2013年12月15日日曜日

王・武の名乗りの歴史と守口の佐太の年


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録30:30頁

 五王に戻ろう。

 河内(かわち)と高市(たかいち)、

 この二つは本当はどちらも「コウチ」である。

 このことが、本当の歴史を教えてくれる。

 これは倭の五王が四国から近畿へ入った事実を考えると高知(こうち)領主だったという

 名乗りだから、

 前後の天皇たちの分封制度からみて興(蓋鹵=蓋歯(シ)=コウチ)が父の済から、

 高知と河内を与えられた正統な後継者だったことは間違いない。

 しかし彼は暴政の結果、政権を失って敗死してしまった。

 そこで弟の武が家系を継いだが、

 兄の旧領・河内は失ってしまったので、

 平地を捨てて奈良山地に攻め込み、

 高市付近を占領してコウチと呼んだが、

 すでに他領の河内と同じ女字と発音では混乱する。

 そこで彼は文字を「高市」と変え、

 その後、読み方も変えて「タケチ」にした。

 そして劉宋に手紙を出して、

 自分が正統の倭王であることを中国に認めさせようとした時、

 そのタケチの発音に合わせて、

 中国風の一字名「武(タケ)」を用いたというのが、

 様々に検討して最後まで残った答えである。

 沖縄発音はシも助詞の津もチと発音するから

 武の一字でタケチと訓んだのである。

 だから武は守口の佐太とは無関係だ。

 このサタは、

 兄の興が全盛時代に、

 堺から渡海して奪った土地につけた記念碑的な伝統名になる。

 仁徳天皇陵の建設以前、

 『三国史記』の百済本紀が、

 蓋鹵が15年に軍を出して

 高句麗の南鄙(なんぴ)を侵略したと書く、

 469年のものである。

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