2013年12月31日火曜日

愛知、渥美、越もアムピトリテから生まれた


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:16頁

 この二つのイバラキの中間には

 滋賀県の愛知(えち)川、愛知県の「アイチ」があり、

 その愛知県には渥美(あつみ)湾と渥美半島があり、

 静岡県には安倍川がある。

 「アツミ」は「アンミ」の「ン」を助詞とみて「津」を使ったもの。

 「アイチ」は「藍ノ」のノを「津(チ)」に取り換えたもの。

 「エチ」は「アイ」を南九州語で「エ」と訛ったものだから、

 エチゼン・エチゴの「越」もまたアムピトリテの子孫なのである。

 この地域が日本海に依存する漁業と海運の海人国だったことは周知の事実で、

 隼人族圏だということは江戸時代から指摘されていたし、

 住民の姓も南九州人と共通のものが目立つ。

 こうみてくるとその越前に隣りするのは

 種子島という名をもつ丹波・丹後・但馬なのだから何の疑念も残らないし、

 また丹後には網野もある。

 ではこれらの地名を残したアムピトリテはどこで?、いつ?、

 そうした地名を生み始めたのであろうか?。

 卑弥呼がぺマカと呼ばれたのは、

 間違いなく天若日子ソナカと結婚してからだから、

 後漢の桓・霊の間(2世紀後半)以後である。

 それは彼女のもつもう一つの呼び名が「愛」で、

 それをパーリ語で呼んだのであるから、

 位置はまだ南九州本土に入る前、

 南海の島での歴史である。

 だからこそ、

 ぺマカは沖縄語化してピーミャーグァと訛ったのだ。

 《愛知、渥美、越もアムピトリテから生まれた

 「愛知、渥美、越もアムピトリテから生まれた

 『My ブログ』

 《考古学&古代史の諸問題》

 《参考:年表・資料》

2013年12月29日日曜日

鎌足の阿武(アム)山と大織冠(オオしょくかん)の真相


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:14頁

 これで倭国東遷の証拠がさらに充実したが、

 それより私たちの本来の主題である

 建国史のヒロイン・卑弥呼の名の語源が、決定的にわかることのほうが重要である。

 それを整理してみよう。

 茨木市に残る安威・藍野・鮎川がいずれも「アイ」の発音をもち、

 卑弥呼の本来の発音「ぺマカ(パーリ語)」の意味である

 「愛」の中国語発音「アイ」に一致することで、

 彼女の伝統を継ぐ政権がそこにあったことが証明されているが、

 これにはさらに強力な証言が加わってくる。

 この茨木市には、

 藤原鎌足の冠位「大織冠(しょくかん)に相当する装束の、

 遺品とされる玉製品が出土した彼の基があることで有名な

 阿武(あぶ)山がある。

 この本来の発音は「アム」で、安威以上にアムピトリテの略名に一致していた。

 この「阿武」は、

 また萩市(山口県)を流れる阿武(あぶ)川と、

 その北東にある阿武町に代表される阿武郡が知られているが、

 それは名力士「阿武の松」を出したからである。

 この力士の醜名(しこな)はアブノマツではなく

 「オオノマツ」と発音するから阿武の古書が「オオ」だったことがわかる。

 すると百済倭国(フジワラ)(藤原)鎌足の墓が造られたから

 その山が「オオ=倭」山と呼ば阿武山と当て字されたのだとわかるし、

 さらに彼の冠位「大織冠」の大は「倭人(オオ)」で、

 織は「職=役職」、

 冠は「上(かみ)・守(かみ)」、

 倭人を管理する長官といった国名だったとわかる。

 《鎌足の阿武(アム)山と大織冠(オオしょくかん)の真相

 「鎌足の阿武(アム)山と大織冠(オオしょくかん)の真相

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

2013年12月28日土曜日

倭国と共に移動し分布した女神名(アムピトリテ)の地名


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:13頁

 その手掛かりは女神の名の後半「トリテ」にある。

 東京都からJR常磐線で北東に20kmの利根川北岸に

 茨城県取手(トリデ)市があり、

 その北東20kmに阿見(アミ)町(稲敷郡)がある。

 取手市は今は「トリデ」と発音しているが、

 その文字は幕末まで下級警官の呼び名だった「取手=トリテ」と同じだし、

