2015年12月12日土曜日

イスラエル十二の支族:レビ族


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪イスラエル十二の支族≫

  旧約聖書の神〔主〕を考える

  『聖書』の記述では、

  イスラエル12部族とは、

   以下の者達を祖とする部族のことである。

  父:ヤコブ、母:レア(ラバンの娘)
       から生まれた6子

  長兄ルベンの末裔ルベン族

  次兄シメオンの末裔シメオン族

  三男レヴィの末裔レヴィ族

  四男ユダの末裔ユダ族

  五男イサカルの末裔イサカル族

  末弟ゼブルンの末裔ゼブルン族

  父:ヤコブ、母:ジルパ(レアの下女)
       から生まれた2庶子

  兄ガドの末裔ガド族

  弟アセルの末裔アセル族

  父:ヤコブ、母:ラケル(レアの妹)
      から生まれた

  末子ベニヤミン の末裔ベニヤミン族

  父:ヤコブ、母:ビルハ(ラケルの下女)
       から生まれた2庶子

  兄ダンの末裔ダン族

  弟ナフタリの末裔ナフタリ族

  父:ヨセフ(ヤコブとレアの妹ラケルの子)、

  母:アセテナ(エジプトの祭司ポティ・フェラの娘)
       から生まれた2子

  兄マナセの末裔マナセ族

  弟エフライムの末裔エフライム族

  以上を合計すると13部族となってしまうが

  これについては以下の4通りの処理の仕方がある。

  ヤハウェに仕える祭司職であるレビ族については

  慣例として数に入れないので12部族となる。

  通常はこのレビ族を入れない計算法が採られる。

  この場合、レビ族は部族扱いされていないだけで

  「古代イスラエル人」の中には祭司として含まれる。

  どうしてもレビ族を数に入れたい場合には、

  かわりにエフライム族とマナセ族をあわせて

  「ヨセフ族」として1部族とする方法もある。

  これは実質的には上記の方法と同内容をさすことになる。

  特に対処せず、12部族ではなくそのまま13部族とする。

  これも実質的には上記の方法と同内容をさすことになる。

  ダン族を除外して12部族とする。

  かなり後世になってできたもので比較的珍しいが 

  『ヨハネ黙示録』などが採用。

  この場合、

   形式的にも実質的にも、ダン族は含まれていない。

  『ヨハネ黙示録』第7章4-8

  それから私が、

  「いったい、何人の人に、
     神様のしるしはつけられたのでしょうか」

  と尋ねると、

   「十四万四千人」という答えが返ってきました。

  その人々は、

   イスラエルの全十二部族から選ばれていました。

  内訳は次のとおりです

  ユダの部族一万二千人

  ルベンの部族一万二千人

  ガドの部族一万二千人

  アセルの部族一万二千人

  ナフタリの部族一万二千人

  マナセの部族一万二千人

  シメオンの部族一万二千人

  レビの部族一万二千人

  イッサカルの部族一万二千人

  ゼブルンの部族一万二千人

  ヨセフの部族一万二千人

  ベニヤミンの部族一万二千人 

  『創世記』第35章22節~26節

  ヤコブの子ら

  伯父ラバンのもとに

   滞在中に生まれた息子たちにベニヤミンを加えて、

  12人が母親ごとに紹介されます。

  レアの息子 :
     ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン

  ラケルの息子:ヨセフ、ベニヤミン

  ラケルの召し使いビルハの息子:ダン、ナフタリ

  レアの召し使いジルパの息子 :ガド、アシェル
 
 この12人が、イスラエルの12部族の祖となります。

  ルベン   Reuben

  ユダ    Judah

  イサカル  Issachar

  ゼブルン  Zebulun

  ヨセフ   Joseph

  ベニヤミン Benjamin

  ダン    Dan

  ナフタリ  Naphtali

  ガド    Gad

  アシェル  Asher

  レビ    Levi

  『民数記』第26章

  ルベン

  シメオン

  メナシュ

  エフライム 

  ユダ

  イサカル

  ゼブルン

  ヨセフ

  ベニヤミン

  ダン

  ナフタリ

  ガド

  アシェル
 
 『ヨシュア記』

  ナフタリ

  ゼブルン

  イッサカル

  メナシュ

  ガド

  エフライス

  ダン

  ベニヤミン

  ルベン

  ガド

  アシェル

  ユダ

  シメオン


 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年12月11日金曜日

行方不明になっているモーセの「十戒石」はどこに?


 出典:歴史学講座「創世」

 歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/12/02

 ≪行方不明になっているモーセの「十戒石」はどこに?≫

 課題:行方不明になっているモーセの「十戒石」はどこに?
    ―日本に秘匿されている証拠とその遍歴―
    
 1.旧約聖書「出エジプト記」のモーセに対する「十戒の授与」

  (1)シナイ山における「神の手による十戒石」「第一の十戒石」

  (2)シナイ山においてモーセが刻んだ十戒石「第二の十戒石」

 2.旧約聖書「ヨシュア記」で推測される

   第三の十戒石〔律法の分与〕

 3.レビ族のモーセとアロン「兄」

 4.ヘブライ王国のダビデ・ソロモン〔ユダヤ族〕が

   奉祭したエルサレムの神殿

 5.イスラエル十支族のメディア〔メソポタミア〕への

   捕囚「B.C.7世紀」

 6.ユダヤ王国の滅亡とバビロン捕囚及び
   
   エルサレムへの帰還と第二の神殿
  
 7.エルサレムの神殿の再壊滅と共に

   「十戒石」は行方不明となった

 8.十戒石「第二の十戒石」は

   ユダヤ王国の祭司アロン家によってどこかに秘匿されている

 9.どこに?


