2014年5月31日土曜日

阿曇・安曇(22)高床式神殿と「高み」

 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(22)高床式神殿と「高み」

 高床式建物に託された宗教的想念には埋葬儀礼を脱却した

 未来志向の新しい信仰心が発揚されていると考えられる。

 階段 galam を昇って至るどころでの「高み」は

 神聖な場所であったことは明らかである。

 Galam を表す楔形文字はまた sukud とも読まれた。

 その意味は「高くする」で、階段を昇って行くことである。

 階段上の聖所はsukuないしsugと称された。

 高床式建物の構造からすれば、

 このような建物が作られ始めた頃には簡単な仕組みで柱によって

 箱を支えるようなもので、

 箱中へは人間は入らなかっただろう。

 その聖所に穀物を蓄えることを si-en-gar といい、

 貯蔵する容器を sahar(sakar)、穀倉としての建物は gur と称され、

 管理者は sanga で、神殿の司祭ということであったと思われる。

 このような高床式建物は unu と呼ばれる祭式の場で、

 高床式神殿といってもよいであろう。
 
 建物を建てる技術は、洪水神話に語られる

 「箱船」の建設技術の基礎になっていると推測される。

 北メソポタミアの Oihok市の西方

 (無土器新石器時代のネムルク遺跡付近)

