2015年5月31日日曜日

三国志魏志倭人伝が記す経路の解釈

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」:2011/07/21

 課題:邪馬臺国の時代を考える
    ―『日本創世記』を参照した日本の古代―

 ≪三国志魏志倭人伝が記す経路の解釈≫


 翰苑

 『翰苑』は唐の時代の張楚金が撰し、雍公叡が注した「類書」。

 「類書」とは、多くの書物の中からその内容を分類収録した、

 いわば百科事典のようなもの。

 『翰苑』は中国にも現存せず、9世紀ころ平安初期の書写とみられる

 蕃夷部のみが、わが国の大宰府天満宮に伝存しています。

 世界中のどこにも他に写本が存在せず、

 「天下の孤書」と称されています。

 大宰府天満宮といえば菅原道真がすぐに連想されますが、

 この『翰苑』も元はその菅原家に伝わり、

 のちに大宰府天満宮に移されたものと考えられています。


 翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國 (原文)

 倭國

 憑山負海 鎭馬臺以建都

  後漢書曰 倭在朝東南大海中 依山島居 凡百餘國 

  自武帝滅朝鮮 使譯通漢於者州餘國 稱王 其大倭王治邦臺 

  樂浪郡儌去其國万二千里 甚地大較在會稽東 与珠雀儋耳相近 

  魏志曰 倭人在帯方東南 炙問地 絶在海中 洲島之山 

  或絶或連 周旋可五千餘里 四面倶海 自營州東南 經新羅 

  至其國也 分軄命官 統女王而列部 魏略曰 從帯方至倭 

  循海岸水行 暦韓國到拘耶韓國七十餘里 始度一海 

  千餘里至對馬國 其大官曰卑拘 副曰卑奴 無良田 南北布 

  南度海至一支國 置官至對同 地方三百里 又度海千餘里 

  至末盧國 人善捕魚 能浮沒水取之 東南五東里 至伊都國 

  戸万餘 置曰爾支 副曰洩渓觚柄渠觚 其國王皆属王女也 

  卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 後漢書曰 

  安帝永初元年 有倭面上國王師升至 桓遷之間 倭國大乱 

  更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑弥呼 死更立男王 

  國中不服 更相誅 復立卑弥呼宗女臺與 年十三 爲王 

  國中遂定 其國官有伊支馬 次曰弥馬升 次曰弥馬獲 

  次曰奴佳鞮之也 文身點面 猶稱太伯之苗 魏略曰 女王之南 

  又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也 

  自帯方至女國 万二千餘里 其俗男子皆點而文 聞其舊語 

  自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 

  以避蛟龍之吾 今人亦文身 以厭水害也 阿輩雞弥 

  自表天兒之稱 宋死弟 宋書曰 永初中 倭國有王 曰讃 

  至元嘉中 讃死弟珎立 自稱使時節都督安東大將軍倭國王 

  順帝時 遣使上表云 自昔祢 東征毛人五十五國 西服衆夷六 

  渡平海北九十五國 今案 其王姓阿毎 國号爲阿輩雞 

  華言天兒也 父子相傅王 有宮女六七百人 王長子号哥弥多弗利 

  華言太子 因禮義而標袟 即智信以命官 括地志曰 

  倭國其官有十二等 一曰麻卑吉寐 華言大徳 二曰小徳 

  三曰大仁 四曰小仁 五曰六義 六曰小義 七曰大礼 八曰小礼 

  九曰大智 十曰小智 十一曰大信 十二曰小信 邪屆伊都 

  傍連斯馬 廣志曰 國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國

  百女國以北 其戸数道里 可得略載 次斯馬國 次巴百支國

  次伊邪國 安西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣

  盖伊耶國也 中元之際 紫綬之榮 漢書地志曰 夫餘樂浪海中

  有人 分爲百餘國 以歳時獻見 後漢書 光武中元年二

  倭國奉貢朝賀 使人自稱大夫 光武賜以印綬 安帝初元年

  王師升等獻主口百六十 景初之辰 恭文錦之獻 槐志曰

  景初三年 女王遣大夫難升未利等 獻男生口四人 女生六人

  布二疋二尺 詔以爲新魏倭王 假金印紫綬 正始四年

  倭王復遣大夫伊聲耆振邪拘等八人 上獻生口也

 倭國

  山に憑き海を負い 馬臺に鎭し以って都を建つ 

  後漢書に曰く。

  倭は韓の東南大海の中に在り。

  山島に依り居を爲す。

  凡そ百餘國。

  武帝の朝鮮を滅してより、使譯の漢に通ずる者卅餘國。

  國は皆王を稱す。

  その大倭王は邪馬臺に治す。

  樂浪郡徼はその國を去ること万二千里。

  その地は大較(おおむね)會稽の東に在り。

  珠崖・儋耳と相い近し。 

  魏志に曰く。 

  倭人は帯方東南に在り。 

  倭地を參問するに絶えて海中洲島の山に在り。

  或いは絶え或いは連なり、周旋五千餘里可(ばか)り。

