2014年2月28日金曜日

種子島から北上したウッタラの残した文化財


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:12頁

 また多々良の痕跡は南九州から始まっっている。

 鹿児島県の伊佐郡は伊勢に当たる地名や、

 伊弊諾(いさなぎ)・伊弉冉(いさなみ)尊2神の名にも関係があるが、

 その首都・大口市青木に多々良石という字(あざ)がある。

 大口は狼の別名で大神を意味し、青木はオオキで倭王を意味する。

 そこに多々良石があるのだから、

 卑弥呼当時の率善中郎将・伊声耆(イサンギ)(イサナギ=伊佐王)が

 タタラをもっていたことを、

 立証する動かない証拠の地名文化財なのである。

 また近くには西多良の地名も残っているので、

 タタラの名を生んだウッタラが南九州でも

 すでに大多良という当て字をもっていたことがわかるが、

 ウッタラそのものの地名は、

 今は変形が激しくて、

 次のような分析が必要になっている。

 天皇の名乗りに多出する「根」の字は「タラシ」と

 読むのが正しいことはもうよくご存知のことだが、

 この知識があれば鹿児島の垂水(たるみず)市にある漁港の

 「牛根(うしね)」は

 ウッタラへの当て字だったことがわかる。

 ウシネは大隈語でウヒネだが、私たちにはウッネと聞こえる。

 このネがタラシなら「ウッタラッ」だから、

 これは完全に

 「ウッタラ津港(っみなと)=ウッタラの港」への当て字だったからである。

 この牛根はまた境(さかい)と麓(ふもと)に分かれている。

 サカイはもうよくご存知だが、

 フモトは府元で、支配者の政府のある場所を意味する。

 今は小港でも、かつては首都だったという文化財なのだ。

 《種子島から北上したウッタラの残した文化財
 「種子島から北上したウッタラの残した文化財

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 《参考:年表・資料》 

2014年2月27日木曜日

タタラとタタールの語源は大多良法師(ダイタラボッチ)


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:11頁

 なぜなら「タタラ」は

 タタール人が列島に持ち込んできたものではない。

 それはタタラの語源が

 「大多良法師(ぼっち)」の「大多良(タタラ)」だからである。

 さらにその語源がウッタラだったことは本講でお話しした。

 彼の名がタタラを意味するようになったのは、

 そのタタラが銅鐸製作用の最新機具として、

 当時銅鐸圏にいた倭人たちの驚異の的になったことを意味している。

 また大多良法師(ぼっち)の伝説は

 「巨人が土を運んでいった話」を芯(しん)にして、

 その土がこぼれて山になったとか、

 池やくぼみが彼の足跡だというマンガ的なものだが、

 その起源は銅鐸工房の近くでは銅を溶かす登り窯(がま)を造り、

 また鋳型(いがた)を造るために大量の土を掘った、

 その跡が大多良法師の足跡だといわれ、

 それが巨人伝説を生んで、

 次第に尾鰭(おひれ)がついたのである。

 だから銅鐸圏外では伝説だけが広まった。

 そうした地域は古代の鉱物資源産地か金属工業地が多いから、

 やはりインド系の金属技術者たちが

 この話題を運んでいったことがわかる。

 巨人伝説との錯綜(さくそう)は九州に起源がある。

 南九州では八幡の家来の大人(おおびと)弥五郎が山を造った話になり、

 九州北部では百合若(ゆりわか)大臣が山を造る。

 これは本州では弁慶に変化する。

 中国では唐代に北方の異族を韃靼(ダッタン)と当て字している。

 これがタタール人だから、

 その時代差をみてもウッタラのほうが先祖で、

 タタール人は10世紀も後の子孫にすぎない。

 《タタラとタタールの語源は大多良法師(ダイタラボッチ)
 「タタラとタタールの語源は大多良法師(ダイタラボッチ)