 網はそれを使う取り手(漁師)がいなくては役に立たない。

 阿見と取手はワンセットになった名前だから、

 間違いなく「アムピトリテ」を守護神にした一族の居住地に、

 南海から海人たちが運んだギリシャ文明の遺産なのである。

 ではそれは、いっ?生まれたのか?。

 その地域の大地名になっている茨城(いばらぎ)がその時間帯を物語ってくれ。

 なぜならそれと同名だとわかる「茨木(いばらぎ)」は、

 大化改新まで倭国が都(みやこ)していた大阪府北半部の重要地点・茨木市にあって、

 その経済環境もどちらも大河に沿った古代の水郷地帯である。

 また茨木市には今も穂積・大住・藤の里=百済(ポセイ)。

 泉、泉原=出雲(イドン)があり他にない不思義な地名「安威(アイ)」がある。

 これは継体天皇陵の藍野(あいの)と共に卑弥呼め語源である「愛(アイ)」でもあるが、

 「アムヒ」が河内弁では「アンイ」になるから、やはりアムピトリテの遺物でもある。

 すると同市の十日市・戸伏という地名も

 トリテ→トイチ→トーイチ→トフシと

 変化した遺物だとわかり、

 阿見と取手は660年代の倭国の大化東遷の遺物だと断定できる。

 《倭国と共に移動し分布した女神名(アムピトリテ)の地名

 「倭国と共に移動し分布した女神名(アムピトリテ)の地名

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

2013年12月27日金曜日

一般名詞で史実を知る法= 例「網(あみ)」


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:12頁

 出雲と切っても切れない日本語の名詞に「網(あみ)」がある。

 地名が多くの史実を記録していて、

 歴史の復元に欠かせない重要文化財であることは、

 もう充分にご確認戴いているが、

 地名以外の名詞もまた同様の働きを内蔵している。

 その例として「網」のお話しをしよう。

 網とは、現在では様々な意味に使われていて、

 ちょっと一言(ひとこと)ではつかみ難いが、

 古代には「魚を一網打尽(いちもうだじん)にする道具」だった。

 「アミ」という日本語の語源は?というと、

 海人たちの生活を支える生命(いのち)の親、尊い神聖な武器だったのである。

 その名は海人たちには尊敬に値いする名が選ばれているはずである。

 それは彼らが海神ポセイドンを、

 自分たちの固体名に選んで国名や地名や姓にして、

 今まで用い続けているように……。

 だから「網」はポセイドンに関係のある名だった可能性が高い。

 ポセイドンの妻、海の女神の名は

 「アムピトリテ Αμπιτριτε Amphitrite」で、

 古代の「ピ」音は沖縄語では「ビ」で「アムビ」だ。

 南九州語ではさらに「ミ」になり短縮するから「アムミ→アミ」になる。

 網はこの女神の名の前半が、ち

 ょうどポセイドンの名の前半・ポセイを百済として使ったのと

 全く同様に使っていることになる。

 では、それはただ網という道具名としてだけしか残っていないのだろうか?。

 ポセイドンは地名や姓を沢山のこしているのに…?。

 《一般名詞で史実を知る法= 例「網(あみ)」

 「一般名詞で史実を知る法= 例「網(あみ)」

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

2013年12月26日木曜日

サタの語源をパーリ語と断定できる理由


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:11頁

 次はサタだが、ギリシャ語にもマレー語にもない。

 パーリ語の sata は「百・正・善・法・念」で、

 卑弥呼の名乗りの倭迹迹日百襲姫の百(=百済)に合い、

 佐多半島が百済なら続く曽於が襲の国(蘇奴国)で、

 百襲姫の名乗りが一層詳しくわかることにもなる。

 また佐太の大神とは「正法、正念の王」ということで、

 本来は仏教指導者だったが敗北後に「神」にされたものとみると、

 前後の関係がさらに浮き彫りになるし、

 「正念場(しょうねんば)」という言葉は、

 追い詰められた状況で覚悟をきめることをいうから、

 嵯峨から出雲へ大脱走を試みた佐太の太守の心境そのものである。

 本来はそんな状況とは全く無関係な仏教用語の「正念」が、

 こんな異常な意味に使われるのは、