  四面は倶(とも)に海に抵(あた)る。

  營州より東南、新羅を經てその國に至る。

  軄を分かち官を命じ 女王に統べて部を列す 魏略に曰く。

  帯方より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、

  韓國を歴て拘耶韓國に到る。

  七千餘里にして始めて一海を度る。

  千餘里にして對馬國に至る。

  その大官を卑拘と曰い、副を卑奴と曰う。

  良田無く、南北に市糴す。

  南に海を度り一支國に至る。

  官を置くは對馬に同じ。 

  地の方は三百里。 

  また海を度ること千餘里。 

  末盧國に至る。 

  人、善く魚を捕らえ、能く水に浮沒してこれを取る。 

  東南五百里。 伊都國に至る。 

  戸は万餘。 

  官を置き爾支と曰う。 

  副を洩渓觚・柄渠觚と曰う。 

  その國王は皆女王に属す。 

  卑弥娥(ひみが)は惑翻して群情に叶う 

  臺與は幼齒にして方(まさ)に衆望に諧(かな)う 

  後漢書に曰く。 

  安帝の永初元年、倭面上國王師升の至ること有り。 

  桓・靈の間、倭國大いに乱れ、更に相攻伐して歴年主無し。 

  一女子有り。 

  名を卑弥呼と曰う。 

  死して更に男王を立てしも國中服さず。

  更に相誅煞(ちゅうさつ)す。 

  また卑弥呼の宗女臺與年十三なるを立てて王と爲し、

  國中遂に定まる。 

  その國の官に伊支馬有り。 

  次を弥馬升と曰い、

  次を弥馬獲と曰い、

  次を奴佳鞮と曰う。 

  文身鯨面 猶太伯の苗と稱す 魏略に曰く。 

  女王の南にまた狗奴國有り。 

  男子を以って王と爲す。 

  その官を拘古智卑狗と曰う。 

  女王に属さず。 

  帯方より女王國に至ること万二千餘里。 

  その俗は男子は皆鯨面文身す。 

  その舊語を聞くに自ら太伯の後と謂う。

  昔、夏后小康の子、

  会稽に封ぜられ断髪文身し以って蛟龍の害を避く。 

  今、倭人また文身し、以って水害を厭わす。 

  阿輩雞弥(あはけみ) 自ら天兒の稱を表す 

  宋死弟(←この3文字意味不明。衍か?) 宋書に曰く。 

  永初中、倭國に王有り。 

  讃と曰う。 

  元嘉中に至り、讃死し弟の珎立つ。 

  自ら使持節都督安東大將軍倭國王を稱す。

  順帝の時、使を遣わし上表して云う、

  『昔、祢より東に毛人五十五國を征し、

   西に衆夷六十六國を服し、渡りて海北九十五國を平らぐ』と。

  今案ずるに、その王の姓は阿毎。

  國号を阿輩雞弥と爲す。

  華言の天兒なり。

  父子、王を相傅す。

  宮女六七百人有り。

  王の長子を和(←または「利」か)哥弥多弗利と号(なづ)く。

  華言の太子なり。 

  禮義に因(より)て袟(ちつ)を標(あらわ)す 

  即ち智信を以って官を命ず 括地志に曰く。 

  倭國はその官に十二等有り。 

  一を麻卑兜吉寐(まひときみ)と曰う。 

  華言の大徳なり。 

  二を小徳と曰い、

  三を大仁と曰い、

  四を小仁と曰い、

  五を大義と曰い、

  六を小義と曰い、

  七を大礼と曰い、

  八を小礼と曰い、

  九を大智と曰い、

  十を小智と曰い、

  十一を大信と曰い、

  十二を小信と曰う。

  邪は伊都に屆(とど)き 傍ら斯馬に連なる 廣志に曰く。

  倭國、東南陸行五百里にして伊都國に到る。

  また南に邪馬臺國に至る。

  女王國より以北はその戸数道里を略載するを得るべし。

  次に斯馬國、次に巴百支國、次に伊邪國。

  案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り。

  布帛無く、革を以って衣と爲す。

  盖(けだ)し伊耶國なり。

  中元の際 紫綬の榮あり 漢書地理志に曰く。

  夫餘・樂浪の海中に倭人有り。

  分かれて百餘國を爲す。

  歳時を以って獻見す。

  後漢書に曰く。

  光武の中元二年、倭國奉貢朝賀し使人自ら大夫と稱す。

  光武、賜うに印綬を以ってす。

  安帝の永初元年、倭王師升等、生口百六十人を獻ず。

  景初の辰 文錦の獻を恭ず 魏志に曰く。

  景初三年 倭の女王、大夫難升未利等を遣わし、

  男生口四人・女生口六人・斑布二疋二丈を獻ず。

  詔して以って親魏倭王と爲し、金印紫綬を假す。

  正始四年、倭王また大夫伊聲耆振邪拘等八人を遣わし

  生口を上獻す。

 ※出典:古代史獺祭

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年5月22日金曜日

 ≪三国志魏志倭人伝≫

 『浦和レッズレディース』
 『ひねもす至福の時』
 『湘南ベルマーレ』
 title="『明星院・広島県歴史&地名他』">『明星院・広島県歴史&地名他』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/04/09