 日本の古代史には謎が多く秘められています。

 特に5世紀以前の歴史にはそれが顕著です。

 当講座はそのような不明のままになっている謎を

 『古事記』『日本書紀』など日本の古代史料は元より、

 神社の由緒、神名、地名

 また中国、インド、メソポタミア、ギリシアなどの古代史料をも

 参照しつつ解明すべく挑戦しています。

 よって当講座は古代の秘密のヴェールを切り裂く

 独特の研究成果となっています。

 当講座が世間に多くある歴史解説とほとんど同じであれば、

 敢えてわたしが皆様にお話しする意義はありません。

 当講座の内容がそれらと大分違っているからこそ

 お話し申し上げる価値があるのだと考えております。

 さて、世界の不思議の一つは

 「モーセが刻んだ十戒石」の所在が

  明らかになっていないことです。

 この石板は正確には「契約の石板」となりますが、

 2枚の石板に十か条の戒律、

 つまり神のヘブライの人々に対する指令が

 刻まれていると考えられています。

 この石板を神殿の至聖所に奉祭していたのが、

 モーセの兄にして祭司職アロン家です。

 その神殿はユダ族の王国の首都エルサレムにありました。

 しかし、その第二の神殿が破壊された際、

 その行方が知られずとなりました。

 多くのヘブライ学者などが

 世界中を捜し回っておりますが未だ不明です。

 わたしはヘブライ人が古代に

 日本列島へ渡来していたと説いております。

 果たしてこの「十戒石」は

  日本内に秘匿されているのでしようか。」

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年12月1日火曜日

≪アズミ族の正体≫石門「中津」


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫石門「中津」

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

  中津宮「勝山神社」福岡県福岡市東区志賀島勝馬

   勝山 志賀海神社(福岡市東区志賀島)の背後の山名

      「御笠山、衣笠山と三山」

   勝島神社(福岡市東区志賀島沖津島)志賀島の

    西北端沖にある神社:「沖津宮」という岩礁

   ※志賀海神社の「旧跡」との伝承がある。

  勝「カツ」ka-tu〔門-入口:門口〕

  中津「ナカツ」na-ka-tu〔石-門-入口〕石門口<入口の門の石>

   ※石は「神の住む天界への出入口」

   〇メソポタミアのジッグラト:石の山

   〇「旧約聖書」創世記第28章10~22

     10 さてヤコブはベエルシバを立って

              ハランへ向かったが、

     11 一つの所に着いたとき、日が暮れたので、

       そこで一夜を過ごし、

       その所の「石」を取って枕とし、そこに伏して寝た。
     
     12 時に彼は夢をみた。一つの梯子が地の上に

              立っていて、

       その頂は天に達し、

       神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た。

     17 そして彼は恐れて言った「これはなんと

              恐るべき所だろう。

       これは『神の家』である。これは『天の門』だ」 

     18 ヤコブは朝はやく起きて、

       枕としていた『石を取り、それを立てて柱とし』、

       その頂に油を注いで、

              その所の名をべテルと名づけた。

     22 また、わたしが柱に立てた

       この『石を神の家』といたしましょう。

  ◎ 石は『神の家』への『天の門』である。

  志賀海「シカウミ」zikum「天空:天」

   ※志賀海神社とは

    本来「天空」「天」-神を奉祭する祠である。

    その本来の天神は、

    中津宮(勝山)神社の天門を通った

    向こうの沖津宮(勝島神社)に鎮座する神である。

    しかし、この宮も「勝」である限り、

    あくまで「天門」にすぎず。

    その本宮は、がるか彼方にあることとなる。

   〇zikumは(米)は、また深海を表すengurとも訓まれる。
 
    この概念が阿曇磯鹿の祖像である。

  壱岐(長崎県壱岐郡:壱岐島)

  「イキ」ig 戸・扇

   津之宮神社(壱岐郡石田町池田東触)「ツノ」tu-na〔入口-石〕

   〇都之神社(石田神社、壱岐郡石田町石田東触)

  「ツメ」『延喜式』神名帳石田郡津神社「ツノ」

   〇角上神社(壱岐郡石田町湯岳與触)、角上山

  「ツノ」『延喜式』神名帳壱岐嶋壱岐郡角上神社「ツノカムノ」

   都上神社(壱岐郡芦辺湯岳本村触)「ツノ」
 
   〇與神社(壱岐郡芦辺湯岳與触)

  「イキ」ig 「扇・戸」『延喜式』神名帳石田郡與神社「ヨノ」

   津ノ上神社(壱岐郡郷ノ浦町牛方触)

   津の上山(壱岐郡芦辺町住吉前触、神社のすぐ北側)

   中野郷(壱岐郡芦辺町)「ナカ」na-ka 〔石-門〕

   仲触(壱岐郡勝本町)「ナカ」

   中津神社(壱岐郡勝本町北触)「ナカツ」na-ka-tu〔石-門-入口〕

   『延喜式』神名帳壱岐嶋壱岐郡中津神社<名神大>

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年11月19日木曜日

≪アズミ族の正体≫三國志巻三十・魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫三國志巻三十・魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々
    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 出典:『三国志』(晉) 陳壽撰;(宋)裴松之註

 魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章

 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。

 舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、

 乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、

 始度一海、千餘里至對馬國。

 其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。

 所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。

 有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。

 
 倭の人々は、

 帶方〔郡〕の東南にある大海の中の〔島々〕に住んでいて、

 山や島によって国や村をつくっている。

 もとは百余の国々に分かれていて、

 漢の時代には朝見して来る国もあった。

 今、通訳をつれた使者が〔中国や帶方郡に〕通って来る所は、

 三十国である。

 帶方〔郡〕より倭に行くには、都を出発して、

 まず海岸に沿って航行し、韓の国々を経て、

 乍(しばらく)は南に、乍は東に進んで、

 その北岸の狗邪韓國に到着する

 〔この間の距離は〕七千余里である。

 〔そこから〕始めて一つの海を渡り、

 千余里にして対馬国到着する。

 この国の大官は卑狗といい、次〔官〕を卑奴母離という。

 住んでいる所は海に囲まれた孤島で、

 広さは四百余里四方ほどである。

 土地は山が險しく、深森が多く、

 道路は禽獣が通う小経のようで、狭く險しい。

 〔人家は〕千余戸もある。

 人々は海産物を食糧として自活しているが、

 船によって南北〔の国々に〕から米穀を買い入れている。

 ※出典:大学講義録34:9~12頁

 「筆者は船旅をし、歩いて、眼と耳で確かめて書いた」

 この間(かん)、高句麗が魏に敗れて北の境界には変動があったが、

 半島が二分されて南半分が帯方郡だったことは動かない。

 仮にこの判定が間違っていて、

 三韓が帯方郡より南に独立していたのなら、どうなるか?。

 そのときは『魏書倭人章』の書き出しが

 「倭人在 三韓 東南大海之中」と変わる。

 しかし現実にはそうではなく

 「倭人在 帯方 東南大海之中」と明記してある。

 これを書いたのは単なる編集者に過ぎない陳寿ではない。

 彼は記録を寄せ集めただけで、

 その記録を書いたのは実際に倭国まで旅した梯儁と張政である。

 この二人は倭人の住む国がどこにあるかをはっきり聞き、

 そこへ往復する船旅を体験し、

 事実であることを眼で見、足で歩いて確かめたのだから、

 その記録が正確なことは疑う余地がない。

 彼らは二人とも、そのとき、帯方郡に勤務していた現役の役人である。

 帯方郡の範囲も、
 
 そこに含まれている地域の現状も歴史も知り尽くしていたのだから、

 三韓と帯方郡を間違えることはありえない。

 そして書いたのが「倭人在 帯方 東南」なのである。

 それは明確に三韓が帯方郡に包含されていた事実を、

 記録しているのである。

 もしそれが違っていたら、それは直ちに別の役人に指摘され、

 その場で訂正される。

 間違ったままで記録に残されることは絶対にない。

 だがその行程記事中に「韓国を経て」がある。

 これはどうなるか?。

 「狗邪韓国の全てまでわかる完全な記述」

 三韓が帯方郡に属しているのだから、

 単に「韓」だけならその地域名として理解できるが、

 「韓国」とわざわざ断っている。

 これはなぜか?。

 それは三韓に属さない「韓国」を経由するからなのである。

 そんなものがあるか?。

 それこそがお気付きのように狗邪韓国なのだ。

 このことから、
 
 過去に何の答えも出ていない

 「狗邪韓国」の所属も明かである。

 この国は三韓の国名には含まれていないから、

 明かに帯方郡にも入っていない。

 だから「倭の北岸」と書かれた。

 間違いなく倭国の領土だと認識して、

 はっきり「倭国の北の端の国」と明記したのである。

 だからそこは半島本土ではない。

 離れた島なのである。

 それが地名の訛りからみて、

 過去に風島(カゼシマ)などと呼ばれた巨済島であることは、

 狗邪は「古謝」という沖縄の地名と姓の発音「クジャ」そのものであり、

 巨済も今「コチェ」と発音されて古謝の韓音「コチェ」と一致し、

 種子島音でコザ(古座)。

 コをカと発音する大隅訛りだと狗邪も巨済もカゼになる事実から、

 今は巨済大橋で半島本土と陸続き状態になったが、

 3世紀には完全に本土から隔離して、

 独立国だった大島(だいとう)、

 巨済島であることは先ず間違いない。

 この例は『魏書倭人章』がどんなに細部まで、

 気をくばって書かれているかを物語る。

 島国1つもおろそかにせず所属を明確にしている。

 どこから見ても三韓は帯方の中にあったのである。

 「帯方郡使の出発点。帯方郡治の位置」
 
 するとここで初めて、

 帯方郡使が出発した帯方郡の役所の所在地、

 いわゆる「帯方郡治(ち)」はどこにあったか、

 という謎が解け始める。

 それは半島南半を治め、

 同時に魏との往来にも便利な場所でなければならない。

 車馬が少なく、陸行の困難な時代だから、

 半島の中央部でもだめ、東でもだめ、南半の中心に近く、

 西の海に出られる港でなければならない。