 チグリス川の近くに Allakoの町がある。

 この町名は、ギリシャ語の αργω、

 ドイツ語の Arche、

 英語の Ark と同根と思われる。

 箱を意味する言葉である。

 アッシリア時代ではあるが、

 ペルシャ湾のディルムンと交易する貿易商人をアルク Ark と呼んだ。

 「箱」が「商船」の意味に使われたのである。
 
 「箱船」を表記する町が北イラクのこの地域にあることは重要である。

 また「箱を作る人」は、

 ドイツ語で Architekt、現在でいう建築技師である。

 箱を備えつけた高床式神殿を建築することは

 貴重な技術革新であったと考えられる。

 ウバイド期にエリドゥなどで発展した煉瓦で建立された神殿技術は、
 
 紀元前5400年頃より1000年間くらい続く

 後期ウバイド期に入って、北メソポタミアにも伝承され、

 ニネヴェ近郊のテペ・ガウラなどで煉瓦を積上げ、

 壁を作った建物が神殿として現れるようになった。

 シュメル語で「煉瓦・壁」を表す用語はsigである。

 Sigの同根語がドイツ語にある。

 Ziegelが煉瓦を、Zingelが囲壁、市の城壁などの壁をを表し、

 Singelは市の外壁を表す。

 この同類語が北イラクの山脈シンジャール Sinjer である。

 ドイツ語の Zingel には壁のの他に台地や段丘の意味がるが、

 これも神殿の基壇である土塁と解釈できるので結局神殿を意味する。

 また、Zingelの原意は紐、帯、飾り帯を意味する

 Gutel と関連があるという。

 サンスクリット語の縄・紐を表す gardura と同義語である。

 またカトリック教の聖紐は Zinglum と称される。

 以上の言語から理解すると、

 原初的には紐による縄張りが行なわれていたと推測される。

 高床式神殿を動物の害から守るため周囲に紐を回らしたのである。

 紐を張ることを Zingel といったのである。

 紐は動物の皮革であっただろうが、次第に垣根を作るようになり、

 壁を建てる工夫を思いついたと思われる。

 これがジンジャ sinjer である。

 このように理解すると、
 
 供儀所を備えた神殿の発祥地が北メソポタミアにあった

 と考えてよいであろう。

 なお、神殿に穀物を貯蔵する行動は、

 ウバイド期からウルク期の遺跡シンジャール山脈にある

 グライ・レシュの至聖所内から大麦・小麦を大量に納めた

 甕が見つかっていることからも慣習であったと考えられる。

 Sinjer の祖語は、シュメル語に波及し、

 神・天を表す dingir へ転訛したと考える。

 また、

 シュメル語 Sakar は

 ドイツ語の Schrein、

 英語の Shrine と同根語で、

 容器・箱を表すが、日本の神社も

 英独語に翻訳する際にはこの用語が当てられている。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

阿曇・安曇(21)高床式建物と神殿


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(21)高床式建物と神殿

  再三アルパチャ遺跡の碗形土器に戻ることになるが、

 容器の底円形の中に描かれた図柄は、

 日本人の想像力には瞬間的に反応できるものである。

 神社の高床式神殿を簡単に連想できるからだが、

 ヨーロッパの人々にはそうはいかないだろう。

 階段を備えつけた神殿は日本の神社の本殿そのものの構造をもつ。

 この高床式建物に表された想念は、

 これまでの牛頭信仰の基礎にあった埋葬儀礼を抜け出しており
 
 葬送と関係はなくなっていると思われる。

 「牛頭」を崇拝の対象とした信仰へと発揚していると思われる。

 まずどのような理由により高床式建物は造られたのであろうか。

 推測の範囲に過ぎないが、農耕が進歩し耕作面積が拡大したことにより、

 麦類が主な穀類であることは明らかだが、その収穫量が増え、

 重要な種になる穀粒を安全に保管する必要が生じたのではないだろうか。

 ※旧約聖書創世記第10章22に出てくるセムの子孫名

  アルパクサデ Alpaxad は

  このアルパチャの地に係わる名称であることを付記しておきたい。

 河川の洪水で野生獣の群れの襲撃を避けるためには高い所に

 貯蔵しておくことが有利であったからと考えられる。

 ハラフ期のその当時の草原地帯は害を及ぼす野生獣を

 完全に排除できるような状況ではまだなかったのではないか。

 また、家畜化したとはいえ羊、山羊などは放し飼い状態であっただろう。

 シュメルの絵文字な柵に囲われた様子を礎にした

 羊の表記(○のなかに+)がみられるが、

 その時代より3000年も古い時代の状況である。

 動物を柵内に囲って飼育し始めたのは何時の頃だろうか。

 大ザブ川沿いのザウィ・チェミ遺跡の羊の家畜化が始まった頃は

 その必要も全くなかっただろう。

 柵が必要になったのは牛や馬の大型獣の家畜化を始めた時期以降だろう。

 野生の馬や牛が絶滅に近くになり、

 その確保の必要に迫られてからと考える。

 必要量の不足が予想されて捕獲して保持する

 あるいは繁殖させる知恵が働いたのである。

 後世15世紀末に始まったイングランドの囲み運動、

 さらに日本の海岸で1970年代から始められた

 ハマチ養殖業はその例である。

 アルパチャの碗形土器に描かれたこの高床式建物の時代は、

 まだ野生獣類は草原地帯に大量に棲息し、人間を脅かす存在であった。

 特に牡牛は獰猛でその威力に対する恐れが

 神格化され祀られたとの見解もある。

 野生獣から収穫した麦などの穀類、特に種とする穀粒を守り、

 神の加護を祈願したと理解したいのである。

 神は「高み」に座す。

 神の座所に至るためにははしごあるいは階段が必要になる。

 高床式神殿には必ずはしごが階段がついていなければならないのである。

 この概念を表しているのが旧約聖書創世記第28章である。

 ヤコブがベェルシンバを発ってハランへ向かう途中ある場所で夢をみる。

 「その所の石を取って枕とし、伏せて寝た。

  時に彼は夢をみた。

  一つのはしごが地の上に立って、

  その頂は天に達し、

  神の使いたちがそれを上り下りしているのをみた」

 ヤコブは神の声を聞き、朝目覚めてから

 「これは神の家である。これは天の門だ」と叫び。

 「枕としていた石を取り、それを立てて柱とし、

 その頂に油を注いでその所の名をぺテルと名付けた。

 その町の名は初めはルズといった」と述べられている。

 神は「高み」に座し、

 はしごを昇らなければその家に至ることができないのである。

 ぺテルは Bethel で神の家の意である。

 ルズは多分石を意味するギリシャ語λa-sの音写である。

 はしごについて『The New Jerome Biblical Commentary』は

