2014年2月5日水曜日

実在した2人の八幡のどちらがヤマトか


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:19頁

 それはこの言葉が、

 邪馬人に対する復讐語だったことを、強く裏書きしている。

 これらの全てが、声高く、明確に証明していることは、

 奈良は「邪馬人」の国だったとしても

 「ジャマト」と発音されていたのであって、

 それが「ヤマト」と発音されるようになるには、

 もとの発音が忘れられて、

 ただ文字の上で「邪馬人」が残り、

 それを隋唐発音しか知らない人たちが、

 「ヤマト」と読むのが一般化したために

 「ヤマト」として定着したことになる。

 仮に『魏書倭人章』の邪馬壹国は邪馬臺国が正しくても、

 3世紀には「ジャマダイ」で「ヤマト」ではない。

 このようにどんな観点から見ても、

 「邪馬臺はヤマトと読めるから大和だ」というだけの大和説が、

 どんなにいい加減なものかよくわかるのである。

 仮に南九州の「邪馬」が、

 雄略天皇によって5世紀にやっと奈良県に辿りついたとしても、

 その発音は「ジャマ」のままだった。

 それがなぜ、

 仁徳皇朝が滅んだ後に「ヤマト」朝廷という名を生んだのか?。

 この問題ではここが最も肝心なところなのだ。

 それは『記・紀』が双方とも

 「応神天皇の名替え」を書いていて、

 神功皇后が30数年もの永い間、

 天皇を身籠(みご)もった後、

 出産したという非常識な、

 明らかな虚構を残したからである。

 これは2人の八幡が実在した証拠であって、

 奈良のヤマトの名はさらに新たな謎を生む。

 《実在した2人の八幡のどちらがヤマトか
 「実在した2人の八幡のどちらがヤマトか

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 《参考:年表・資料》 

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