 百済倭国の敗走時にこの言葉が生まれて今まで伝わった、

 超大型事件の記憶以外にはありえないから、

 語源はこのパーリ語だと断定していい。

 サタの最南端は沖縄県宮古郡伊良部町の佐和田で、

 これは「サーダ」と沖縄式発音で引き伸ばされたもの。

 また沖縄本島に国頭(くにがみ)郡・国頭村・佐手がある。

 沖縄にはサカ・サガはない。

 同様の離島部には、

 鹿児島県西部沖の甑(コシキ)島の首都・里(サト)がある。

 新潟県の佐渡島(サドがしま)と

 山形県の寒河江(サガエ)市とが

 対称的な位置にあるのと、

 この里と鹿児島県の栄(サカエ)町群とが発音、

 位置関係とも共通なのは、

 見逃せない研究対象である。
                        
 《サタの語源をパーリ語と断定できる理由

 「サタの語源をパーリ語と断定できる理由

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

2013年12月25日水曜日

サガの複合語源と偉大な文化財=鹿児島県のサカ群


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:10頁

 サガに近いギリシャ語に

 「サガリス σαγρισ Sagaris 武器の片刃(かたは)の斧(おの)・矛(ほこ)」がある。

 堺が中近世の、我が国最大の武器産地であり、

 種子島も古代から鉄器産業の先進地だったし、

 火縄銃が「種子島」という代名詞で呼ばれていた事実と、

 これもまたその最大の生産地が堺だった事実からも、

 歴史の背後に潜む坂井と堺の関係の深さが推測できるが、

 サカ・サガの語源としては、サコスにはかなわない。

 しかしいずれにしても語源はギリシャ語である。

 いま鹿児島県にあるサカは謎に答を提供してくれる。

 種子島以南では大島郡の喜界町(鬼界が島)にだけ坂嶺(サカミネ)がある。

 ここは江戸時代の記録でも筋骨逞(たく)ましい、

 金髪、赤髪・裸体の鬼=(ギリシャ人)が住む島である。

 「サカの初め」と読める

 坂元は大隈、薩摩両半島の中心地、大隈町と鹿児島市とに大地域名があり、

 釋迦会(サカエ)と読める「栄(サカエ)」は種子島の首都・西之表市にある、

 ここは良港なので佐多へ船出したサカイはこことみてもいいが、

 大隈半島の南北、曽於郡末吉町と垂水市と、

 薩摩半島の南北、串木野市と阿久根市にも

 「栄(サカエ)」町が配置されている。

 だが中種子町の坂井に対応するのは、出水市の「境」町である。

 種子島は百済「ホセイ」。

 出水は「イヅン=イドン」。

 この2か所にだけ、きっちりとサカイが配置されている。

 卑弥呼当時の文化財地名が、

 今なお、こんなに整然と歴史を保存しているのである。

 《サガの複合語源と偉大な文化財=鹿児島県のサカ群

 「サガの複合語源と偉大な文化財=鹿児島県のサカ群

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

2013年12月24日火曜日

坂井・堺・坂名井は「釋迦王(サカイ)」の都


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:9頁

 これでは一つのものに二つの語源があって、どちらが正解か迷うが、

 それは多言語国家の時間差の結果で、真相は不可解なものではない。

 まず「王」を「イ」と呼ぶのはマレー語である。

 今の私たちは、

 これまでお話ししてきたことでおわかりのように、

 複数の言語が混入しているのに、

 それらの語源がどこの言葉か知らずに、

 全部日本語だと思って使っているが、

 卑弥呼当時も同じだった。

 壹国(イチマ)を伊支馬(イチマ)という人と、

 壹国(サツマ)(マレー語)=薩摩と呼ぶ人とが混じり合って住んでいて、

 便利さえよければ区別せずに使っていたのである。

 「時間差」というのは、

 佐賀にいた当時は首都人だった倭(ウワイ)人が、

 佐賀の関に移り、

 四国へ渡った時代には、

 衰えて単なる釋迦教徒に過ぎなくなっていた、

 という時代差なのである。

 そこではもう、サカイとは呼んでもらえなかったが、

 大阪府まで進出して百舌鳥耳(モズミ)原皇朝を樹立した当時は、

 昔に勝る都をもち、

 堺都(サカイト)=釋迦王都(サカイト)と呼ばれたから