 課題:邪馬臺国の時代を考える
    ―『日本創世記』を参照した日本の古代―

≪三国志魏志倭人伝≫


 <『魏書倭人章』晉 陳壽撰(宋裴松之 註)>

『魏書倭人章』晉 陳壽撰(宋裴松之 註)

倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東冶之東其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髮屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之

種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飮用邊豆手食其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飮酒已葬舉家詣水中澡浴以如練沐其行來渡海詣中國恆使一人不梳頭去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹出眞珠青玉其山有丹其木有枏杼豫樟楙櫪投橿烏號楓香其竹篠簳桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有獮猴黒雉其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆其會同坐起父子男女無別人性嗜酒
【魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀】
見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不to[偏女旁戸]忌不盜竊少諍訟其犯法輕者沒其妻子重者滅其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飮食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里。

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹
【臣松之以爲地應爲綈漢文帝著皂衣謂之戈綈是也此字不體非魏朝之失、則傳冩者誤也】
絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚眞珠鉛丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也正始元年太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表答謝恩詔其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣丹木拊短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授其八年太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹。 


 <宋槧本『太平御覧』所引『魏志』倭人章>

宋槧本『太平御覧』所引『魏志』倭人章

第一粂

魏志曰倭国在帯方東南大海中依山島為旧国百余小國漢時朝見者今令使訳所通其三十国従帯方至倭循海岸水行歴韓国従乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千餘里始度一海千里至對馬國戸千余里大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方四百余里地多山林無良田食海物自活乗船南北市糴又渡一海一千里名曰 瀚海一大国置官与対馬同地方三百里多竹木叢林有三千軒許家亦有田地耕田不足食方行市糴又渡海千余里至末盧国戸四千浜山海居人善捕魚水無深浅皆能洗沉沈没取之東南陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謀觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王帯方使往来常止住又東南至奴国百里置官曰先馬觚副曰卑奴母離有二万余戸又東行百里至不弥国戸千余置官曰多模副曰卑奴母離又南水行二十日至於投馬国戸五万置官曰弥弥副曰弥弥那利又南水行十日陸行一月至耶馬台国戸七万女王之所都其置官曰伊支馬次曰弥馬叔次曰弥馬獲支次曰奴佳鞮其属小国有二十一皆統之女王之南又有狗奴国男子為王其官曰狗石智卑狗者不属女王也自帯方至女国万二千余里其俗 男子無大小皆鯨面文身聞其旧語自謂太伯之後又云自上古以来其使詣中国草伝辞説事或蹲或跪両手據地謂之恭敬其呼応声曰噫噫如然諾矣

第二粂

又曰倭国本以男子為王漢霊帝光和中倭国乱相攻伐無定乃立一女子為王名卑弥呼事鬼道能惑衆自謂年已長大無夫婿有男弟佐治国以碑千人自侍唯有男子一人給飲食伝辞出入其居處宮室楼観城柵守衛厳峻景初三年公孫淵死倭女王遣大夫難升米等言帯方郡求詣天子朝見太守劉夏送詣京師難升米致所献男生口四人女生口六仁班布二疋詔書賜以雑錦釆七種五尺刀ニロ銅鏡百枚真珠鈆丹之属付使還又封下倭王印綬女王死大作冢殉葬者百余人更立男王国中不伏更相殺数千人於数千人於是復更立卑弥呼宗女台挙年十三為王国中遂定其倭国之東渡海千里復有国皆倭種也又有朱中儒国在其南人長三四尺去俊倭四千余里又有裸国墨歯国復在其南船行可一年至


 <魏書倭人章(魏志倭人伝):原文>

 三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人

 晋 珍 壽 撰
 
 宋 裴松之 注

 (魏志倭人伝) 原文(改行あり)