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2014年2月26日水曜日

一大率の正体は奴国人。関西進出は後世


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:10頁

 これで種子島人の関西進出は、

 弥生時代から始まっていたが、

 丹波・丹後・但馬といった地域への大規模移住は、

 邪馬壹国誕生より後世のものだったことがわかる。

 なぜなら、丹後半島の「浦島太郎伝説」は、

 位宮がモデルなのに、

 それが全くわからない程に変形してしまっている。

 これは位宮時代以後に移住した人々が、

 種子島を忘れるほど後世に、

 むかし昔の祖先の体験として語り伝えたものが、

 風化して変形したのであって、

 決して当時も凄い文学者がいて、

 史実からお伽話を作り上げたというものではないからである。

 また製鉄には前図の火吹き竹ていどの道具では無理で、

 どうしてもタタラという踏鞴(ふいご)が必要である。

 このタタラの名は、

 福岡市東区に多々良の地名を残している。

 同じ福岡県に大移動した奴国の勢力圏なのだから無関係ではない。

 「タタル」は「崇る」で、

 恐ろしい相手であり支配者で、

 『魏書倭人章』の一大率でもある。

 またタタール人もチクシ人や匈奴らのように

 ここから北上して移動した人たちである。

 地名分布からみて、

 水稲と同じく、

 その逆の北からのコースはありえない。

 《一大率の正体は奴国人。関西進出は後世
 「一大率の正体は奴国人。関西進出は後世

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2014年2月25日火曜日

船橋遺跡が解明した弥生文化の実態


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:9頁

 前図の船橋遺跡は大阪府枚方(ひらかた)市の最も北の遺跡で、

 船橋川に沿った平地にあるが、弥生中期とされている。

 それより少し後の弥生中期後半になると近くの田口山遺跡から、

 石包丁と穀物貯蔵用の大型の壷が多数出土しているので、

 船橋遺跡も川沿いという位置関係からみて

 水稲稲作がはじまっていたことは間違いない。

 すると手焙り形土器の形からみて、写真のようなインド系の人々が、

 そこに住んでいたとみていいから、

 その水稲は種子島経由でやってきた南方の稲だったということになる。

 すると沖縄の久米島(クミジマ)は沖縄語のクミ(米)の島という名と、

 今、東南アジアに住むクメールの人々とを意味するとみていいから、

 種子島にはいった米のルートがさらに詳しくわかる。

 その種子島には今も赤米が栽培されて神事に使われているし、

 同じ赤米は船橋川の流れ込む淀川の上流、

 滋賀県でもやはり現在まで受け継がれている。

 近江の江州米は関西を代表する米として有名だったが、

 それは下図のように小粒である。

 弥生時代の米がどんなものだったかをよく示している。

 それを持ってきたインドの人たちがどんな人だったかもすでにお話しした。

 それはソナカたちに先行して列島を北上したウッタラたちの仏教宣布団で、

 銅鐸を造った人たち、その銅鐸生産には手焙り土器が役立ったのである。

 「図」

 1 インディカ

 2 タイ山地米

 3 ヤポニカ(江州米)

《参考》日本人のルーツ26頁

    水稲といっしょに来た弥生人&129頁水稲の来た道

 水稲といっしょに来た弥生人

 《船橋遺跡が解明した弥生文化の実態
 「船橋遺跡が解明した弥生文化の実態

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2014年2月24日月曜日

建国の母胎になった聖なる島「種子島」


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:8頁

 建国の史跡は南部に集中しているが、

 すでに島内(とうない)でも

 平山などの地名が北上しているのが見られる。

 我が国がここに芽生えた島。

 近代文明を開いた島。

 文字どおりの聖なる「種子の島」である。

 《建国の母胎になった聖なる島「種子島」
 「建国の母胎になった聖なる島「種子島」

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2014年2月23日日曜日

手焙り形土器(大阪府船橋遺跡)