 英語のladder(はしご)ではなく ramp (斜面路)、

 つまり stairway(階段)のことであると解説している。

 ぺテルは現在のイスラエルのイェルサレムに近いベツレム市で、

 古代にはカナアンのうちにあった。

  階段を昇って神の家に至るという観念には西アジアに広くあった。

 神殿を建造する際の重要な要素である。

 バビロン時代からアッシリア時代を通してメソポタミアでは

 多くのジクラドと呼ばれる巨大聖塔が作られた。

 土塁を高く積み上げてその上に神殿を設けたのであり、

 墓所としてつくられたエジプトのピラミッドとは性格を異にする。

 ※ジクラドはアッカド語の名称で、

  シュメル語の呼称はエ・マハ e・mah である。

  これは「大きな神殿」とともに「高みにある神殿」の意味でもある。

 そして、頂の神殿に昇るための階段が必ず付設された。

 エリドゥの最下層の神殿が土塁の上に建てられたのも

 同様の考え方の表れで、すでに後の聖塔の構成要素を示している。

 専門家が、現在知れれる神殿(祠堂)の下には

 さらに古い遺構があるのではないかと疑っているが、

 煉瓦で作られた建物ではない、

 木造建物ないし、葦屋の高床式神殿があったと推測できるのである。

  ジグラドのシュメル語での呼称には、

 ◎「hur-sag galam-ma」で「大きな階段のある山」の意であった。

 Hur-sag が山を「ma」が大きい、高い、「galam」が階段を表す。

 聖塔における階段は「高み」にある

 神殿(神の家)に仙りつくための単なる手段でなく、

 信仰の象徴であったとさえ思える。

 楔形文字の牡牛(gu)と階段(galam)はその刻字が近似している。

 つまり、galam は角の別称である。

 北メソポタミア地方で牛頭信仰が広がったのも、

 死霊は「牛角」である階段を通って神の家に至るとの

 想念が発生したからではなかろうか。

 Galam は、角を表すラテン語 corunu と同根語と考えられる。

 シュメル語の成句として野牛あるいは「野牛の角」となる。

 この成句を納得すると極めて興味ある事実が見えてくる。

 インド・ヨーロッパ語圏のこの alam-ma を同根語とする呼称が、

 地域によって表記は異なるものの

 地方名、都市名、川名などとして広がっているのである。

 まず、トルコのアナトリア、タロス山脈の

 北チャタル・フユク遺跡の東方の外れにある

 マラス市の正式名はKahraman-marasである。

 イオニアの故地に Germaneikがある。

 イランでは、

 バグダドの東方ザグロス山脈の山間に Kermanshah市、

 ペルシャ湾への入口アフガニスタンとの国境への地帯を

 Kerman地方といい、

 その北側にKerman市がある。

 アフガニスタンに入って

 シスターナとマルゴ砂漠を流れる川が Helman川である。

 インドの東南部ベンガル湾岸を Coromandel海岸といい、

 スリランカの首都 Colomboで、bo は牡牛の別称である。

 アメリカ大陸を発見したとされているColombusも同類語である。

 そして、

 ゲルマンGerman人およびGermaniaをあげておかなければならない。

 北メソポタミアでは、原新石器時代の遺跡名ケルメズ・デレが

 galam に由来する名称であることも意義深い。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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2014年5月29日木曜日

阿曇・安曇(20)地名「アルパチャ」:Arpachiya

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(20)地名「アルパチャ」:Arpachiya

  これまで説明の対象にしてきた碗形土器を出土した

 アルパチャ遺跡からは、その他にも牛頭意匠をあしらった

 鉢形土器などの彩色土器類が発見されていることは先に説明した。

 これらの土器類は外から輸入されたものでなく、

 この域内で焼成されたものであることは

 イスマイル・ヒジャラなどイラクの専門家の発掘調査により

 明らかになっている。

 ここに「牛頭信仰」の拠点があったことを知らせる

 土器類の遺留状況である。

 アルパチャArpachiya遺跡はニネヴェの東側で

 そう遠くない地点に位置している。

 ニネヴェはアッシリア帝国の中心都市であった。

 紀元前1800年頃に北メソポタミアに君臨し始めた

 古アッシリアは首都を南下させ、

 新アッシリアの紀元前9~7世紀になると

 ニネヴェを中心とする地域に首都を置くようになる。

 アッシリア語の牛頭を表す用語はアルプalpuである。

 この言葉は北メソポタミア起源でもないし、シュメル語でもない。

 紀元前1600年を少々遡る頃地中海沿岸のカナアン地方で発明された

 原カナアン文字の系統に連なる言葉である。

 この文字は、楔形文字の表意文字に対し、表音文字の始源となり、

 フェニキア語(ウガリト文字)、アラム語、後のヘブライ語、

 アラビア語の基礎となったばかりでなく、

 その波及はフェニキア文字を取り入れた

 ギリシャ文字やラテン文字へと広がり、

 現在使われているアルファベットの根源でもある。

 アッシリア語alpuはこの原カナアン語alpを移入した呼称である。

 因みにalpはフェニキア文字などで変化し、

 現在の「A」になっており、この文字体系をalphabetというのである。

 アルパチャの地名はこのalpuに起源をもつ。

 ハラフ期からカルトkhaldと称されていた「牛頭」は、

 多分中期アッシリア時代からかアルプに変名したのである。

 その後「土地」ないし「境界」を意味するto^をつけ、

 地名としてArpachiyaが成立し、現在に至っていると考えられる。

 この地方に「牛頭信仰」の拠点としての神殿があったことを

 示しているといえるだろう。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部


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 ハラフ期の土器について
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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阿曇・安曇(19)牛頭崇拝と角


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 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(19)牛頭崇拝と角