 倭人在帶方東南大海之中依山國邑 舊百國 時有朝見者 

 今使譯所通三十國

 從郡至倭循海岸水行韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國

 七千里 始度一海千里 至對海【馬】國 其大官曰狗 副曰奴母離 

 所居絶方可四百里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千戸 

 無良田食海物自活乗船南北市糴

 又南渡一海千里名曰瀚海 至一大國 官亦曰狗 副曰奴母離 

 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食 

 亦南北市糴

 又渡一海千里 至末廬國 有四千戸濵山海居 草木茂盛行不見前人 

 好捕魚鰒水無深淺皆沒取之

 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨柄渠 有千戸 

 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

 東南至奴國百里 官曰馬 副曰奴母離 有二萬戸

 東行至不彌國百里 官曰多模 副曰奴母離 有千家

 南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸

 南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬

 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳 可七萬戸

 自女王國以北其戸道里可得略載其旁國遠絶不可得詳

 次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國

 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國

 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有國 次有吾國 次有奴國

 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國

 次有奴國 此女王境界所盡

 其南有狗奴國 男子王 其官有狗古智狗 不屬女王

 自郡至女王國萬二千里

 男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自大夫

 夏后少康之子封於稽斷髪文身以避蛟龍之害

 今倭水人好沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後以飾 

 諸國文身各異或左或右或大或小尊有差

 計其道里當在稽東治【冶】之東

 其風俗不淫 男子皆露以木緜招頭其衣幅但結束相連略無縫

 婦人被髪屈作衣如單被穿其中央貫頭衣之

 種禾紵麻 蠶桑緝績 出細紵緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 

 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 

 所有無與擔耳朱崖同

 倭地温暖冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室父母兄弟息異處 

 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用豆手食

 其死有棺無槨封土作冢 始死停喪十日 

 當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

 其行來渡海詣中國恒使 一人不梳頭不去蝨衣服垢汚不食肉不近

 婦人如喪人名之持

 若行者吉共顧其生口財物 若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持不謹

 出真珠青玉 其山有丹 其木有杼豫樟櫪投橿烏號楓香其竹篠桃支

 有薑橘椒荷不知以滋味 有猴黒雉
 
 其俗擧事行來有所輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜 其辭如令法視火占兆

 其同坐起父子男女無別 人性嗜酒

 見大人所敬但搏手以当跪拝 其人壽考或百年或八九十年

 其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌

 不盗竊少諍訟 其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族

 尊各有差序 足相臣服

 収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之

 自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國

 於國中有如刺史

 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜

 遣之物詣女王不得差錯

 下戸與大人相逢道路巡入草 傳辭事或或跪兩手據地之恭敬 

 對應聲曰噫比如然諾

 其國本亦以男子王住七八十年 倭國亂相攻伐年 乃共立一女子王 

 名曰彌呼 事道能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國 

 自王以來少有見者 以婢千人自侍 

 唯有男子一人給飲食傳辭出入居處

 宮室樓觀城嚴設常有人持兵守衛

 女王國東渡海千里復有國皆倭種

 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千里

 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至

 參問倭地絶在海中洲之上或絶或連周旋可五千里

 景初二年六月

 倭女王遣大夫難米等詣郡求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏送詣京都

 其年十二月詔書報倭女王曰

 制詔親魏倭王彌呼

 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難米次使都市牛利

 奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二以到

 汝所在踰遠乃遣使貢獻 是汝之忠孝我甚哀汝

 今以汝親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授 汝其綏撫種人勉孝順

 汝來使難米牛利渉遠道路勤勞

 今以難米率善中郎牛利率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還

 今以絳地交龍錦五匹絳地粟十張絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢

 又特賜汝紺地句文錦三匹細班華五張白五十匹金八兩

 五尺刀二口銅鏡百枚真珠丹各五十斤 皆装封付難米牛利

 還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也

 正始元年

 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜

 金帛錦刀鏡采物 倭王因使上表荅謝詔恩

 其四年

 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口

 倭錦絳緜衣帛布木短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎印綬

 其六年 詔賜倭難米黄幢付郡假授

 其八年 太守王到官 倭女王彌呼與狗奴國男王彌弓呼素不和 

 遣倭載斯烏越等詣郡相攻撃 

 遣塞曹史張政等因齎詔書黄幢拝仮難米檄告喩之

 彌呼以死 大作冢 徑百歩 徇葬者奴婢百人

 更立男王國中不服 更相誅殺當時殺千人

 復立彌呼宗女壹【臺】與年十三王 國中遂定 政等以檄告喩壹與

 壹【臺】與遣倭大夫率善中郎掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上

 男女生口三十人貢白珠五千孔大句珠二枚異文雜錦二十匹

 ※出典:古代史獺祭

 三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人

 晋 珍 壽 撰
 
 宋 裴松之 注

 (魏志倭人伝) 原文(改行あり)