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:7頁

 「インドの金属技術者」

 手焙り形土器の中の木炭を長い吹管で吹いて高熱し、

 金属を溶かして細工する。

 吹管は日本の火吹き竹と同じ性質の文化で、

 紀元前25世紀のエジプト第5王朝時代の壁面彫刻にはすでに似たものが見られる。

《参考》日本人のルーツ29頁:謎の弥生土器とその仲間

          &p.128手焙り土器の正体

 《Key Word》

 謎の弥生土器とその仲間
 謎の弥生土器とその仲間

 手焙り土器
 手焙り土器

 紀元前25世紀
 紀元前25世紀

 エジプト第5王朝時代の壁面彫刻
 エジプト第5王朝時代の壁面彫刻

 《手焙り形土器(大阪府船橋遺跡)
 「手焙り形土器(大阪府船橋遺跡)

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2014年2月22日土曜日

種子島人支配の真因は兵器産業先進国だったため


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:6頁

 『魏書』の『倭人章』の前に書かれている

 『東夷・韓章』の「辰韓条」には、

 有名な一節

 「国は鉄を出す。韓・濊(ワイ)・倭は皆、すきなようにこれを取る」

 という記録がある。

 種子島はその四周の海岸の至るところに砂鉄の層があって、

 戦後はロケットの外装に用いる超硬度の特殊鋼原料として

 ナサに輸出していたほどである。

 現代では硬(かた)過ぎて一般の製鉄原料としては使われないが、

 日本刀が砂鉄製であることは常識である。

 だから古代の初期鉄器時代には種子島は鉄の宝庫だった。

 今も南九州を中心に愛用されている

 「種子鋏(たねバサミ)」という原始的な鋏は、

 この砂鉄文化の遺物である。

 種子島が我が国初期鉄砲の代名詞になったのも、

 たんに種子島にポルトガル船が漂着したから

 鉄砲が作れたというのではない。

 武器に対する関心と、それを複製するだけの鉄工業の伝統と、

 教養と原科と設備とが揃っていたからである。

 そしてそれを全国に広めたのが大阪府の堺商人だった。

 彼らはそれ以前から武器商人として

 巨大な富と工業基盤とを築き上げていた。

 このことから種子島のサカイもただ釋迦族の町というだけでなく、

 鉄器工業の先進地であったことが推理できる。

 それはいうまでもなく仏教とともに

 インド先進文明を運んできた

 ソナカ仏教宣布団の文化の一つだったのである。

 するとこの辰韓の鉄の産地は半島ではなく、

 辰韓の故郷・種子島のほうだということになる。




 《種子島人支配の真因は兵器産業先進国だったため
 「種子島人支配の真因は兵器産業先進国だったため

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2014年2月21日金曜日

サカイ(坂井)の信仰女王だった壹與


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:5頁

 掖邪拘は壹與が女王になった後も壹與の側(がわ)に残って、

 今度は張政を帯方郡まで送って行く大使=大夫・率善中郎将として、

 再び魏の朝廷まで行って白球5000孔などを献上している。

 これは幼児の八幡=ホムツワケに出来ることではない。

 ホムツワケがもつ八幡という名乗りはそれより後に掖邪拘から

 相続した名乗りだったとわかる。

 ではそれ以前の名は何といったか?…。

 それこそが

 私(加治木義博)が中上川宮司から教わった

 「ヒルコの尊」だったのである。

 そして二人の幼児が種子島から小舟で漂着したのでもない。

 それは位宮=垂仁天皇の戦略によって、

 軍船に乗って攻めこんできたのである。

 なぜ位宮は彼女を必要としたか?。

 それは彼女が卑弥呼の宗女という地位をもっていたからである。

 それを証明するのが、

 大学講義録31の9頁でお話しした

 サカは繹迦(シヤカ)のことだという事実である。

 大隅のサタ=佐多岬へ渡った種子島軍の拠点サカイとは、

 この釋迦族の町、

 壹與が信仰女王として尊ばれていた町だったのだ。

 しかし種子島は中央の野間(のま)が、

 奴国(ノマ)として記録に残ったシンドゥの一大勢力圏だったし、

 位宮自身、高句麗・山上王(山神(やまがみ)王)を

 名乗りにもつシンドゥ教徒の指導者だったから、 

 壹與はあくまで卑弥呼の統治に馴れた倭人たちを、

 懐柔(かいじう)するための「象徴」に過ぎなかった。

 このことがその後、続発する悲劇の原因になったのだが、

 それは<大学講義録35>以後の主題である。

 《サカイ(坂井)の信仰女王だった壹與
 「サカイ(坂井)の信仰女王だった壹與

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2014年2月20日木曜日

壹與と結婚した八幡は中郎将の掖邪拘(ヤジャカウ)