  牡牛を表すシュメル語で多用されているのは、

 「グgu、グドゥgudu、グドゥルgudr」で、

 この語はサンスクリット語にも入り、guあるいはgoとして使われている。

 「ウケ」あるいは「オックス」は

 インド・ヨーロッパ語圏の用語でシュメル語にはみえない。

  シュメル語で角を意味する用語は「シsi」であることは

 エリドゥの遺物を分析した際、紹介した。

 この単語は「目」をも意味する。

 また、「アa」という腕、力を表す単語が

 「ア・アム:a-am」と熟語になって角の意になる。

 「アムam」は野牛の意味で、a-amは「野牛の角」となる。

 この語も慣用句化されているようである。

 ギリシャ語の角を表す言葉はkepatosあるいはkepos、

 ラテン語ではcornu、ドイツ語でHorn、英語でhornあるいはgeweihである。

 このうちcornu系統はエーゲ海のクレタ島の

 ミノス文化より始まった比較的新しい、

 といっても紀元前1450年から1375年頃とされる

 線文字Bに表われる用語である。

 それに対し「ケラトスkepatos」はかなり古くから

 北メソポタミアで生まれた用語であると判断できる。

 その理由を説明するのは帰納法的展開を要するのでややこしくなる。

 ハラフ期からのこの地方における角の呼称は、

 現代の表現でも実在するkhardあるいはchaldであったと考える。

 このカルトないしケルトの崇拝者たちは

 自称をカルトリkhardliないしカルダchaldaと称して、

 現在においても北イラクに居住しているほか、

 トルコでは東部アナトリア地方などに2000万人にのぼる人々がいる。

 この人々の文化が紀元前5000年期から3000年期にかけて

 盛大であったことをこれまであまり評価されてこなかった面があり、

 再評価すべきと考えている。

 また、歴史時代への過渡期に当たって彼等の文化は

 南・中央ヨーロッパの全域に影響を与えたと考えられる。

 ハルシュタット文化を興したのを初め、

 広域に分布したケルト Celt・Kelt 文化は

 その影響の波及したものであろう。

 ここでは多くは述べられないので後述することとしたい。

 ハラフ式土器の広がりは、

 ハッスーナ期やサマッラ期に比べて格段に拡大している。

 専門家が推測しているとおり、その新しいファッションの土器類を

 使用したのは一種族だけではないであろう。

 ハフリ地名のある地域も広大である。

 そのような環境のなか、

 北メソポタミアにカルト(牛角)信仰の連帯感が広がり、

 カルト人としての集団意識が芽生えたのではないだろうか。

 そして、人々はハフリたちによって統率行動を取っていたと考えられる。

 また、このカルト信仰を行なっている土地を

 ハブールと称したといってよいだろう。

 シュメル語に「イi」という語がある。

 「高める・上げる」を意味する。

 ドイツ語の同意語はhebenで、

 「持ち上げる、起こす、引き上げる、掲げる」と内容が広がる。

 このhebenに対応する英語がheaveである。

 独英の単語が古代の北メソポタミアとどのような経緯で関係あるのか

 具体的に証することはできないが、

 「牛頭を掲げる」の「掲げる」の表現に係わりがあると思われる。

 つまり、現在に継承されているiberi、eberiの同義語と

 考えるからである。

 「牛頭を掲げる者」は固有名詞となり、

 牛頭の「信奉者」ないし「崇拝者」をも

 内包して使用されるようになったと思えるのである。

 khald-iberi、Celtiberはギリシャ語やラテン語にもみえる

 ギリシャ・ローマ時代の呼称である。

 シュメル語の中に「i-ab-ri供儀の牛を献げる」という表現があり、

 その文法上の慣習から母音短縮が起こり

 ibriないしebriの用語が生まれた可能性もある。

 ともあれ古代においてカルトイベリが存在したことは

 史料の上でも確かな事実である。

 牛角信仰を持った人々の名称がカルト人ばかりでなく、

 「牛角を掲げる人々」としての

 カルトイベリ人でもあったことを確認しておきたいのである。

 《参考》


 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 


  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部


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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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阿曇・安曇(18)オアンネス(Gr. Oannes):Yadava


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 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(18)オアンネス(Gr. Oannes):Yadava

 (Sk.)avan-c 下方の、より低き、南の(ava-n~c):avanti

      ava-ni    河流、河床、地、地面

      avana     恩恵、保護

      avani-taka  地面

 ○B.C.300頃 「バビロニアのベールの神官」

 バビロニアの古い古い歴史をもった国の

 「哲学」と「歴史」をギリシャ語で要説した。
 
 ベロッソス=Berossosのまとめたもの。

 「オアネスという名の異様な怪物」が現れた。

 身体は全体として魚、頭の下にもう一つの頭、

 それは人間の頭、足の陰にも人間の足と同じ足がみえた。

 山椒魚=Drache

 [水陸両棲生物]

 日没時に夜を過ごすため水の中に身を沈めた。

 人間の間にあって食物を何も採らず、

 人々に文字、あらゆる種類の科学と技術、町の建設、神殿の建造、

 判例の集成、幾何学を教えた、穀物の栽培、果物の収穫などについて

 明かにした。

 ○7人のすばらしいアプカッル(鯉に比定されている)

 apukal-il(神々のためのアプカッル)

 「エリゥ叙事詩」
 
 「そのパトロンであるエアと同様に、

  (彼から)並外れた巧妙さを付与された神聖な鯉なる

  アプスーの7人のアプカッル」

 最初のアプカッルはアダパという異名をもっていた。

 アダパ:adapa

     <水陸両棲生物の特性で水中でも歩かなければならない>

 アプカッル:ap(ab)-ha(ku)-lu-lu
       海の  魚  人・人(複数)人類
        魚人/人魚 ※海の漁人たち

 ap-su=海/遠い海、地下水zu ab

 最初のアプカッル:ap-ha(ku)-lu[アプカル]海の魚人(単数)

 アプカッルは鯉でなく蛙(かえる)[ひきがえる]に

 比定しなければならない。

 (Heb.),כַרֶפַדַה,KRPDH,karepadah ひきがえる
     ,כַרֶפִיֶֻנ,KRPYVN,karepiyuen 鯉

 ○オアンネス[Gr.Oannes]

    uh-ni-nisag:uh 蛙・かえる-ni(の)-nisag司祭

  司祭である蛙[水陸両棲生物]としてである。

 (Heb.),הָֻיל,HVVYL,houylはおり/hoviylかえる

          導く、指導する、持ってくる

     ,נִוֶזַה,נֶזֶה,NVZII,nivezah/nezeh ひきがえる[背の低い人]

  ※ヘブライ語においては、

   シュメル語の「かえる」と「司祭」の対象語が

   ひっくりかえっているのはおもしろい

  ※a-deb[水を歩き回る]:adpa

     (サンスクリット語)ya-das 大きな水棲動物、海の怪物、

   yadu Veda時代の一種族またその首長の名

   yadava,yaduの後裔の子孫、その一族、

   その後裔からKrsnaクリシュナが出、

     その都をドヴァーラカーDva-raka-という。

 ○エリドゥ

  Eridu ← erdhi(Grg.グルジア語) 

  Uri  ← ori(Grg.)