 倭人在帶方東南大海之中依山國邑 舊百國 時有朝見者 

 今使譯所通三十國

 從郡至倭循海岸水行韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國

 七千里 始度一海千里 至對海【馬】國 其大官曰狗 副曰奴母離 

 所居絶方可四百里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千戸 

 無良田食海物自活乗船南北市糴

 又南渡一海千里名曰瀚海 至一大國 官亦曰狗 副曰奴母離 

 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食 

 亦南北市糴

 又渡一海千里 至末廬國 有四千戸濵山海居 草木茂盛行不見前人 

 好捕魚鰒水無深淺皆沒取之

 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨柄渠 有千戸 

 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

 東南至奴國百里 官曰馬 副曰奴母離 有二萬戸

 東行至不彌國百里 官曰多模 副曰奴母離 有千家

 南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸

 南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬

 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳 可七萬戸

 自女王國以北其戸道里可得略載其旁國遠絶不可得詳

 次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國

 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國

 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有國 次有吾國 次有奴國

 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國

 次有奴國 此女王境界所盡

 其南有狗奴國 男子王 其官有狗古智狗 不屬女王

 自郡至女王國萬二千里

 男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自大夫

 夏后少康之子封於稽斷髪文身以避蛟龍之害

 今倭水人好沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後以飾 

 諸國文身各異或左或右或大或小尊有差

 計其道里當在稽東治【冶】之東

 其風俗不淫 男子皆露以木緜招頭其衣幅但結束相連略無縫

 婦人被髪屈作衣如單被穿其中央貫頭衣之

 種禾紵麻 蠶桑緝績 出細紵緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 

 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 

 所有無與擔耳朱崖同

 倭地温暖冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室父母兄弟息異處 

 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用豆手食

 其死有棺無槨封土作冢 始死停喪十日 

 當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

 其行來渡海詣中國恒使 一人不梳頭不去蝨衣服垢汚不食肉不近

 婦人如喪人名之持

 若行者吉共顧其生口財物 若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持不謹

 出真珠青玉 其山有丹 其木有杼豫樟櫪投橿烏號楓香其竹篠桃支

 有薑橘椒荷不知以滋味 有猴黒雉
 
 其俗擧事行來有所輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜 其辭如令法視火占兆

 其同坐起父子男女無別 人性嗜酒

 見大人所敬但搏手以当跪拝 其人壽考或百年或八九十年

 其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌

 不盗竊少諍訟 其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族

 尊各有差序 足相臣服

 収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之

 自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國

 於國中有如刺史

 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜

 遣之物詣女王不得差錯

 下戸與大人相逢道路巡入草 傳辭事或或跪兩手據地之恭敬 

 對應聲曰噫比如然諾

 其國本亦以男子王住七八十年 倭國亂相攻伐年 乃共立一女子王 

 名曰彌呼 事道能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國 

 自王以來少有見者 以婢千人自侍 

 唯有男子一人給飲食傳辭出入居處

 宮室樓觀城嚴設常有人持兵守衛

 女王國東渡海千里復有國皆倭種

 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千里

 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至

 參問倭地絶在海中洲之上或絶或連周旋可五千里

 景初二年六月

 倭女王遣大夫難米等詣郡求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏送詣京都

 其年十二月詔書報倭女王曰

 制詔親魏倭王彌呼

 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難米次使都市牛利

 奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二以到

 汝所在踰遠乃遣使貢獻 是汝之忠孝我甚哀汝

 今以汝親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授 汝其綏撫種人勉孝順

 汝來使難米牛利渉遠道路勤勞

 今以難米率善中郎牛利率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還

 今以絳地交龍錦五匹絳地粟十張絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢

 又特賜汝紺地句文錦三匹細班華五張白五十匹金八兩

 五尺刀二口銅鏡百枚真珠丹各五十斤 皆装封付難米牛利

 還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也

 正始元年

 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜

 金帛錦刀鏡采物 倭王因使上表荅謝詔恩

 其四年

 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口

 倭錦絳緜衣帛布木短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎印綬

 其六年 詔賜倭難米黄幢付郡假授

 其八年 太守王到官 倭女王彌呼與狗奴國男王彌弓呼素不和 

 遣倭載斯烏越等詣郡相攻撃 

 遣塞曹史張政等因齎詔書黄幢拝仮難米檄告喩之

 彌呼以死 大作冢 徑百歩 徇葬者奴婢百人

 更立男王國中不服 更相誅殺當時殺千人

 復立彌呼宗女壹【臺】與年十三王 國中遂定 政等以檄告喩壹與

 壹【臺】與遣倭大夫率善中郎掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上

 男女生口三十人貢白珠五千孔大句珠二枚異文雜錦二十匹

 ※出典:古代史獺祭


 <魏書倭人章(魏志倭人伝):読み下し文>

  倭人は帯方東南大海の中に在り、山島によりて國邑をなす。

 もと百余國。漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十國。

 郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓國をへて、

 しばらく南し、たちまち東し、その北岸狗邪韓國に到る。

 七千余里にしてはじめて一海を度る。

 千余里にして対海【馬】國に至る。その大官を卑狗といい、