 なぜ港だとわかるか、それは帯方郡使の出発点を、

 ただ「郡より倭に至る」と書くだけで、

 「郡からどこの港へいって、そこから船出して…」と

 断らないから、郡(郡治=郡役所の所在地)が出発点で、

 そこが港でもあったとわかるからである。

 ではそれはどこだったのだろう?。

 郡の都だったのだから、地名にもそれが残るはずである。

 上記の条件に完全に合う地域に「群山」がある。

 群の字が違うが、

 そこは海岸で山の群れなどありはしないから、

 当て字にきまっている。

 とすれば群は郡の名残(なごり)、

 山は権力の中心「本山(ほんざん)」とみると、

 かつての帯方郡治(ち)の遺跡になる。

 そこは大河。

 「錦江」の河口にあり、

 鹿児島湾の別名

 「錦江(きんこう)湾」との密接な繋(つな)がりを語っている。

 そこは後(のち)の半島百済喪失の舞台、

 架空の白村江とされた場所でもあり、

 その北の背後地に半島百済の首都で王陵のある扶余(フヨ)がある。

 南の背後地には大屯山国立公庫地域があって

 公孫康の屯有県帯方郡を思い起こさせる。

 これ以上の帯方郡治候補地はない。

 「距難が立証した群山の正しさと京城説の崩壊」

 ではそれが正しいか間違いか、決定的な史料で判定してみよう。

 史料は『魏書倭人章』のコースと行程である。

 よくご記憶だから原文だけにしておこう。

 「郡至倭 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍未 

  到其北岸 狗邪韓国 七千余里」。

 この中でも最も強力な決め手が距離である。

 到着点の狗邪韓国は巨済島だから、

 それから約7000×55mの地域に群山があれば、

 帯方郡治の位置として正解である。

 当時の船は海岸に沿って進み、

 毎日、夜には停泊して、翌日、また沖へ漕ぎ出す。

 それを計算しながら海岸線を糸で辿って行くと、ほぼ400Kmある。

 7000×55mは 385km。これに「余里」を足すと、

 ぴったり一致していることになる。

 在来はこの帯方郡治を今のソウル(京城)付近だとして

 疑わなかったが、そこまでだと、

 もう200km以上遠くなるから、

 少なく見積もっても「一万余里」以上になる。

 絶対にソウルでなかったことはいうまでもない。

 この講座ではたびたび「定点」の重要さについてお話ししてきたが、

 終わりに際して、さらに強調して梯儁・張政の出発点。

 それは『魏書倭人章』の出発点でもある位置を

 意義あるものにして戴きたかったのである。

 こうして帯方郡使の倭国への出発点が確定すると、

 私たちの倭人尺は、

 『魏書倭人章』の距離記事の信頼牲を、

 絶対のものにしたということになる。


 魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章

 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、

 官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。

 方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、

 差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

 又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、

 濱山海居、草木茂盛、行不見前人。

 好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

 東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。

 有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

 東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。

 東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。

 南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。


 次に南へ海を渡り、千余里進む。

 この海の名は瀚海といい、一大国(壱岐)に到着する。

 〔この国の長〕官もまた卑狗といい、

 次〔官〕は卑奴母離という。

 広さはほぼ三百里四方である。

 〔この国には〕竹木や叢林が多く、

 三千ばかりの家がある。

 耕地は少々あるが、

 耕地を耕すだけでは食糧を確保することができないので、

 〔対馬国と〕同じく南北から米穀を買い入れている。

 また一つの海を渡り、

 千余里行って末盧国(佐賀県松浦郡)に到着する。

 人家は四千余戸あり、

 〔人々は〕山裾や海浜に沿って住んでいる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

≪アズミ族の正体≫『後漢書』東夷傳倭章


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫『後漢書』東夷傳倭章

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々
    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 『後漢書』東夷傳倭章

 倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。

 自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、

  世世傳統。

 其大倭王居邪馬臺國。

 今名邪摩(惟)堆、樂浪郡徼、去其國萬二千里、

 去其西北界拘邪韓國七千餘里。

 其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近。

 故其法俗多同。


 倭は、韓の東南方の大海の中にあって、

 〔人々は〕山の多い島に居住しており、

 すべてで百余国〔になる〕。

 〔前漢の〕武帝(在位前一四一~前八七年〕が

 〔衛氏〕朝鮮〔王朝〕を滅ぼした(前一〇八)後、

 通訳を連れた使者を漢に通わせた国は、

 〔そのうち〕三十ばかりである。

 〔それらの〕国〔の首長〕はみな王と称して、

 代々その系統を伝えている。

 〔それら諸王の王である〕大倭王は邪馬臺国に居住している。

 楽浪郡の〔南の〕境界は、邪馬臺国から一万二千里も離れており、

 倭の西北と境界をなす拘邪韓国(巨済島)から七千余里離れている。

 倭の地は、おおむね会稽の東冶の東方であって、

 朱崖・儋耳(ともに広東省の海南島)に近い。

 それゆえに倭の制度や習俗には、

 〔海南島地方のそれと〕共通するものが多い。

 ※出典:邪馬壹国大移動:79頁

 「会稽・東冶」の東

 『魏書倭人章』に中国と倭との相対的な位置を、

 はっきり具体的に書いた記事がある。

 それはこう書いてある。

 「その道のりを考えてみると、

  まさに会稽・東冶(トウヤ)の東にある。」

 会稽というのは今の浙江(セッコウ)省・紹興(ショウコウ)で、

 東冶というのは福建省・閩侯(ビンコウ=今の福州)である。

 お手もとの地図で見て戴くとすぐ分るが紹興の真東に

  奄美大島があり、

 福州(目印は台湾の北端の西、閩侯の河口)の真東に

  沖縄諸島がある。

 奄美は慶長一四年(1609)以前は琉球に属していた。

 この記事は九州全域に拡大後の3世紀の倭国ではないが、

 それ以前に倭が沖縄圏にあった時の記録が、

 事情を知らない

 『魏書倭人章』編者・陳寿によって混入されたものだという

  結論になる。

 とすれば、

 古代の中国人は沖縄について

  非常に正確な知識をもっていたのである。

 しかしそれは不思議なことではない。

 当時沖縄・奄美に住んでいた人々は海洋民族である。

 与那(ヨナ)国島と福州との距離は400kmは、

 那覇までの500kmよりはるかに近い。

 倭人が船で往来すれば自然に互いの地理関係は分かる。

 ただ中国人は海洋人ではないので記録が少ない。

 陳寿はその少ない記録を見つけ出して

 『魏書倭人章』に書き加えたのである。

 ところがこの記事を日本の学者たちは

 「古代中国人が日本を知らなかった証拠だ」として、

 「中国人は日本列島を九州が一番北にあり、

  それから南に本州が伸びていたと誤解していたのだ。
 
  彼等のいう南は本当は東のことだ。」と主張して、

 邪馬台国「大和説」や「宇佐説」の証拠にしてしまった。

 ※出典:JINMU:74~75頁

 「ほんとうに会稽東治の東にある邪馬壹国」

 『倭人章』には[邪馬壹国]と中国との相対的な位置関係を、

 はっきり具体的に書いた記事がある。

 それは「帯方郡から女王国まで万二千余里」と書いた後に

 「その道のりを計るとちょうど、会稽東治の東に当たる。

 この[東治トウチ]を過去の解説者は

  「東冶トウヤ」と読んできた。

 会稽は今の浙江(チョーチャン)省の紹興(シャオシン)で、

 「東冶トウヤ」は福建(フーチェン)省の福州(フーチョオ)である。

 お手元の地図で見ていただくとすぐ分かるが

 紹興の東が大隅熊毛に当たり、

 福州(目印は台湾の北端の西、閩江(ミンチャン)の河口)の東に

 沖縄がある。

 この距離は朝鮮半島南端から九州本島南端までの距離だ。

 [邪馬壹国]はそんなに大きいわけがないから

 [東冶(トウヤ)]と読むのは間違いだとすぐ分かる。

 それは写真の原典の文字をみても、

   絶対に[冶(ヤ)]という字ではない。

 <写真:中国の『魏書倭人章』の文字は正確>

 中国の『三国志』のの本はどの版をみても

 「東治(とうち)の「治」の文字は、

 他の「治める」という字と同じ三水偏であり、

 「冶(や)」は二水偏でここに書かれた

 「次」の字のように全然書き方が違う。

 [トウヤ=東冶]と間違うことは絶対にない。

 右は『紹興版』。

 左は『百衲(とつ)影宋本』であり、どの版をみても明瞭である。

 これは福建省の[東冶]が文字だけでなく地理的にも

 無関係なことは常識だからなのだ。

 ※出典:大学講義録10:10頁

 東冶(や)は絶対に間違い。東治(ち)が正しい

 この記事は古来もう一つ論争点をもっていた。

 それは「會稽東治(とうち)の東」を

 「會稽東冶(とうや)の東」と誤解していたことである。

 これは「治」と「冶」という文字の「篇(へん)」が、

 三水(さんずい)か二水(にすい)かという点一個の差なので、

 「古文献類は写し間違いや、虫食いや、染み汚れなどによって

  読めなくなる」

 という多数の事例が災いして、