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:4頁

 狭穂姫の子はホムツワケで、

 オオヒルメが隼人まで連れてきた赤子の八幡である。

 この時のオオヒルメが壹與であることも、

 私たちはよく知っている。

 壹與は伊江島の女王で種子島発音のイエッジョーへの当て字。

 これを大隅語ではユイジョと発音する。

 いま依子(よりこ)をユイコと発音する大隅語をみると、

 狭依姫・玉依姫の「依(ユイ)」は

 壹與の「壹」と同じもので「伊江」を意味する

 名乗りだったことが確認できる。

 これで同時に「狭依姫・玉依姫」という名は、

 どちらも「種子島・伊江島の女王」という意味の名乗り、

 その正確な発音は「タンユイ」姫だったことも確認できた。

 サヨリでもタマヨリでもなかったのである。

 これでもう一つ明確になったことは、

 壹與は八幡と結婚したということである。

 『記・紀』共に、玉依姫(=壹與)は

 ウカヤフキアエズの尊(=八幡)と結婚したと書いているからだ。

 では夫の八幡は『魏書倭人章』の誰に当たるのか?。

 八幡(ヤバン)と八坂(ヤバン)は共にヤバーナへの当て字だということは、

 もうよくご納得戴いているから、

 これに合う人物は

 「八坂王(ヤザカ・ウ)=掖邪拘(ヤジャカ・ウ)」である。

 彼は卑弥呼生前の正始4年(243年)に

 伊声耆(イサナギの尊)と

 「答謝・詔恩」のため魏の都まで行って、

 率善中郎将に任官しているので、

 4年後の正始8年に13才で邪馬壹国女王になった壹與より、

 さらに年少の八幡ではない。

 《壹與と結婚した八幡は中郎将の掖邪拘(ヤジャカウ)
 「壹與と結婚した八幡は中郎将の掖邪拘(ヤジャカウ)

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2014年2月19日水曜日

種子島「山」字遺物と壹與たちの関係は?


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:3頁

 大学講義録32の30頁で触れた南種子・広田海岸に

 「山」字とギリシャ文字を彫った遺物を残した人々は、

 一体どんな人たちだったのであろう?。

 また卑弥呼や壹與との関係は……?。

 私たちは垂仁天皇と狭穂姫の悲劇が、

 種子島で起こった事件だったことをよく知っている。

 その理由は沢山あるが、

 「狭い」はアイヌ語の「タンネ」で、

 細長い島の形と島名によく一致していて、

 語源になっていることを繰り返し確認してきたから、

 疑いの余地はない。

 この「狭」の字を名乗りにもつ重要な女神がもう一人いる。

 それは天照大神と素戔鳴の尊の

 「誓約(うけひ)」で生まれた3人の女神の一人、

 狭依(サヨリ)昆売の命である。

 この名乗りの、もう一つの文字「依」も、

 豊玉姫が山幸の子を生んだとき、

 捨てた子供・ウカヤフキアエズの尊を育てて、

 後に結婚した豊玉姫の妹・玉依(ヨリ)姫がもっている。

 私たちは名乗りの文字が、領土や地位、職掌を

 表現している重要な史料であることを、

 これまでイヤというほど実例で知っているから、

 同じ種子島の女神が同じ「依」のつく名をもっていれば、

 それは近縁か、あるいは同一人であるとすぐわかる。

 狭=タンネ、

 玉=タマ。

 この二つの字はどちらも

 「タン=種子・丹後・淡(タン)路のタン」という発音を

 写した当て字だとみると同一人の可能性が高い。
 
 次はその行動と役割を比較してみよう。

 《種子島「山」字遺物と壹與たちの関係は?
 「種子島「山」字遺物と壹與たちの関係は?