 副を卑奴母離という。居する所絶島にして、方四百余里ばかり。

 土地山険にして、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。

 千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、

 船に乗りて南北に市糴す。

 また南に一海を渡ること千余里(名を瀚海という)にして

 一大國に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。

 方三百里ばかり。竹木叢林多く、三千ばかりの家あり。

 やや田地ありて、田を耕せどもなお食するに足らず、

 また南北に市糴す。

 また一海を渡ること千余里にして末廬國に至る。四千余戸あり。

 山海に浜いて居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。

 よく魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。

 東南、陸行五百里にして、伊都國に到る。官を爾支といい、

 副を泄謨觚柄渠觚という。千余戸あり。

 世に王ありて、皆女王國に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり。

 東南、奴國に至るには百里。官を兕馬觚といい、

 副を卑奴母離という。二万余戸あり。

 東行して不弥國に至るには百里。官を多模といい、

 副を卑奴母離という。千余家あり。

 南、投馬國に至るには水行二十日。官を彌彌といい、

 副を彌彌那利という。五万余戸ばかり。

 南、邪馬壹【臺】國(女王の都する所なり)に至るには

 水行十日、陸行一月。官に伊支馬あり、次を彌馬升といい、

 次を彌馬獲支といい、次を奴佳鞮という。七万余戸ばかり。

 女王國より以北はその戸数・道里を略載し得べきも、

 その余の旁國は遠絶にして詳かにするを得ず。

 次に斯馬國あり、次に已百支國あり、次に伊邪國あり、

 次に郡支國あり、次に彌奴國あり、次に好古都國あり、

 次に不呼國あり、次に姐奴國あり、次に対蘇國あり、

 次に蘇奴國あり、次に呼邑國あり、次に華奴蘇)國あり、

 次に鬼國あり、次に爲吾國あり、次に鬼奴國あり、

 次に邪馬國あり、次に躬臣國あり、次に巴利國あり、

 次に支惟國あり、次に烏奴國あり、次に奴國あり。

 これ女王の境界の尽くる所なり。

 その南に狗奴國あり、男子を王となす。

 その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。

 郡より女王國に至るには万二千余里。

 男子は大小となく、皆黥面文身す。

 古より以来、その使中國にいたるや、皆自ら大夫と称す。

 夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、

 もって蛟竜の害を避く。

 今、倭の水人、よく沈没して魚蛤を捕え、文身し、

 またもって大魚・水禽を厭わせしも、後やや以て飾りとなす。

 諸國の文身各々異り、あるいは左にあるいは右にし、

 あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。

 その道里を計るに、まさに会稽東治【冶】の東にあり。

 その風俗淫ならず。男子は皆露紒し、木緜を以て頭に招ぐ。

 その衣は橫幅にして、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。

 婦人は被髪屈紒(ひはつくっかい)し、

 衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれをきる。

 禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)をうえ、

 蚕桑緝績(さんそうしゅうせき)し、

 細紵縑緜(さいちょけんめん)をいだす。

 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。

 兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、

 竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。

 有する所、擔耳・朱崖と同じくは無し。

 倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆徒跣。

 屋室ありて、父母兄弟、臥息処を異にす。

 朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるが如きなり。

 食飲には籩豆を用い手食す。

 その死には棺あるも槨なく土を封じて冢を作る。

 はじめ死するや喪に停まること十余日、時にあたりて肉を食わず、

 喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。

 すでに葬れば、挙家水中に詣りて澡浴し、もって練沐の如くす。

 その行来、渡海して中國に詣るには、

 つねに一人をして頭梳らず蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、

 婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。

 これを名づけて持衰と爲す。

 もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、

 もし疾病あり、暴害に遭えば、便ちこれを殺さんと欲す。

 その持衰謹まずといえばなり。

 真珠・青玉をいだす。その山に丹あり。

 その木には・杼・予樟・楺・櫪・投・橿・烏号・楓香あり。

 その竹には篠・簳・桃支。薑・橘・椒・蘘荷あるも、

 以て滋味となすを知らず。獮猴・黒雉あり。

 その俗、挙事行来に云爲する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、

 以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。

 その辞は令亀の法の如く火坼を視て兆を占う。

 その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。

 大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。

 その人の寿考、あるいは百年、あるいは八・九十年。

 その俗、國の大人は皆四・五婦、下戸もあるいは二・三婦。

 婦人淫せず、妬忌せず、盗竊せず、諍訟少なし。

 その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、

 重き者はその門戸および宗族を没す。

 尊卑各ヽ差序あり、相臣服するに足る。

 租賦を収むるに邸閣あり。

 國國市ありて有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。

 女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。 

 (諸國)これを畏憚す。常に伊都國に治す。

 國中において刺史の如きあり。

 王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國にいたり、

 および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、

 文書・賜遣の物を伝送して女王にいたらしめ、差錯するを得ず。

 下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、

 辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、

 両手は地に據り、これが恭敬を爲す。

 対応の声を噫(/)という、比するに然諾の如し。

 その國、本また男子をもって王となし、

 とどまること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、

 すなわちともに一女子を立てて王となす。

 名を卑弥呼という。

 鬼道につかえ、能く衆を惑わす。

 年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、たすけて國を治む。

 王となりしより以来、見る者少なく有り、

 婢千人を以て自ら侍せしむ。

 ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。

 宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

 女王國の東、渡海千余里にしてまた國あるも、皆倭種なり。