 いまだに決着がつかない問題とされてきた。

 だがこれは、文字の問題として論争すること自体が問題なのであって、

 それは問題の本質を見抜けずにいたからに他(ほか)ならない。

 この問題が東治(とうち)と東冶(とうや)が指す地域のどちらが

 地理学的に合理的か不合理かで、

 簡単に勝敗が決まる性質のものでしかない。

 東冶(とうや)はいまの中国福建省閩侯(ミンコウ)県福州の古名で、

 台湾の北端から西北約260kmの台湾海峡寄りにある港湾都市である。

 こちらが正しいとすれば、會稽の東は鹿児島県南部なのだから、

 そこから南へ台湾の北端近くまでと限定される地域は

 疑いもなく沖縄、南西諸島一帯である。

 これならまさに「邪馬台国琉球説」だが、

 この説には幾つもの決定的欠陥がある。

 それは女王国の南端・奴国を沖縄の那覇市とみても

 南にあるはずの狗奴国が存在しないし、

 伊都国に合う糸満はあるが南北関係が逆。

 道程も、最大の沖縄本島でも陸行一月もわざわざ歩く必要がない。

 またそんな所にいては

   とても連邦全体を統治できないからである。

  『後漢書』東夷傳倭章

 土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績爲縑布。

 出白珠、青玉。其山有丹土。氣温、膎、冬夏生菜茹。

 無牛馬虎豹羊鵲。

 鵲或作雞其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨爲鏃。

 男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。

 其男衣皆横幅結束相連。

 女人被髮屈紒、衣如單被、貫頭而著之;並以丹朱扮身、

 説文曰扮、塵也。

 音蒲頓反如中國之用粉也。

 有城柵屋室。

 父母兄弟異處、唯會同男女無別。

 飮食以手、而用邊豆。

 俗皆徒跣、以蹲踞爲恭敬。

 人性嗜酒。多壽考、至百餘歳者甚衆。

 國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。

 女人不淫不妒。

 又俗不盜竊、少爭訟。

 犯法者沒其妻子、重者滅其門族。

 其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞爲樂。

 灼骨以卜、用決吉凶。

 行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰「持衰」。

 若在塗吉利、則雇以財物;如病疾遭害、以爲持衰不謹、

   便共殺之。


 土地は禾稲(いね)・麻紵(あさ)の〔栽培〕や、

 桑を植えて養蚕するのに適している。

 〔倭人は〕糸を績いで布を織る技術をもっており、

 縑布(かとりぎぬ)を生産する。

 白珠(真珠)・青玉(碧玉)を算出し、

 山には丹がある。

 気候はおだやかで、

 四季を通じて野菜が育つ。

 牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)などはいない。

 武器としては矛楯・木弓・竹矢が用いられ、

 〔矢には〕時には骨鏃を使っている。

 男子はみな黥面文身し(顔や身体に入墨し)、

 入墨の〔位置の〕左右や大小によって

   〔身分の〕上下を区別している。

 男子の衣服は横広〔の布〕を結束して連ねただけのものであり、

 女子は髪を束ねているだけで、

 単衣のような衣服に頭を貫して着ている。

 〔男女ともに〕丹や朱を体に塗りたくっているが、

 これは中国で白粉を使って〔化粧する〕ようなものである。

 〔倭国には〕城柵がある。

 家屋は父母の棟と兄弟の棟とが別である。

 ただ寄合いの時などは、男女の差別なく〔ふるまい〕、

 邊豆(木製の高杯)に盛ったものを手づかみで飲食する。

 普通はみな徒跣であり、

 蹲踞(両膝を折って腰をおろす)の姿勢で恭敬の意をあらわす。

 人はみな酒好きである。

 長命の者が多く、百余歳にまで至る者も大変多い。

 男子よりも女子の方が多いので〔諸国の〕大人(有力者)は

 みな四、五人の妻をもち、

 その他の者でも二、三人はもっている。
 
 〔それであるのに〕女性たちはいたって貞淑で、

 決して嫉妬などしない。

 風俗は盗みや争いごとが少ない。

 もしも掟を破れば、〔犯罪人の〕妻子を没収し、

 特に重罪の場合は一族の者をことごとく死刑にする。

 死者が出ると十余日間喪に服するが、

 〔この間〕家人は哭泣して酒食べせず、

 やって来た仲間たちが歌舞して〔葬送の〕楽とする。

 骨を灼いて〔日の〕吉兆を卜う。

 海を渡って〔中国に〕往来する際には、

 一人の人物に、髪を梳き沐することや、

 肉食し婦人を近づけることなどを禁じている。

 こうすることを持衰(もの忌みする)という。

 もしも道中無事でご利益があれば

   財物を与えてその報酬とするが、

 一行に病人が出たり災難に遭ったりすると、

 それはこの人物が持衰を謹行をしなかったからだとして

   殺してしまう。 

 ※出典:邪馬臺国の言葉:16~18頁

 「倭人は混成文化の持主」

 では倭人はなぜ、

 当時としては信じられないような測量ができたか?

 本当にそんな国文明をもっていたのであろうか?

 それは一体、どうして得られた知識であったのか?

