2014年2月3日月曜日

対立するヤマトの語源、奴国と邪馬国


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:17頁

 これで『魏書倭人章』の伊都国から

 東南百里に大移動した奴国の位置が、

 後の山門郡だと立証されたし、

 それが超大国なった理由も完全に理解できた。

 大和朝廷が奴国政権の後身で

 種子島人の「橘(たちばな)」たちの王朝だったことには、

 まず一点の疑いも残らない。

 ヤマトの語源は八幡徒(ヤマト)だとはいっても、

 その前にヤマトバルの奄美大和があった。

 もっとも奄美の大和は、後世の当て字で、

 始めは発音だけがあったに過ぎなきい。

 奈良県がヤマトの名をもつのは、

 山人たちが大分県の山国を後(あと)に、

 国東(くにさき)半島の佐賀の関から渡海して

 愛媛の佐田岬半島に上陸、

 次第に四国を東進して、

 倭の五王時代に倭王・武が初めて奈良の高市に都した、

 その時よりも後に生まれた名詞であって、

 奈良県に到達した時にヤマトの国と呼ばれたとしても、

 早くて5世紀である。

 だが史実は簡単ではない。

 ヤマの候補者がこの奴国(ノマ)だけでなく他にもう一つある。

 それは『魏書倭人章』の時代には、

 漢魏音でジャマ、

 またはジォマと呼ばれていた旁国の「邪馬」である。

 これが奴国とともに山門郡に移動した可能性はある。

 しかし邪馬がヤマと発音されるのは、

 隋唐音が日本で使われるようになった後で、

 中国が隋唐に支配された7世紀以後のことだとはっきりしている。

 それまではまだ「ジャマ」と発音されていて、

 それがヤマに変わることはありえない。

 《対立するヤマトの語源、奴国と邪馬国
 「対立するヤマトの語源、奴国と邪馬国

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