 また侏儒國あり、その南にありて人の長三、四尺、

 女王を去ること四千余里。

 また裸國・黒歯國あり、

 またその東南にありて船行一年にして至るべし。

 倭の地を參問するに、海中洲島の上に絶在し、

 あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり。

 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、

 天子に詣りて朝献せんことを求む。

 太守劉夏、吏將を遣わし送りて京都に詣らしむ。

 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、

 「親魏倭王卑弥呼に制詔す。

  帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升・次使都市牛利を送り、

  汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り

  もって到る。

  汝がある所はるかに遠きも、すなわち使を遣わして貢献す。

  これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀れむ。

  今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、

  装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。

  汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

  汝が来使難升米・牛利、遠きをわたり、道路勤労す。

  今、難升米を以て率善中郎將となし、牛利を率善校尉となし、

  銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。

  今、絳地交龍錦五匹・絳地縐粟十張・絳五十匹・紺青五十匹を以て、

  汝が献ずる所の貢直に答う。

  また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・

  五尺刀二ロ・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各ヽ五十斤を賜い、

  皆装封して難升米・牛利に付す。

  還り到らば悉く録受し、もって汝が國中の人に示し、

  國家汝を哀れむを知らしむべし。

  故に鄭重に汝によきものを賜うなり」と。

 正始元年、

 太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、

 倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、

 金帛・錦・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、

 詔恩に謝す。

 その四年、

 倭王、また使の大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、

 生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木・短弓矢を上献す。

 掖邪狗等、率善中郎將の印綬を壱拝す。

 その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。

 その八年、太守王頎官に到る。

 倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。

 倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

 塞曹史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、

 難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。

 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。

 徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。

 更に男王を立てしも、國中服せず。更に相誅殺し、当時千余人を殺す。

 また卑弥呼の宗女壹【臺】與年十三なるを立てて王となし、

 國中遂に定まる。

 政等、檄を以て壹【臺】與を告喩す。

 壹【臺】與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、

 政等の還るを送らしむ。

 因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、

 白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

 

「倭人」

 『浦和レッズレディース』
 『ひねもす至福の時』
 『湘南ベルマーレ』
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 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/04/09

 課題:邪馬臺国の時代を考える
    ―『日本創世記』を参照した日本の古代―

 ≪倭人≫

 ※出典:日本創世紀:小嶋秋彦・15~16頁

 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (1)倭人

   「倭人」という呼称は日本人には『三国志魏志倭人伝』との

  通称によってよく知られている。

  この三国志とはシナの史書の一つで、紀元後2-3世紀に

  後漢の終末からの覇権争いで登場してきた勢力で、

  3世紀中シナ大陸を3分割して国をなした

  魏(220-265)、呉(222-280)、蜀(221-263)の

  三国の歴史にからむ記録を集めた史書で、

  「三国」とは魏呉蜀国をいう。

  実際はそれぞれ魏書・呉書・蜀書と別々の記述となっている。

  「倭人伝」はそのうちの魏書第三十にあるもので

  「東夷伝」の一節である。

  東夷伝のうちには「韓伝」、「弁辰伝」、「粛慎伝」などあり、

  「倭人在帯方東南大海中」との書き出しで始められている

  「倭」に関する記述で、

  当該部分を「倭人」といいならわしているのである。

  そこには現在の日本列島の一地方である「南方」についての

  情報と魏国との交通が記述されている。

   この「倭人」という記述は中国の史料のうちでは初めてではない。

  同東夷伝で引用書としている「魏略」に「倭人」との表記があり、

  三国志記述より古い時期とすることができる。

  さらに「漢書」地理志「燕地」のうちに

  「楽浪海中有倭人」との記述がある。

  この漢書地理志は紀元1世紀の成立で、三国志より古い時代で、

  日本の古代の呼称を「倭」、そこの人々を「倭人」と呼んだ

  最も古いものとされている。

  「倭」の呼称も魏書「韓伝」に

  「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接」とある。

  また大分時代は下がるが、

  唐(紀元618-907)の歴史書である「唐書」には「日本古倭奴也」とあり、

  「倭」とは「日本」を指すことが通念であったことを示している。

  つまり、「倭人」とは「日本の人」の語義となる。

   ところでこの「倭」の表記は「日本」列島対象だけの呼称ではない。

  紀元前2世紀より古くからのシナの地理書「山海経」に

  その用語が表れており、その対象地域が大陸内を指している。

  その第十三巻「海内北経」に

  「蓋国は巨大なる燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」とある。

  紀元前の7世紀後半から

  「燕」は現在の北京市辺りから河北省天津市辺りまでを

  占めた勢力であった。

  「倭」はその南にして、さらに蓋国の南にあったということになる。

  「蓋国」の比定は現在不確かとなっているが、

  「倭」は山東半島から揚子江の河口付近江蘇省の黄海岸に

  あったと考えられる。

  特に准河河岸地帯に後に取上げる「准夷」がおり、

  「倭[wo]」と「准[huai]」は同音に近く

  そこも当該地に含めることができる。

  因みに「倭」はまた[ヰ]とも発音され、

  次に解説する「夷」とも同音である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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2015年5月20日水曜日

土師(ハジ)

