 天璣之部

 『日吉山王神社』

  永田馬場にあり。江戸第一の大社にして、

 別当は天台宗僧正にして観理院と号す。

 神主は樹下氏なり、其余社僧および社家巫女等数多あり。

 ご祭礼は隔年6月15日なり、

 その行粧は初券茅場町御旅所の條下に詳なり。

 本社斎人大宮

 〔割註〕比叡の二宮小比叡大明神を勧請す、

 垂跡は國常立尊にして天地開闢第一の神なり。

 薬師如来を本地仏とす。」二宮

 〔割註〕気比宮を勧請す、

 垂跡は仲哀天皇にして応神天皇の御父なり。

 聖観世音菩薩を本地仏とす。」三宮

 〔割使〕客人宮を勧請す、

 垂跡は伊奘冊尊にして白山妙理権現なり。

 十一面観世音菩薩を本地仏とす。

 江戸名所記に第三には、下の七社の中、

 王子宮本地は文殊大士なりとあり。」

 古鰐口〔割註〕昔は本社に掛けたりとなり、

 今は右の方稲荷祠に掛けてあり、

 径一尺あまりあり、其銘左の如し、

  敬白奉納山王権現御寶前鰐口大檀那名直景

  願主南仙房

  武州豊島郡江戸館天正十四年丙戌十月廿五日


 江戸名所図会 巻之三 天璣之部 日吉山王神社

 江戸名所図会 巻之一 天璣之部 愛宕山

 江戸名所図会  巻之一  天璣之部  愛宕社

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年10月18日土曜日

≪江戸の稲荷神社≫


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 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「太田道潅、徳川家康の築城により移転された稲荷神社」

 ≪江戸の稲荷神社≫

 稲荷神社〔東京都千代田区・中央区・港区・渋谷区〕

  ※全国神社庁「全国神社名鑑」より抜粋

 《千代田区》

  稲荷神社     外神田5-47

  稲荷神社     神田小川町3-9

  太田姫稲荷神社  神田駿河台1-2-3

  三社稲荷神社   外神田4-7-13

  佐竹稲荷神社   内神田3-10-1

  真徳稲荷神社   神田司町2-6

  御宿稲荷神社   内神田1-6-8

  三崎稲荷神社   三崎町2-9-12

 《中央区》

  稲荷神社     日本橋堀留町2-9

  稲荷神社     日本橋富沢町10

  白旗稲荷神社   日本橋本石町4-4-17

  渡海稲荷神社   新川1-31-4

  稲荷神社     新川2-14

  三光稲荷神社   日本橋堀留町2-8

  笠間稲荷神社   日本橋浜町2-11-6

  稲荷神社     日本橋箱崎町22-11

  鳥居稲荷神社   日本橋兜町3-13

  於岩稲荷神社   新川2-26-11

  稲荷神社     築地6-20-37

  豊岩稲荷神社   銀座7-8-14

  今村幸稲荷神社  八丁堀3-24-11

  大原稲荷神社   日本橋兜町2-55

  明徳稲荷神社   日本橋茅場町1-18

  常盤稲荷神社   日本橋本町1-18

  鉄砲洲稲荷神社  湊町1-8-2

  朝日稲荷神社   銀座3-8-10

  宝珠稲荷神社   銀座3-14-5

  日比谷稲荷神社  八丁堀3-28-15

 《港区》

  葺城稲荷神社   芝葺手町27

  稲荷神社     北青山3-5-6

  稲荷神社     南青山5-1-7

  稲荷神社     南青山3-4-11

  末広稲荷神社   赤坂4-13-17

  幸稲荷神社    芝公園3-5-27

  稲荷神社     高輪1-18-11

  稲荷神社     高輪2-15-10


  稲荷神社     三田4-14-18

  [朝日神社]    六本木6-17-14

 ◎久国神社     六本木2-1-16 ※旧称稲荷神社

  稲荷神社     浜松町2-9-8

  広尾稲荷神社   南麻布4-5-61

  十番稲荷神社   麻生十番1-4

  高山稲荷神社   高輪4-10-23

  故地老稲荷神社  白金台1-1-7

  真先以内神社   白金台2-23-14

  三河稲荷神社   南青山2-18-10

  櫻田神社     西麻布3-2-17

 《渋谷区》

  北谷稲荷神社   神南1-4-1

 ◎千代田稲荷神社  道玄坂2-20-8

  稲荷神社     渋谷3-4-7

  稲荷神社     東3-14-20

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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2014年10月17日金曜日

