2013年12月19日木曜日

「出雲」の誕生は5世紀よりあと


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:4頁

 また脚摩手摩(アシマタマ)も

 「葦国(マ)玉=葦国王(おう)を間違えたもの」で

 天孫降臨の相手・大国主=倭(オオ)国主なのだが、

 位宮・卑弥呼当時の倭国連邦は実質的には南九州から朝鮮半島以北までを包含していたが、

 『魏書倭人章』は、

 女王の統治下に入っていない南方の裸国や黒歯国まで解説していながら、

 本州、四国のことは、僅かに

 「女王国の東は海を1000里渡ると国がある。

  これも皆、倭種だが(女王の統治下には入っていない)」と書いて、

 本州・四国の全域は、倭国の版図から完全に除外されている。

 では大学講義録16の21~22頁でお話しした

 「イズン人の移住先・出雲」はどうなるか?。

 そこにはイサナギの名から派生した六社にのぼる神社が、

 『延喜式』に載っている。

 それらは伊声耆一族が政権崩壊後に移動した痕跡ではないのか?。

 これに対する答が、大学講義録30の32頁

 「和泉(イズン)人が逃げ込んだから出雲(イズン)が生まれた」なのである。

 出水人が移住した先は大阪の和泉であって、

 そのときのイザナキの尊は大学講義録28の21~23頁でお話しした

 履中天皇=伊邪木(イザナキ)和気=倭王・珍であった。

 その一族が大阪守口の佐太の太守をしていたときに、

 倭王・興が大古墳建設で国家の運営をあやまり身を滅ぼした。

 佐太の太守ら倭王の一族はいったん京都の嵯峨に移り、

 その後、島根県へ移住した。

 このとき和泉からの移住者がその土地を「出雲」と名付けた。

 出雲は5世紀以後の地名なのである。

 《「出雲」の誕生は5世紀よりあと

 「「出雲」の誕生は5世紀よりあと

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