 この疑問に対する答えは倭人伝の中にもありそうである。

 それにほ倭人の習俗や生活、習慣、産物などが、

 簡潔にではあるが、豊富に記録されている。

 また視点をかえてみると今や定説化している

 「北方騎馬民族説」がある。

 日本人の先祖が朝鮮半島を経て移住した北方人であるのなら、

 その知識は北方人の知識だったことになる。

 このことを頭において、倭人伝の記事のうち、

 その文明の由来を教えてくれるものがないか、

 幾つか検討してみることにしよう。

 「田」

 倭の筆頭にあげられた対馬以下、田について記載がある。

 良田がないので船で南北へ米や穀物を買い出しに行くとある。

 このことは倭人が北方騎馬民族ではないことを証明している。

 北方人は遊牧民で乳肉が主食であり田は作らない。

 倭人が魚介や海藻を食べるということと共に、

 東南アジア系の食習慣の持主であることを証拠立てている。

 「文身」

 入墨の習慣も南方系のもので、

 倭人伝ではそれが中支系のものであろうと書いている。

 「蚕桑」

 カイコを飼って絹織物を織っているのも、

 北方の毛皮を着る人々のものではない。

 これは衣服の描写や、牛馬も羊もいないという記事と共に、

 遊牧民ではないことを証明している。

 はだしの習慣も南方人である。

 「朱丹」

 倭人は赤土を、中国人の白粉(おしろい)のように使うとある。

 これはインドで今でもみる習慣で

   色絵具で手足に模様を描いたり、

 マレー語圏で顔などに赤土をぬったりする風習と同じである。

 これらはすべて、倭人が南方系であることを、

 はっきり証明しているというほかない。

 「喪」

 死者があると十余日喪に服し、肉類を食べない。

 これは見すごされているが、大きな問題を含んでいる。

 なぜなら、喪に服して肉食をしない、

 というのは仏教徒の教義に従っていることを示すからである。

 私たちがよく知っている精進料理しか食べないということは、

 これまで6世紀ごろに

 百済から始めて仏教が伝わったとされてきた考えと

 食いちがうように思われ、拒否反応があると思うが、

 はつきり明記されているのである。

 これも倭人はインド系か、

 それに近い南方人だったことを示すものといえる。

 「搏手」 

 長上に会うと手をうって敬意をあらわす。

 今では神を拝む際だけに残っているが、

 倭人伝が嘘を書いていない証拠といえる。

 合掌の一種で、やはりインド系の習慣である。

 「一夫多妻」

 この習俗は現在では回教徒の間に広く見られるが、

 回教が生れたのは7世紀で、

 それ以前のアラビアの習慣をうけついだものであり、

 倭人はインド西部からアラブにかけての慣習を 

 もっていた可能性がある。

 「土下座」

 一般人が長上に会うと土下座をして敬意をあらわす、

 という別の表敬法も記録されている。

 これもインド系の人々のほかに

 アラブ系の人々が多いことを物語っている。

 中国系は立礼で土に手をつく土下座はアラブ系だけである。


 「殉葬」

 卑弥呼を葬ったとき、男女百余名を一緒に葬ったとある。

 これは垂仁紀にも殉死記事があるのと支え合っている。

 この慣習は古くはメソポタミアにあり、

 やや下つて中国の殷(商)にもみられる。

 こうみてくると、倭人は広くアジア全域につながりがあるが、

 ことにインドを中心にした南国慣習がみられ、

 大和か九州かといった浅薄な対象でほなく、

 もっと国際的な広い視野が必要なことを示している。

 「持衰(じすい)=行路安全祈祷者」を殺し、

  犯罪者の宗族を滅ぼす等という記録は、
 
  全て仏教ではなくシンドゥ教で、

  この記事は邪馬壹国私立後の国情を、

  張政が記録したものであって、

  卑弥呼時代のものではない。

 『後漢書』東夷傳倭章

 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。

 光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。

 有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、

   於是共立爲王。

 侍婢千人、少有見者、唯有男子一人給飮食、傳辭語。

 居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衞。

 法俗嚴峻。


 〔後漢の光武帝〕建武中元二年(57)、

 倭奴国〔王が遣使して〕貢物を奉り朝賀した。

 使者は大夫と自称した。

 〔倭奴國は〕倭國の最南端である。

 光武帝は〔倭奴國王に〕印綬を与えた。

 安帝の永初元年(107)、

 倭國王帥升らが、生口百六十人を献上して、

 皇帝の接見を求めた。

 〔後漢末の〕桓帝、靈帝の治世(147~189)に、

 倭国はたいへん混乱し、たがいに戦い、

 何年もの間〔倭国の〕主なき有様であった。

 〔時に〕一人の女子がいた。

 その名を卑弥呼といい、

 すでにかなりの年かさでありながら未婚で、

 鬼道を用いてよく人々を妖惑していた。

 そこで〔卑弥呼は〕婢千人を傅かせ、

 その姿を見た者は稀である。

 ただ一人の男子が、飲食を供給し、

 言葉を伝えている。

 〔卑弥呼が〕居る処の宮室・楼観・城柵はみな、

 武装した者たちが守備しており、

 規律は極めて厳格である。

 ※出典:異説・日本古代国家:223~225頁

 「スサノオは1世紀に実在」

 この宮之城の名は、もう一つ別の古代史の謎を解いてくれる。

 「後漢書、東夷伝」によると

 「倭面土」国王の帥升が漢の安帝に会見を申し入れた、

   とあった。

 この国名をヤマトと読むなど諸説があるが、

   当時の漢文の原則は、

 漢委奴国王の金印でも証明される通り、

 母国名→属国名の二重表示になっており、

 漢の委奴国、倭の面土国と明確に記して、

 村名なしで大字(あざ)小字を

   いきなり書くようなことは許されない。

 倭が当時の日本の国号である以上、

 これは切り離して読むのが常識である。

 では面土はどう読むか?

 これは後漢の正史であるから漢音で読まねばならない。

 六朝音や呉音で読んでは正しい答えが出るはずがない。

 それは漢音では面(ミャン)、土(ヅゥ)となる。

 これは鹿児島方言の宮之城(ミヤンジュ)に

   当てた発音としては、

 類を見ない程に完璧な文字であることがわかる。

 当時の倭国内だけでなく、

 現在の日本地名に至る全国の地名を調べてみても、

 ミヤンヅゥに当てはまるものは宮之城以外にない。

 また観点を変えてみても、

   高句麗、新羅を生み出した倭の中心、

 川内王朝とでも名づけるものの中心地である。

 その王が一大部隊を引きつれて、漢の皇帝に会いに、

 はるばる長安まで大旅行を敢行することができた背景も

  納得が行く。

 これまでの想像説のように正体不明の一小国王が、

 実行できることではなかったのである。

 では帥升も漢音で読まねばならない。

 これは帥(スイ)升(サヌグ)で、

 これまたスサノウと聴きとれる音になっている。

 音だけでは証拠不充分だが、

  非常に肉迫していることは疑えない。

 これは充分証拠集めをしてみる価値がある。

 さきの修家(スカ)もその一つだが、

   さらに史書に幾つも見つかる。

 「勾麗第一番目の都は卒本扶余で、今の成川であったが、

  高朱蒙の子、瑠璃王の代に都を国内城に移し、

  慰那厳に都城を築いた」

 と明記している。

 もう一つは、さきに見た佟江の別名”塩難水(エナミ)”である。

 これも<イミ>が訛ったものと充分考えられる。

 さらにもう一つ。

 ”佟江”というのは、

 冬(トウ)あるいは凍(トウ)をあててもいいもので、

 古語の氷(スガ)を意味した可能性があること。

 というのは、『大韓彊域考』という文献によれば、

 「卒本の故地は

   今の開原県の東南二水を捗った処にあったと思われ、

  考えるに県の南十余里に”清河”あり云々」とあり、

 半島北部から鴨緑江を越えた土地にも、

 卒本と清河(スガ)とのセットが見られるからである。

 こんな風に、地名の移動を調べる場合、

 このセットになった地名は非常に有力な手がかりと証拠になる。

 それは人名の場合と同じく数が増せば増すほど、

 偶然でない証拠が増すからである。

 これだけ証拠がそろってくると、

 出雲神話の圧巻、

 ヤマタの大蛇退治の舞台が、イナのスガの地、

 すなわち国内(コウチ)城、現在の宮之城であり、

 それが倭の面土国であり、帥升王がスサノオであることが、

 もうひと押しであることを、

 ひしひしとお感じになっていらっしゃるであろう。

 そのひと押しをしてみよう。

 それは出水はどうなるのか?