  Urk  ← シュメル時代 Unuウヌ(旧約聖書Erek)

  eme(シュメル語)言葉、舌

  ena(Grg.)言語[この町絵文字の粘土板が発見された]

  Olkhi(Grg.)宗教

  [a-r(賛美な)(Grg.)-si(角)(Grg.)→ol-khi 角をほめること信仰(宗教)]

 ○エリドゥの守護神

  Enki[主<神>―地]地神
  ea[地下水],a-e3-a 泉

  (Heb.),יֶיַ,YY,yeya「主」の別称、「アドナイ」「ハシェム」と証する。

   ※日本に渡来して「伊夜彦」の神名になっている。

 ○エリドゥの地域は後にカルディアと呼ばれた

  Chaldea(B.C.15世紀)>chalda(B.C.8.7世紀):khard-a←si角[kert角]


 ○メルッハ:シュメル時代海外のある地域を呼んだ名称、

  インドのマルワ地方等に比定される。

  Kar-me-lu-ha 魚人のいる国=maruha:ma-lu-ha 魚人の土地
  国 いる 人 魚          土地 人 魚

阿曇・安曇(17)THE NEUTRON ACTIVATION ANALYSIS OF HALAF AND UBAID POTTERY FROM TELL ARPACHIYAH AND TEPE GAWRA

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 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(17)THE NEUTRON ACTIVATION ANALYSIS OF HALAF AND UBAID POTTERY FROM TELL ARPACHIYAH AND TEPE GAWRA

 IRAQ

 VOLUME・XLⅡ・PART2・AUTUMN 1980

 EXCAVATIONS AT ABU SLAVIKH,1978-79
 by J.N.POSTGATE                                                      87
                                       
 AN EARLY DYNASTIC Ⅲ FLINT INDUSTRY 
 FROM ABU SLAVIKH by JOAN CROWFOOT PAYNE             105

 A PRPOS DELA PRRLEL,76.5 DELARSA:
 LES PERLES A QUATRE SPIRALES
 by J.L.HUOT,V.PARDO and A.ROUQEULLS                                  121

 ARPACHLYAH 1976
 by ISMALE HIJARA and others                                          131

 THE NEUTRON ACTIVATION ANALYSIS
 OF HALAF AND UBAID POTTERY FROM
 TELL ARPACHIYAH AND TEPE GAWRA
 by T.E.DAVIDSON and HUGH MCKERRRLL                                   135


 THE BRITISH SCHOOL OF ARCHAEOLOGY
 IN IRAQ

 PUBLICATIONS

 ⅩⅩⅢrd. Rencontre Assyriologiquc International
      Trade in Ancient Near East. Papers of the ⅩⅩⅢrd.
      Rencontre Assyriologiquc Internationale, Birmingham 1976
      (required from Iraq ⅩⅩⅩⅠⅩ((1977)).231 pp £12.00

 Texts

     Cuniform Texts from Nimurd-Ⅰ: The Nimurd Wine Lists,
     by J.V.Kinnier Wilson 167 pp.,54 pls.£6

     Cuniform Texts from Nimurd-Ⅱ: The Goveiitor's Palace Archive
   by J.N.postgate, 294 pp., 98 pls, £16

   The Old Babylonian Text from Tell al Rimah, by Stephanie Dalley,
     G.B.F.Walker and J.D.Hawkins, 272 pp., pls. £16

 Ivories

     Ivories from Nimrud-Ⅰ/2: Equetrian Bridle-harness Oinaments,
     by J.J.Orchard, 48 pp., 46 pls. £6.50

     Ivories from Nimrud-Ⅱ: Ivories in the Assyrian Style,
     by M.E.L Mallowan and L.G.Davis, 60 pp. +350 photographs 233 line drawings. £10

     Ivories from Nimrud-Ⅲ: Furniture from SW,7. Fort Shalmaneser,
     by M.E.L Mallowan and G.Hcrrmaun, 120 pp. +111 photographs 14 line drawings. £10.50

 Journal, back numbers £12.50 each.
     Index to Vols, Ⅰ-ⅩⅩⅩ,£1.00 each.