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2014年2月18日火曜日

想像を超える国政の歴史距離の近さ


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:32頁

 ドイツ語では心をSinn、

 「そうー」をSo、

 習慣をSitteと書く。
 
 習慣は一番よく「知って」いるものである。

 言はSagen、

 ズルイはschlau、

 城はSchluβ、

 痛み・しみるはSchmerz。

 確かな・しっかりはsicber、

 狭いはschmal、狭いとは壁などが「せまる」ことである。

 こうして「S」で始まるものだけ思い浮かべても、

 こんなに日本語と共通した言葉がある。

 姓や伝説に偶然似たものがあるという程度ではなく、

 またそれがなぜかも前記の遵り、

 人々が、いつ、どうして交流し、

 混じりあったか、

 歴史が鮮明にわかっているので不思議ではない。

 私の幼時のピアノ教師はドイツ系の人で、

 私がうまく弾くと「So…so」と声をかけてニコニコした。

 それを私は「そう」と受けとったが、

 実は「ゾーゾー」と濁って聞こえたので、

 生徒仲間はみな陰ではそれを真似て、

 会話の「そう」の代わりに「ゾー」と答えたり、

 相槌(あいづち)に使ったりして喜んだ。

 日本語の外人訛りだとばかり思い込んでいたからである。

 しかし歴史の明瞭な地名・ハンブルク Hamburgでも、

 その解説は「Hamは湾」のことで「burgは町」という説明になっていて、

 ハンが匈奴の名だという語源はなぜか消えている。

 だがハンは韓でもある。

 北方騎馬民族は異様な異民族だと思っている人が多いのが、

 日本だけでなく世界の人々の現状だ。

 私たちの仕事は、まだまだ、これからなのである.