 ということなのである。

 これは成川を朝鮮半島にあったと思いこんだりしているが、

 それは高句麗は半島にしかないと思いこんでいる、

 先入感のなせる業(ワザ)で仕方がないとして、

 ここに新しく登場した慰那(イナ)の地名は、

 スサノオの本拠地であった

   葦名(イナ)と完全に一致するのである。

 このイナガンは地名であるから、

 ガンは語尾に<上>または<神>がついた時の

 鹿児島方言であるとして大きな間違いはない。

 ここで注意を要するのは国内城を瑠璃王が築いたのではなく、

 それは以前からあったのであり、都を、

 その国内城を中心にして稲上、

 または井之上といった地区に建設したというのである。

 『後漢書』東夷傳倭章

 自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。

 自女王國南四千餘里至朱儒國。

 人長三四尺。

 自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。

 會稽海外有東鯷人、鯷音達奚反。

 分爲二十餘國。

 又有夷洲及洲。

 傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男女數千人入海、

 事見史記。求蓬莱神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、

 世世相承、有數萬家。

 人民時至會稽市。

 會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至sen[扁三水旁右檀]洲者。

 所在絶遠、不可往來。


 女王国から東へ海を渡ること千余里で狗奴国に至る。

 同じ倭の種族なのであるが、女王に属していない。

 女王国から南へ四千余里で朱儒国(こびとの国)に至る。

 人の背丈は三、四尺しかない。

 この朱儒〔国〕から船で東南へ行くこと一年で

  裸国・黒歯国に至る。

 使者や通訳を〔中国に〕伝える〔国〕は、こ

  こにおいて極まるのである。

 會稽の海外には東鯷人(不詳)がいて、

 分かれて二十余の国をつくっている。

 また夷州および澶州もある。

 〔澶州は『史記』に〕「秦の始皇帝が、

 方術の士であった徐福を遣わし、

 童男・童女数千人を率いて海上に出、

 蓬莱の仙人を捜させたが、得ることができなかった。

 徐福は誅せられるのを畏れて帰還を諦め、

 〔澶〕州に止まった」と伝えられている。

 〔澶州には〕代々相承けてそれらの人たちの子孫が繁栄し、

 数万の家があって、

 人民が時として會稽郡にやって来て商いをする。

 會稽郡東冶県の人で、

 海に出たところ風に流されて

   澶州に行き着いたという者もあるが、

 あまりにも遠いので往来はかなわない。

 ※出典:YAMATO:184~186頁

 「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」

 このハ行とカ行の関係が理解できると、

 この「ホ」の国と、それをめぐる国々の国名が、

 何から生まれて、どう分裂して増えていったかが完全にわかる。

 沖縄語の「ク」は本土語の「コ」だとわかるから、

 高麗は「コマ=コ国(マ)」で、やはり同じ国だとわかる。

 この高麗は本来「コーライ・コーレイ・コーリー」などとと

 呼ばれていた。

 それはこの地方が3000年前には、

 古代世界で最大の貝貨幣・宝貝の産地で供給国だったが、

 そのため宝貝は今でもインド語で「コーリー」、

 学名も英語も「カウリー」と呼ぶ。

 産物の名の多くは、その生産地の地名と同じになるから、

 これは「高麗」が世界を代表する産地だったことを

 記録しているのである。

 そして、学名と英語の「カウリー」は、実は沖縄語なのだ。

 那覇(なは)と反対側の中城湾(なかぐすくわん)には

 「高離島」という島があって土地の人は

 それを「カウリー・ジマ」と呼んでいるのである。

 それは沖縄発音で、もとは「コーライ」だったことがわかる。

 なぜならすぐ隣りにある台湾は、秦の始皇帝のころから

  「蓬莱=ホーライ」島と

 呼ばれているからである。

 「ホ」と「コ」が入れかわっているだけであることは、

 ご説明しなくてもいいと思う。

 では「蓬莱」という漢字のついた台湾は」
  
 中国領だったのだろうか?

 始皇帝はその島を神仙の住む別世界の仙境と信じて、

 「真人」になるために神薬を授かりに

 徐福らをその島へ派遣したのである。

 この「蓬莱」を徐福らの作り話だとする者が多いが、

 それは間違っている。

 それは実在し、徐福は場所も知っていた。

 彼は野蛮な独裁者・始皇帝の力を逆に利用して

 無事に中国を脱出する唯一の手段として、

 また万一の場合に備える「保険=人質」として、

 始皇帝の第三女ら多数の少年少女を

 連れて移住したのである。

 その子孫が首都を沖縄に移して大琉球と称し、

 台湾は小琉球になった。

 さらに種子島に移って女王国家「ホの国」を建国、

 南種子町の広田遺跡の墓に

 「山字文」の貝製装身具を残した。

 豊玉姫の伝統は弥生時代からのものだったのである。

 その後の足取りは、大隅の「襲(ソ)」という

 別名と「徐(ソ)」は同じ発音だから、

 そこが「徐の国」だったことがわかり、

 『日本書紀』と『三国史記』の記事で、

 さらに多数の証拠が見つかる。

 写真の「天慧甗(テンエゲン)」もそこに伝えられて実在する。

 天武天皇はその子孫の一人だったから、

 あれほどまでに「ヤマト=仙」にこだわり、

 それを国教にし、国名にしたのである。

 では元の名の「ホーライ」とは何だったのか?

 それは台湾の先住民・ギリシャ人の神話に出てくる

 大神ゼウスの娘で三人姉妹の

 「季節の女神(ホーライ)」のことである。

 台湾は

 ギリシャ以上に温暖な気候と豊富な果物に

 恵まれた仙境だから、

 季節の女神の島と呼ばれたのだ。

 「徐福が運んできた天慧甗」

 この徐福の徐は与や邪の字と全く同じ発音で、

 与那国がギリシャ人を意味している通り、

 イオニア系ギリシャ人だった。

 だから「与ナ」は国をマという人には「邪マ」と書かれた。

 邪馬壹国もギリシャ人の国という意味なのである。

 その「徐」は「ソ」とも発音する人々がいた。

 韓国のソウルも「徐伐」と書かれている。


 そのソの国は今の大隅地方で、

 そこにこの中国・秦の時代に作られた徐の国製だと銘記された

 銅器が現代まで宝として

 伝世してきたのである。

 『天孫降臨』の一部に

 この「ソの国」を「添」とか「曾堡里」とか当て字しているのは、

 内容とは別の史料として重要な意味をもっている。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