  Ur in Retrospect(In Mcmoriam Sir Leonard Woolley;=Iraq ⅩⅩⅡ(1960)). £12.50
  The Vassal Treaties of Esarhaddon, by D.J. Wiseman, 99 pp., 63 pls., casebound
  (=Iraq ⅩⅩ(1958), Pt.1). £7.00

  Orders (postage and packing extra) to:
  British School of Archaeology in Iraq,31-34 Gordon Square, London WCIH:OPY


 148 ISMAIL HIJARA OTHERS 342a 342b

 149 ARPACHIYAH 1976 343 344 345 346 347 348 349 350 351

2014年5月21日水曜日

阿曇・安曇(16)筑紫


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(16)筑紫

 ◎神崎郡神崎町[佐賀県]

  神埼[神崎町]「カンサキ」

   (阿曇語) gun "カン(ネ)" 糸-"sag₃" 明るい、純な

        :明るい糸:絹

   ※「明るい」は"光っているもの"を表わす。

    域内に浄光寺、真浄光寺寺名の寺院がある。

    他に光蔵寺、光明寺。

  櫛田宮[神崎町神崎]

   「クシダ」(阿曇語) kešda 糸、紐 

    ※「カンサキ」に対応する。「カン・gun」と同義。

  竹[神崎町神崎の西隣り]「タケ」(阿曇語) tuk 市

  鶴[神崎町神崎の北隣り]「ツル」(阿曇語) daru₂ 純粋な

   ※「カンサキ」の「サキ:純な」に対応する

  告牟田[神崎町神崎の西南隣り]

   「ツゲ・ムタ」(阿曇語)" tug 織物 mutug"衣服:衣服の織物

  城原[神崎町竹の北隣り]

   「シロ」(阿曇語) sir 光る

    ※「シロ」は「白」であり、この周辺で「白木」:桑畑があった。

 ◎巻貝:貝紫[染料]

  (Heb.),כָנֶכהיַֻה,KVNkhYA,konekhyuah 巻貝

   (Lat.)concha 貝、〇イガイ、二枚貝◎紫紅色の染料、この染料をとる貝

     conchylit 貝、〇紫紅色染料をとる貝

            〇紫紅色染料〇この染料で染めた衣、着物

  (Grk.)κόγχη [kogxe] 貝(二枚)

          κόχλός [koxlos] 巻貝(特にアクキガイ、ホラガイ)、蝸牛

     κηκις [kekis] 紫貝からとった染料

     κόκκιός [kokkinos]緋(深紅)色の、緋色の衣服

  (Eng.)conch 巻貝

  (Grk.)φοινικεός[phoinikeos] 緋色の、赤紫色の

     φοινξ、φοινκός[phoinikos] 緋色、赤紫

  巻貝
  巻貝

  バイ貝
  
バイ貝

  1.諫早市〔長崎県〕

     船越、小船越、貝津町、喜々津(多良見町)、大染島、小ヶ倉

  2.小城郡芦刈町〔佐賀県〕下古賀

  3.佐賀市 鹿ノ子、古賀

  4.佐賀郡東与賀町 下古賀 

  5.佐賀郡 川副町 東古賀、西古賀、小々森、鹿江

  6.大川市〔福岡県〕鐘ヶ江、中古賀、北古賀、鬼古賀、

     古賀、兼木(三丸)、小保、外開、五家、紅粉屋

  7.柳川市〔福岡県〕古賀、久々原、中古賀

  8.山門郡三橋町〔福岡県〕今古賀

  9.山門郡大和町〔福岡県〕古開

  10.三潴郡三潴町〔福岡県〕岩小賀

  11.三潴郡大木町〔福岡県〕古賀

  12.北九州氏 小倉<紫川>

 『絹のデータベース

 絹の出土地[弥生時代] ※布目順郎氏の調査

 1.福岡県甘木市 栗山遺跡

   中期前半の甕棺人骨付着

  甘木市栗山遺跡

 2.福岡市博多区比恵遺跡

   中期前半の甕棺出土の細形銅剣の身を包んでいた。

   日本産とみられる(紅糸の本数が中国産に比べて少ない)。

   銅剣の柄に絹糸が巻かれていた。

  博多区比恵遺跡

 《弥生中期後半》

 1.福岡県飯塚市立岩遺跡

   鉄製素環頭刀子の柄に巻かれていたものなど3例

  飯塚市立岩遺跡

 2.春日市 須玖岡本遺跡

   鏡片に付着

  春日市須玖岡本遺跡

 3.春日市 門田遺跡

    鉄剣に付着

  春日市門田遺跡

 4.大宰府市 吉ヶ浦遺跡

    人骨に付着

  大宰府市吉ヶ浦遺跡

 『その他』

  福岡市唐の原遺跡 絹

  有田遺跡 絹

  吉武高木遺跡 絹

  宮の前遺跡 絹

 『絹布片』

 佐賀県三田川町 吉野ヶ里遺跡

  中期後半 甕棺内から絹布片20例

 朝日北遺跡絹布片

  長崎県島原市 三会村遺跡

2014年5月18日日曜日

阿曇・安曇(15)筑紫と奴国


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 阿曇・安曇(15)筑紫と奴国

 ◎「和名類聚抄」筑前国糟屋郡 阿曇郷・志珂郷

   志珂郷 福岡市東区志賀島

   阿曇郷 福岡市東区和白辺り(一般的:これまでの比定地) 

  阿曇「アズミ」 eš-ma₂ 〔家(屋)-船〕:屋船

 ◎奴国(福岡県福岡市東区・博多区)