太田道潅の江戸築城


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 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「太田道潅、徳川家康の築城により移転された稲荷神社」

 ≪太田道潅の江戸築城≫

  太田道潅は永享4年(1432)

 扇谷上杉氏の家臣太田資清(道真)の子として生まれた。

 幼名を鶴千代、名は資長といい、道潅と号したのは、

 「太田道潅状」によりと48歳以後のことらしい。

 この道潅によってかっての江戸氏の居館の地に江戸城が築かれた。

 康生2年(1456)に築城が開始され、

 翌長禄元年(1457)には一応の完成をみたという。

  城主道潅は優れた文化人であったため、

 江戸城内でしばしば文雅の集まりが催され、

 文明6年(1474)6月17日の歌合会は

 「武州江戸歌合」としてよく知られている。

 また、禅僧蕭庵竜統や万里集九も江戸城を訪れている。

 彼等の書き残した

 「寄題江戸城静勝軒詩序」や「静勝軒銘詩并序」などによれば、

 当時の江戸城は、

 江戸期の江戸城の本丸とその周辺にあたる小規模なものであり、

 子城・中城・外城と称される3つの独立した郭に区切られ、

 郭と郭の間は深い濠が掘られ、橋によって結ばれていたという。

 江戸城は、川越・岩槻両城(いづれも埼玉県)とともに

 扇谷上杉氏の拠点となり、

 上杉氏の家宰道潅は江戸城に拠って勢力を広げたが、

 文明18年に主家である扇谷上杉定正に謀殺された。

 以後、江戸城には扇谷上杉氏が入ったが、

 大永4年(1524)、道潅の孫、太田資高・康資父子が

 主家扇谷上杉朝」興にそむき、当時武蔵に侵攻しつつあった

 小田原北条氏に内応したため、江戸城は北条氏綱の手中に落ちた。

 ≪江戸城の普請≫  

  徳川家康が入城した当時の江戸城は、

 のちの本丸・三の丸・大手門にまたがる範囲にあたり、

 「町屋なども茅葺きの家百ばかりも有るかなしかの体、

  城もかたちばかりにて、城の様もなく」(聞見集)

 というありさまであった。

 また、現在の日比谷・霞が関・田町・新橋(いずれも港区)を

 結ぶ線上に江戸湾の海岸線があり、

 日比谷入江も大手門に向って入り込んでいた。

 一方、日比谷・霞が関から赤坂(港区)方面にかけて

 数本の枝条の浅い河流があり、四谷(新宿区)方面から

 流れる小川の水が、

 赤坂・永田町辺りでよどんで溜池をつくっており、

 千代田区域南東部の大半は遠浅の入江と沼沢地・低湿地であった。

  天正18年8月、徳川家康は江戸城に入城すると、

 直ちに軍事物資輸送のため、道潅時代につけかえられた

 平川河口(日本橋川下流)から江戸城に通じる道三堀を開削、

 堀沿いに舟町・柳町・四日市・材木町などの町割を行った。

 家康による江戸城拡張工事はやや遅れ、

 豊臣秀吉の全国平定が終了した文禄元年(1592)西の丸築造から始まった。

 本多正信の指揮の下に行われた工事によって

 西の丸が郭内に組み入れられ

 堀開削の揚げ土は低湿地の埋立てに用いられた。

 この工事は、同3年伏見城(京都府)築城工事が

 徳川氏に課せられたため、一時中断した。

 慶長3年(1598)豊臣秀吉が死去し、

 次いで同5年の関ヶ原の戦いの結果、

 政権は豊臣氏から徳川氏に移り、

 同8年家康が征夷大将軍に任命されて幕府を開くと、

 江戸城は全国の政治中心となった。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部