 《想像を超える国政の歴史距離の近さ
 「想像を超える国政の歴史距離の近さ

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2014年2月17日月曜日

5世紀の欧州に『出雲神話』を広めた人々


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:31頁

 ついでにいえば邪馬国はジャマ国で、

 むしろドイツを指す英語のジャーマンに近い。

 このほうは単なる「他人のソラ似」などではなく、

 5世紀にアッチラ大王

 「阿修羅王=ウッタラ=大多羅坊主(ウッタラボッチ)」を

 戴いて欧州に進入し、

 ハンガリーやハンブルグをつくり、

 フィンランドをつくったアジアからの

 遠征者・フン族とか匈奴(キョウド)とか呼ばれた人たちが、

 いま日本とドイツに現存する

 財津(ザイツ)(Seit)さん、

 久野(Kuno)さん、

 阿部(Ave)さん、

 岡・大川(Oka)さん、

 三浦(Muller)さん、

 人等(ヒトラ)・日虎(ヒトラ)(Hittler)さん等という

 多くの姓を双方に残したものと見るほかなく、

 そこでもまた『出雲神話』そっくりの

 ジークフートの大蛇退治伝説などを、

 広く北欧に拡めているが、

 ジーク(邪久(ジャク))フリート(布留人(フルヒト)=夫余人)と読めば、

 屋久島王=厄神であるスサノオの尊こと

 高句麗山上王・位宮にヒッタリの名乗りになる。

 するとジークフリートが暗殺されたあと、

 か弱い、女性の身で復讐を成し遂げた彼の妻クリームヒルトも、

 クリーム(高麗国(クリーム)=大隈発音)ヒルト(日霎徒(ひると))で、

 ソナカ死後に倭国大乱を勝ち抜いて、

 女王に即位した卑弥呼=神功皇后にも、

 また位宮が暗殺された後の壹與=神功皇后にも共にピッタリ合う。

 これも笑って済ませられる問題ではない。

 『出雲神話』とは、

 簡単に結論の出る「日本製神話」でも、

 「輸入品だ」で済む相手でもないのである。

 《5世紀の欧州に『出雲神話』を広めた人々
 「5世紀の欧州に『出雲神話』を広めた人々

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2014年2月16日日曜日

シュメル原産のスサノオと、山字貝製遺物


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:30頁

 『後漢書』が記録した107年に後漢を訪れた倭国王・帥升は、

 漢魏音でスイサヌウ、すなわちスサノオという名乗りで、

 これはシュメルの古都スサ(現在のイランのスーサ)の王を意味し、

 出雲神話のスサノオの尊の八俣の大虵退治も、

 何代目かのスサノオ=位宮が卑弥呼政権を倒した史実を、

 英雄ギルガメシュの大蛇退治神話を模して説話化したものである。

 八俣とは、八幡をヤバタ→ヤマタと訛った当て字、

 大虵(ウチ)は鹿児島神宮所在地の名の

 「ウチ=内=宇治」への当て字である。

 ヤマタは邪馬臺に似ているが、

 邪馬(ジャマ)がヤマと発音されるようになったのは8世紀以後のことで、

 この神話とは全く関係なく、

 邪馬臺(ジャマダイ)がヤマトだというコジツケと

 全く同じで無知の産物にすぎない。

 さらに邪馬臺という名詞自体、

 後世の人間の錯覚が産み出した幻覚で、

 現実にはこの地球上に存在したことのない幻なのだ。

 「中国の山岳崇拝→種子島」

 バビロンに敗北したシュメル人は

 中国に移動して「周」をたて、殷帝国を倒した。

 またアレクサンドロス東征の落とし子・ギリシャ人も中国に住み、

 オリンパス山などを神山とするギリシャ宗教の「山」信仰で、

 台湾を女神ホーライの名で蓬莱山(ホーライ)と呼ぶ

 秦(シン)の徐福らの「方士」が秦代に

 琉球の与那原(よなばる)=徐那伐(ヨナバル)=徐福の都(ジョナハラ)へ伝え、

 それが種子島南部の「広田」弥生遺跡に、

 「山」字とギリシャ文字を彫った貝製装身具を残したのである。

 《シュメル原産のスサノオと、山字貝製遺物
 「シュメル原産のスサノオと、山字貝製遺物

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2014年2月15日土曜日

今も沖縄に残る貴重な客観知識「ヤマト」


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:29頁

 念のため、我が国でも8世紀中に、

 国名・都名がクルクル変わった史実を指摘しておこう。

 聖武(しょうむ)天皇は724年に平城京で即位したが、

 737年(天平9年)大倭国(おおやまと)の名を大養徳(おおやまと)国に改めた。

 740年(天平12年)12月に、

 山背(やましろ)の国(京都府)相楽(さからか)郡に

 恭仁(くに)京を造って翌年遷都したが、

 それを大養徳恭仁(くに)大宮と名付けた。

 しかし宮殿がまだ完成しない742年に

 近江の国(滋賀県)甲賀(かふか)郡に

 紫香楽(しがらき)宮をつくって移り、