   奴「ナ」(Sk.) nau,nāva 「船」

      (Grk.) ναυσ(naus) 「船」  νησ(nhs):ναυσの複数
  
   ※阿曇(eš-ma₂)族がこの地域にいたことにより、

    後から渡来したインド商人たちが、

    ここを「奴(船)」と呼ぶようになったもの。

   「後漢書」巻一下 光武帝紀(建武中元)二年正月(紀元57年)

    東夷倭奴國王遣使奉献。

    [一]倭在大帯方東南大海中、依山島為國

   ○「漢委奴国王」金印

 ◎筑紫「ツクシ」「チクシ」

  「筑後國風土記」逸文 筑後國號

  筑後の國の風土記に云はく、

  筑後の國は、本、筑前の国と合せて一つの國たりき。
 
  昔、此の両の國の間の山に険しく狭き坂ありて、

  往来の人、駕れる鞍韉(したくら)を摩り盡(つく)されき。

  土人、鞍韉(したくら)盡(つく)しの坂と曰ひき。

  三(つぎ)に云はく、

  昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、

  往来の人、半は生き、半は死にき。

  其の数極く多なりき。

  因りて人の命盡の神と曰ひき。

  時に、筑紫君・肥君等占へて、

  筑紫君等が祖甕依姫(みかよりひめ)を祝と為して祭らしめき。

  爾より以降、路行く人、神に害はれず。

  是を以ちて、筑紫の神と曰ふ。

  四(つぎ)に云はく、其の死にし者を葬らむ為に、

  此の山の木を伐りて、棺輿(ひとき)を造作りき。

  玆(こ)れに因りて山の木盡(つく)さむとしき。

  因りて筑紫の國と曰ひき。

  後に両の國に分ちて、前と後と為す。
   
  ※この逸文に依りて「つくし」が原初的地名であったことが判明する。

   但し、その地名由来のいずれも本当とは考えられない。

  後に両の國に分ちて、前と後と為す。
   
  ※この逸文に依りて「つくし」が原初的地名であったことが判明する。

   但し、その地名由来のいずれも本当とは考えられない。

 筑紫「ツクシ」

  (阿曇語/シュメル語) 

   tuk-ši 〔布‐光る〕「光る市」:"絹布"を表わす。

   あるいは     

   tug-ši 〔織物‐光る〕「光る織物」:"絹織物"を表わす。

  筑紫(福岡県筑紫野市の地区名) 筑紫宮が鎮座する。

   「延喜式」神名帳 筑前國御笠郡 筑紫神社:名神大 「チクシ」 

   「全国神社名鑑」筑紫(ちくし)神社


    筑紫野市原田 祭神:白日別尊・田村麿・五十猛尊・玉依姫尊

    "九州を筑紫という称は白日別命の神号より起った」。


    城山(筑紫野市筑紫にある山名)

     筑紫神社はこの山にかってはあったと伝えられる。

    「シロ」(阿曇語) sir₄ = ši 「光」、城山は「光る山の語義」

    古賀(筑紫野市、城山のある筑紫の北方すぐの地区名。

      古賀、上古賀に現在分かれている)

  「コカ」・「コガ」(阿尼語・倭人語)

          g?‐kh? 〔林‐白〕:〔白い林〕

   ※「光る山」「白い林」 は蠶が桑の木(林)に繭を作り、

    その桑林が白く輝いてみえる様をいったもので、

    この地方で倭人による養蚕が行われていたことを示している。

  <古代においては桑の木に繭を作らせそれを集めていたものとみられる。

   「エリュウトウ海航海記」にそのような表現がみられる>

2014年5月16日金曜日

阿曇・安曇(14)石門「中津」


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 阿曇・安曇(14)石門「中津」

 A 中津宮「勝山神社」福岡県福岡市東区志賀島勝馬

    勝山 志賀海神社(福岡市東区志賀島)の背後の山名

    「御笠山、衣笠山と三山」

    勝島神社(福岡市東区志賀島沖津島)志賀島の

    西北端沖にある神社「沖津宮」という岩礁

    ※志賀海神社の「旧跡」との伝承がある。

  勝「カツ」ka-tu「門・入口:門口」

  中津「ナカツ」na-ka-tu「石・門・入口」石門口<入口の門の石>

   ※石は「神の住む天界への出入口」

    ○メソポタミアのジッグラト:石の山

    ○「旧約聖書」創世記第二八章10~22

     10 さてヤコブはベエルシバを立ってハランへ向かったが、

     11 一つの所に着いたとき、日が暮れたので、

       そこで一夜を過ごし、

       その所の「石」を取って枕とし、そこに伏して寝た。
     
     12 時に彼は夢をみた。一つの梯子が地の上に立っていて、

       その頂は天に達し、

       神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た。

     17 そして彼は恐れて言った「これはなんと恐るべき所だろう。

       これは『神の家』である。これは『天の門』だ」 

     18 ヤコブは朝はやく起きて、

       枕としていた『石を取り、それを立てて柱とし』、

       その頂に油を注いで、その所の名をべテルと名づけた。

     22 また、わたしが柱に立てた

       この『石を神の家』といたしましょう。

      ◎ 石は『神の家』への『天の門』である。

  志賀海「シカウミ」zikum「天空:天」

   ※ 志賀海神社とは本来「天空」「天」-神を奉祭する祠である。

     その本来の天神は、

     中津宮(勝山)神社の天門を通った

     向こうの沖津宮(勝島神社)に鎮座する神である。

     しかし、この宮も「勝」である限り、

     あくまで「天門」にすぎず。

     その本宮は、がるか彼方にあることとなる。

   ○ zikumは(米)は、また深海を表すengurとも訓まれる。

     この概念が阿曇磯鹿の祖像である。

 B 壱岐(長崎県壱岐郡:壱岐島)