 後世までサカイの地名が残ったのである。

 この見方だと、種子島の坂井も、また継体天皇の出身地「坂名井」も、

 ともに「釋迦の(ナ)王」を意味する地名だったと理解できるようになる。

 念のためパーリ語をみるとsakaは「自分の」という形容詞。

 サガはない。

 マレー語では

 sakaは「柱・血統」、

 sagaは「木の名」で、どちらも無関係である。

 《坂井・堺・坂名井は「釋迦王(サカイ)」の都

 「坂井・堺・坂名井は「釋迦王(サカイ)」の都

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

2013年12月23日月曜日

サカの語源はギリシャ語のサコス


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:8頁

 日本語のサカは、ウパサカでわかるように、パーリ語の特徴をもっている。

 また佐賀市が伊都国の跡にあり、卑弥呼当時、仏教中心地で首都だった事実から

 「サカ=釋迦、イ=王、ト=都で、釋迦王都(サカイト)の名残とみると、

 サカイの意味もわかり最も合理的である。

 塞は小さな砦のことで、大きな城や小さな砦を総括した城塞ではないから、

 伊都国の跡の佐賀は「塞=サカ」ではない。

 ではそれは大分の佐賀の閑でも同じなのだろうか?。

 ここは同じ「佐賀」の文字が使ってあるが、意味は異なっている。

 それは「盾の類・防衛する・楯形地形・関所」などを意味するギリシャ語の

 「サコス σακοζ sakos」に一致する。

 佐賀の関は小さな半島で、

 しかも四国へ渡海する最短距離に、対岸の佐田岬半島がある。

 交通の要所であると同時に防衛の要所でもある。

 とすればそこに関所が置かれるのは必然で、

 今なお佐賀の「関」という名を保存して、

 ギリシャ語のサコスに完全に合うのである。

 我が国で「塞」をサクと読み、柵を塞の意味で使うのは、

 このギリシャ語が変化したものとみる以外にない。

 サコスは複数形だから単数形ならサコ、

 南九州語では遺幅が急に狭くなった道を「迫 サコ」という。

 これは沖縄では「サク」になるから、

 サクという発音をもつ柵の字が当て字として使われたことは、

 他の当て字群の実例からも疑いの余地がない。

 《サカの語源はギリシャ語のサコス

 「サカの語源はギリシャ語のサコス

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

2013年12月22日日曜日

セットになった「サカ~サタ」は何語か?


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:7頁

 こうして史実の時代が確定でき、

 事件の内容が完全に把握できると、

 『紀・紀』が書いている仁徳天皇系皇朝の歴史や、

 『三国史記』の疑わしい記事も、

 批判しながら取捨選択できるようになる。

 その意味で「サカ~サタ」は実に適当な教材を提供する

 偉大な文化財だったことがよくおわかり載けたと思う。

 だがこの講義は学説発表の場ではない。

 着眼点と疑問の解決システムをお教えする講座である。

 あとはご自分で原典から史実をご発掘い戴きたい。

 ではサカ~サタは何語だったのであろう?。

 塞の字は閉塞(へいそく)、城塞(じょうさい)と、

 漢音ではソクとサイと発音するが、

 優婆塞(ウバサカ)でわかるように「サカ」とも読む。

 『日本書紀』では塞の字を使った塞(さい)の神が、

 伊弊諾(イサナキ)尊が黄泉から逃げる場面に出てくるが、

 この神名は猿田彦の別名である。

 しかしサカには釋迦を指す使い方もある。

 卑弥呼が死んだ時、

 伊都国に滞在していた張政の「塞曹掾史」という肩書きも、

 当時、中国に対する強い外圧の一つだった

 「塞(サカ)族=釋迦(シャカ)族=スキュタイ人」を

 相手にする外交官を意味しているから佐賀は釋迦(シャカ)である。

 だがこれだけしか念頭にないと、

 サカはスキュタイ人の居住地だということになり、

 それと向かい合う地点のサタの意味がわからなくなる。

 サカ~サタはセットになっていることで重要なのだから、

 その理由が理解できる語源を、伊都国の佐賀とは別に、

 みつけることが必要なのである。

 《セットになった「サカ~サタ」は何語か?

 「セットになった「サカ~サタ」は何語か?