 744年には恭仁京の造営をやめて廃朝し、

 今度は難波(なにわ)の離宮に移って難波京と呼んだ。

 ところが745年には病気になって、

 元の平城京に遷都する。

 そして747年(天平19年)3月には、

 大養徳国の名をもとの大倭国に改めた。

 これが立証する最も肝心なことは、

 国名は「オオヤマトの国」であって、

 「ヤマトの国」ではないことである。

 これは何を意味するか。

 沖縄では今も、日本全体は「オオヤマト」呼んで

 「ヤマト」とはっきり区別している。

 では「ヤマト」とは奈良県のことか…?。

 そうではない。

 鹿児島のことなのである。

 いくら沖縄は江戸時代まで外国だったといっても、

 奈良が一時的にヤマトになったことを知らないわけではない。

 しかしそれ以上に古代の史実が身近にあった。

 「ヤマトン・チュー」という人種は鹿児島人のことだという常識が、

 我が国の政権外にいたお陰で、

 なくならずに古代のまま残っていたのである。

 《今も沖縄に残る貴重な客観知識「ヤマト」
 「今も沖縄に残る貴重な客観知識「ヤマト」

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2014年2月14日金曜日

大和を神武以来の国号とする致命的欠陥


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:28頁

 天皇家と古墳の関係はこんなに明快なのである。

 銅鐸とウッタラについては大学講義録21の28~31頁で、

 大太良法師(だいたらぼっち)伝説と

 東北稲作との謎解きまで済ませてあるので、

 以上と総合してご覧載くと、

 これまでの立証がどんなに正確で精密なものか、

 ご納得載けると確信している。

 大和説の根拠になっている「大和」もまた

 大和説の致命的欠陥を立証している。

 この2字が我が国の国号になった時期がはるか後世だったことは、

 8世紀初め完成した『記・紀』に、

 この2字の記載がないことでもわかる。

 『日本書紀』は日本と書き

 『古事記』は倭と書いたもの無理やり「ヤマト」と読ませてきたが、

 それは明かに対立する2国が実在していたことを、

 自分で証明しているのである。

 仮に初代神武天皇の時代から奈良がヤマトと呼ばれていたのなら、

 絶対にヤマトとは読めない文字の倭や日本に、

 改める必要など全くない。

 倭や日本と書いてあるのは、

 ウワイとヒノモトという2国が実際にあったからであって、

 ヤマトへの当て字ではない。

 また当時の国名や都名はそれほど一定不変なものではない。

 倭が日本になり大和になったのは、

 同じ時期の中国の政権が魏、

 晋(シン)から五胡(こ)十六国を経て隋(ズイ)、

 唐と変わったのと同じで、

 政潅が変われば文字も発音も変わり最も新しい名で唐と呼ばれた。

 これも、大和(ヤマト)は倭や日本以後の政権の名だと、

 疑問の余地なく証言しているのである。

 《大和を神武以来の国号とする致命的欠陥
 「大和を神武以来の国号とする致命的欠陥

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年2月13日木曜日

皇家は3千年前から、古墳は仏教宣布団のもの


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:27頁

 これは神武天皇が現皇室の皇祖なら、

 絶対に銅鐸人ではないことを証言している。

 また仮に勝山古墳が2世紀末の前方後円墳で、

 それが卑弥呼または一族のものなら、

 卑弥呼は倭迹迹日百襲姫だと私たちも確認済みなのだから、

 例の箸墓問題を無視しても父帝・高霊天皇の古墳や、

 さかのぼって同じ皇統の租・神武天皇の陵墓もまた、

 紀元前か1世紀の古墳として奈良県下になければならない。

 ところが現実には、卑弥呼以前の天皇たちの古墳はもちろん、

 その皇族の古墳、

 少なくとも数代100を超えるはずの古墳が1つもない。

 今「1片」の木坂さえ発見できたほどの、

 国立、県立ともに最高の研究機関を2つももつ奈良の考古学が、

 大量にあるはずのその古墳を、

 なぜ?1つも発見できないでいるのか?。

 これは「古墳時代」が百年古くなってもダメで、

 大和説の致命的敗北にとどまらず、

 天皇家は古墳時代以後に誕生したとしてきた考古学の欠陥を、

 みずから立証しているのである。

 私たちは今から3000年以上前に、

 世界に貝貨幣を供給した高句麗(カリエン)王家が実在したことと、

 その子孫が卑弥呼であることを、

 充分知り尽くしている。

 だから天皇家は3世紀や4世紀に発生したのではない。

 古墳時代をつくったのはにアソカ仏教宣布団である。

 3世紀に卑弥呼とソナカ=仲哀天皇が結婚して、

 初めて天皇家と古墳が結びついたことを熟知しているのだ。

 《天皇家は3千年前から、古墳は仏教宣布団のもの
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2014年2月12日水曜日