  「イキ」ig 戸・扇

   津之宮神社(壱岐郡石田町池田東触)「ツノ」tu-na「入口・石」

  ○都之神社(石田神社、壱岐郡石田町石田東触)

   「ツメ」『延喜式』神名帳石田郡津神社「ツノ」

  ○角上神社(壱岐郡石田町湯岳與触)、角上山

   「ツノ」『延喜式』神名帳壱岐嶋壱岐郡角上神社「ツノカムノ」

   都上神社(壱岐郡芦辺湯岳本村触)「ツノ」
 
  ○與神社(壱岐郡芦辺湯岳與触)

   「イキ」ig 「扇・戸」『延喜式』神名帳石田郡與神社「ヨノ」

   津ノ上神社(壱岐郡郷ノ浦町牛方触)

   津の上山(壱岐郡芦辺町住吉前触、神社のすぐ北側)

   中野郷(壱岐郡芦辺町)「ナカ」na-ka 「石門」

   仲触(壱岐郡勝本町)「ナカ」

   中津神社(壱岐郡勝本町北触)「ナカツ」na-ka-tu 「石・門・入口」

   『延喜式』神名帳壱岐嶋壱岐郡中津神社<名神大>
 
 「地図」壱岐島

2014年5月15日木曜日

阿曇・安曇(13)漢委奴国王の金印


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 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(13)漢委奴国王の金印

 出典:「なぞ!ふしぎ!世界の遺跡探検」
   :岩田 一彦
   :理論社

 「2000年も前の日本と中国の交流を明らかにした印」

 江戸時代の中ころにあたる1784年のことです。

 博多湾に浮かぶ小さな志賀島で、

 甚兵衛さんという百姓が、

 海辺に近い田でミゾを修理していました。

 大きな石が出てきたので、掘り起こしました。

 すると、その底にキラッと光るものが

 見えるではありませんか。

 それをとり出した甚兵衛さんは

 ビックリギョウテンしました。

 いったい、それは何だったのでしよう。

 「紀元1 世紀の中国と日本」

 中国の後漢王朝の歴史を記した『後漢書』とい書物に、

 「紀元57年に、倭の奴国の使者が後漢の首都洛陽をおとずれ、

 みつぎものをさし出すと、よろこんだ皇帝は、

 この使者に組みひものついた印をあたえた」という記述があります。

 このように中国の古い歴史書が伝えていることは、

 ほんとうのことか、また事実としたら、

 この印はどこにあるのか、

 はっきりしないまま長い時がすぎました。

 「発見された金印か争わかったこと」

 甚兵衛さんが発見したのは、

 1辺がおよそ2.3cm の正方形で、高さが2.2.cm 、重さが約108. 7g で、

 純金でつくられた印でした。

 印は「漢委奴国王」という漢字が3行で彫られ、

 つまみはへビがとぐろをまいている形をしていて、

 ひもを通す穴があいていました。

 「漢」は漢王朝、「委」は「倭」のことで、

 当時、中国で日本のことを示す呼び名でした。

 「奴」は、弥生時代に北九州の福岡平野にあった小さな集落の一つです。

 印は

 日本にあって、漢王朝につかえる奴という国の王であることをみとめる

 ということを意味しています。

 こうして、志賀島で発見された金印は、

 後漢の皇帝が奴という国の使者におくったものと

 考えられるようになったのです。

 「中国の中華思想」

 古くから中国では、自分たちが世界の中心に位置し、

 すべてにわたってすぐれている

 ただ1 つの文明世界であるという考え方が根強くあります。

 これを「中華」思想といいます。

 中国の皇帝は、中華をしたってみつぎものをさし出した

 外国とだけ外交関係をもちました。

 そして、外交関係をもつにあたっては、

 それらの国の王や支配者に中国の役職の肩書きをあたえて、

 中国の皇帝の家来であるかのようにあつかいました。

 2つの国の関係をはっきり示すものが、

 この印をあたえるという儀式だったのです。

 印はランクによって金印、銀印、銅印があり、

 つまみも、方民族にはラクダ、

 南方民族にはヘビの彫刻でかざったものをおくりました。

 「漢委奴国王」の金印も、その1 つでした。

 3世紀前半、耶馬台国の女王卑弥呼も、

 魏という中国の王朝から、

 金印と、それを肩からかける紫の組みひもや

 銅製の鏡などをおくられたと、

 『魏書倭人章』という書物に記されています。

 「写真」福岡県志賀島の金印公園

 「写真」金印の前景

 「写真」金印の印面

 「写真」金印を捺印した印影