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

『記・紀』盲信はなぜ?極悪の文化財破壊なのか


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:6頁

 だが、この問題を、

 「なるほど、そう言われてみれば、そうだな。

  しかしその程度のことは少し考えればわかる問題にすぎない」などと

 思って済ませてしまってはいけない。

 なぜか?。

 蓋鹵(コウロ)王=倭王・興は滅んだが、

 その弟・武が高句麗に立ち向かって逃げ込んだ奈良県の高市を

 本拠に現大阪府の奪回を計った。

 そのときの中国・宋への手紙が『宋書』に残った彼の上表だったことは、

 すでに完全に史実として私たちの知識の中にある。

 そこには

 「句驪(クリ)(高句麗)無道」にして

 「天路を壅塞(ようそく)(宋への道をふさぐ)」と書いて、

 高句麗・長寿王が九州から中国を占拠していた史実まで明瞭に述べている。

 それなのに『記・紀』はこれらの「史実」を、全然、一字も書いていない。

 このことと、前記の歴史のお伽話化とから、

 私たち日本人にとって非常に重要な「結論」が出る。

 以上の事実からだけでも、

 『記・紀』がどの程度の欠陥『史書』か、明瞭に結論できるのである。

 だから在来国学者のように、粗雑な思いっき解釈だけで、

 『記・紀』そのものを盲信することは、

 良くも悪くも奮闘努力した先祖たちの事跡を、

 ありもしない幻影と取り換えて抹殺、私たちの建国史を汚(けが)し、

 放棄してしまうことなのである。

 この行為は出土品を私物化したり、粉砕したりする程度の文化財破壊とは、

 比較にならないほど極悪の文化財破壊なのだ。

 《『記・紀』盲信はなぜ?極悪の文化財破壊なのか

 「『記・紀』盲信はなぜ?極悪の文化財破壊なのか

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

2013年12月20日金曜日

これもお伽話が解いた『出雲神話』の謎


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:5頁

 『新撰姓氏録』をみれば、仁徳天皇系の子孫が、

 全く官位に就いていないことがわかる。

 これは何故か?と心にとめていれば、やがて仁徳天皇の巨大な墓と、

 その建造者の没落とが蓋鹵王事件という現実のものとして展開し、

 史実が疑問の余地のない答として返ってくる。

 その一族の行方は?と問えば、サカ→サタが「出雲」を指し示す。

 するとすぐ出雲神話が頭に浮かぶ。

 そこに登場するのは仁徳と同じ名をもつ「ウサギ 菟」である。

 彼は「海ワニ 海和迩」を騙して海を渡ったが、嘘がばれて皮を剥(は)がれる。

 八十神たちが治療法を教え、その通りにするが、返って傷が悪化したが、

 八十神の荷物を担いで遅れてきた大穴牟遅神に、真水で身を清め、

 蒲黄(ガマのホ)を敷き散らして、その上に転がれば治ると教えてもらって助かる。

 これは倭の五王が、倭人の海人族を使って国土を広げ、

 ついに大阪湾を渡って近畿地方に入ったが、

 興の失政の結果、赤裸(あかはだか)にされて追放され、

 出雲にたどり着いたのを、水禊(みそぎ)をし、

 粗末な衣服で満足する宗教生活を教えられて、

 何とか王の地位を保つことができた、

 という「歴史の説話化」または「お伽話化」であることは言うまでもない。

 だからそれは「出雲神話」などと呼ばれてきたが、

 実体は5世紀の史実が変形したもので、

 決して、

 これまで思い込まれていたような、

 有史以前の神話などではなかったのである。

 《これもお伽話が解いた『出雲神話』の謎

 「これもお伽話が解いた『出雲神話』の謎

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

2013年12月19日木曜日

「出雲」の誕生は5世紀よりあと


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:4頁

 また脚摩手摩(アシマタマ)も

 「葦国(マ)玉=葦国王(おう)を間違えたもの」で

 天孫降臨の相手・大国主=倭(オオ)国主なのだが、

 位宮・卑弥呼当時の倭国連邦は実質的には南九州から朝鮮半島以北までを包含していたが、

 『魏書倭人章』は、

 女王の統治下に入っていない南方の裸国や黒歯国まで解説していながら、

 本州、四国のことは、僅かに

 「女王国の東は海を1000里渡ると国がある。

  これも皆、倭種だが(女王の統治下には入っていない)」と書いて、

 本州・四国の全域は、倭国の版図から完全に除外されている。

 では大学講義録16の21~22頁でお話しした

 「イズン人の移住先・出雲」はどうなるか?。

 そこにはイサナギの名から派生した六社にのぼる神社が、

 『延喜式』に載っている。

 それらは伊声耆一族が政権崩壊後に移動した痕跡ではないのか?。

 これに対する答が、大学講義録30の32頁

 「和泉(イズン)人が逃げ込んだから出雲(イズン)が生まれた」なのである。

 出水人が移住した先は大阪の和泉であって、

 そのときのイザナキの尊は大学講義録28の21~23頁でお話しした

 履中天皇=伊邪木(イザナキ)和気=倭王・珍であった。

 その一族が大阪守口の佐太の太守をしていたときに、

 倭王・興が大古墳建設で国家の運営をあやまり身を滅ぼした。

 佐太の太守ら倭王の一族はいったん京都の嵯峨に移り、

 その後、島根県へ移住した。

 このとき和泉からの移住者がその土地を「出雲」と名付けた。

 出雲は5世紀以後の地名なのである。

 《「出雲」の誕生は5世紀よりあと

 「「出雲」の誕生は5世紀よりあと

 『My ブログ』
 スメル8千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見