天武政権の遺物「ヤマト」。銅鐸仏教の遺物「ナラ」


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:26頁

 大学講義録32:10頁でおわかりの通り、

 近畿政権が生まれてからは、

 国号はまず倭国(ウワイ)、

 次いで日(ヒ)の本(モト)、

 最後に「ヤマト」へ三転した。

 倭国は孝徳天皇までで、670年に日本、

 対外的にはこれが幕未まで続いたが、

 国内では天武天皇朝からヤマト朝廷という発音で呼ばれてきた。

 おわかりのように、

 それは「朝廷の名」で、奈良の固有名詞ではなかった。

 だが京都などの例でおわかりのように、

 都が移っても今度は地名として残るという原則があって、

 奈良の固有名詞のように錯覚されてきた。

 しかし前頁まででよくおわかりのように、

 その名は政権の所有者名であって、

 ヤマトとは霧島に住むギリシャ系信仰の持ち主の子孫が、

 旧巴利国の倭人=仏教徒と合流して組織した

 天武天皇政権の呼び名の遺物だったのである。

 では近畿倭国以前の、

 銅鐸文化をもった人々はなんと呼ばれていたか、

 古い方から消えるのが地名の原則で、

 わかっている3国号以外は不明だが、奈良県の広域、

 ことに平城京址を含む地域の地名である奈良に匹敵するものはない。

 するとパーリ語で「北方」を意味する

 名の長老 uttara ウッ夕ラが南九州から北上してきて、

 飛鳥(アスカ)を中心にアソカ仏教を布教した時の

 仏教荘厳具(しょうごんぐ)が銅鐸=釣鐘(つりがね)で、

 ナラとはパーリ語の「nara 人民」の国か、

 「naraka 奈落・死者の国」かだということになるが、
 
 その大量の墳墓群をみると、後者のほうが納得がいく。

 《天武政権の遺物「ヤマト」。銅鐸仏教の遺物「ナラ」
 「天武政権の遺物「ヤマト」。銅鐸仏教の遺物「ナラ」

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2014年2月11日火曜日

八咫烏(ヤアタガラス)で明確になった神武東征の真相


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:25頁

 これで神武東征の実態がお見えになったと思う。

 神武天皇が日向の高千穂の宮から出発して奈良を征服したというのは、

 いまも隼人町に残る高千穂の宮跡から奈良へ東征した、

 倭と海人(ハヤト)王の天武天皇が、

 自己の業績を最大限に活用して、

 紀元前660年に神武天皇が日本国を

 肇国(ちょうこく)したという唐向け謀略用の歴史を、

 創作して巻頭に追加したものだったのである。

 その証拠は1つで充分だ。

 それは彼を先導した「ヤタガラス」の名である。

 この名は在来、ヤタガラスと発音することを強制されてきたが、

 その文字は「頭八咫烏」で、

 頭の字は従来も発音しないように、

 これは「かしら」という意味で、名の中に入れるものではない。

 咫の字の発音姓「タ」ではなく「アタ」で、

 「八咫」は発音「ヤアタ」への当て字である。

 ではヤアタとは何か?。

 それこそ大阪に長く住んでいて地理に詳しいので、

 天智天皇軍を攻撃する戦いの道案内をしたコオロギさんたちの一族、

 霧島で雌伏(しふく)していた八幡徒(ヤマト)たちだったのだ。

 だから「八咫(ヤアタ)」は八幡(ヤマト)への当て字で、

 その実体は山人である。

 道案内というのは、あくまで天武天皇の視点であって、

 実際は天武を担いだ山人たちの復讐戦だったのだ。

 最初の八幡(ヤマン)は3世紀の壹與時代の人で、

 もう一人の八幡(ヤマン)は4世紀。

 天武を担いだ八幡徒(ヤマト)は7世紀の人たち。

 我が国のヤマトは2世紀の奈良とも、

 卑弥呼とさえも無関係だったのである。

 《八咫烏(ヤアタガラス)で明確になった神武東征の真相
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