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪土師≫

 「ハジ」הַז,HAZ,haz,野うさぎ

 因幡

  稲葉国(因幡国風土記記載と伝える)、稲羽『古事記』

  <播磨国風土記「伊奈加」宍禾郡>

  נַכ,INK,ianak,巨人、巨大、大人、ガド族/秦氏

                <=גדול,GDVL,,大きい>

 白兎(因幡国風土記記載という)素兎『古事記』

  「ウサギ」

   הַזהגָכהֶ,HShGKh,hazhgokhe,監督官/(Sk.)hash哄笑、天鈿女命「ウズ」

  「ワニ」(Sk.)vanika 交易商人

 「和名類聚抄」法美郡稲羽郷 訓「伊奈波」

 「稲羽の素兎」 ガド族(秦氏)の監督官、何の?繭、「秦氏族の繭監督官」

  稲羽山:宇倍山ともいう。(現岩美郡国府町)

  「ウベヤ」,,,白い、(日本語)まゆ、繭

 「土師」

  כַדַֻר,KDR,kaduar,陶器師、陶工、陶芸家 (GDVLによく似る)

 「イザヤ書」第41章25

 25 私は北から人を奮ひ起こすと、彼は来た

   太陽が出る方角から、彼は私の名を呼ぶ

      陶器師が粘土を踏むやうに

   彼は長官たちを漆喰のやうに踏みつける

 「イザヤ書」第64章8

  イザヤ64:8

  されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、

  あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。

   64章の冒頭は、

  「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られる」

  という預言から始まっています。

  主が、地をさばくために天から降ってこられることを意味します。

  キリストの来臨を意味するものと考えられますが、

  直近の「バビロンによる滅亡」を表現したものと考えられます。

  この主によるさばきを前にして

  「国々は御前で震え」「山々は揺れ動く」のです(64:2-3・新改訳)。

  この神の御前にだれが立ち得ましょうか。

  「見よ、あなたは怒られた、我々は罪を犯した。

   我々は久しく罪のうちにあった。

   我々は救われるであろうか」(64:5)。

  絶望的な状況です。しかし、そんな中でもイザヤは祈りました。

  「されど主よ、あなたは我々の父です。我々は粘土であって、

   あなたは陶器師です。我々はみな、み手のわざです」と(64:8)。

  滅ぼされて当然の私たちですが、

  主よ「あなたは私たちの父です」と告白しました。

  これは「神への信頼」です。父は厳しく叱ることがあっても、

  我が子を最後まで慈しまれるように、

  神よ私たち罪人をあわれんでくださいと祈りました。

  次にイザヤは告白しました。「あなたは陶器師です」と。

  これは「神への服従」です。

  陶器師は土塊を壊しては再び練り直します。

  壊すようですが、それは新しく造るためです。

  今やバビロン軍によって民は壊されようとしていますが、

  それは陶器師が新しく作り直そうとする課程であると

  受け止めたのです。

  壊すも造るも陶器師の権限です。その権限を認め服従する告白です。

  主よあなたは陶器師であって私は土塊ですと告白したのは、

  神への従順を表しています。

  窮地に追いやられてもなお、

  「神への信頼」と「神への従順」が告白されています。

  滅ぼされんとする直前にも、なおも父である神の慈愛に信頼しよう。

  破壊されんとする直前にも、

  なおも陶器師である神への服従を告白しよう。

 「創世記」第2章7

  2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、

  その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 「ハニ」埴

  伊和神社(鳥取市岩吉)「延喜式」神名帳 因幡国 伊和神社

  大野見神社(鳥取市南徳尾)

   「延喜式」神名帳 因幡国高草郡大野見宿禰神社

   (現)祭神大野見宿禰命社伝によると、土師氏の祖神として奉祭した。

  「大」GDVL:ガド族

  「野見」נַמִנ,NAMN,namin,財産管理人

  「宿禰」סגַנ,SGN,sgan,代理(者)、副官、次官

  ※"ガド族の財産管理人の代官"=

   「ウサギ」הַזהגָכהֶ,HShGKh,hazhgokhe,"監督官""取締"

 土師郷

  ①「和名類聚抄」八上郡土師郷(現)八頭郡郡家町に土師百井の地名

   私都川、八束川の沿岸地帯

  ②「和名類聚抄」八上郡土師郷(現)八頭郡智頭町

   (播磨国伊和神社の鎮座する一宮町とはそう遠くない)

 『日本書紀』垂仁天皇三十二年

  日葉酢媛命の薨去に伴い、野見宿禰が出雲国から土部百人を

  召し出して埴輪を作り、その墓に立て殉死が

  禁止されることになったとの伝承。

  「土部職」に任ぜられ、本姓を改めて土部臣となり、

  これが土部連らが天皇の喪葬を主にする縁であった。

  「ハジ」氏が「土師」氏となった由縁。

 『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、

  土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。

  石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る

  部民を定めたというのである。

  〇郡家町では奈良時代の須恵器を焼いた窯跡が20カ所程度発掘され、
 
   ここが土器の大生産地であったことが証明されている。

   <土師氏/秦氏の窯業技術が奈良時代からも引継がれていた>

 「法美」

  「和名類聚抄」因幡国 法美郡 訓ハフミ

  כהָמֶר,KhMR,khomer,粘土

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