2015年7月31日金曜日

『アズミ族の正体』

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 ※出典: 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦 190~195頁

 ≪アズミ族の正体≫

  アズミ族は紀元前のかなり古い時代から

 メソポタミア・インドを祖地として

 木造帆船でアラビア海、インド洋から極東の太平洋へ

 その交易網を広げた海洋族である。

 インド亜大陸へ牛飼いのアーリア人が、

 北方ヒンズークシ山脈を越えて侵入してきた

 紀元前1500年頃よりも早く

 同大陸の西方に勢力を拡げていた文明人である。

 アズミ族は遠く海洋を航海するいわゆる、

 海上、つまり船上を住み家とする人々であった。

 船が家なのである「アズミ」の祖語は es-ma で語義は「屋船」である。

 この「船[ma]」が奴国の「奴[nau](船)」と合致する。

 このことから奴国は那珂ばかりでなく

 博多湾を取り囲む地域に広がっていたことが判明してくる。

 同湾の西方面は今津湾と称されるが、

 この「今:イマ」も e の音写で、

  e は es と同義の「家」を表わすのでやはり、「家(屋)-船」となり

 「アズミ es-ma 」と同義、

 また福岡市西区の湾岸の地域名「姪浜」の

 「メイ」も ma-e で「イマ e-ma 」を転倒させただけで「船-家」である。

  族名「アズミ」は es-ma 〔家-船:屋船〕に依る。

 山海経の「天毒」にある「其人水居」に適しい典型的な「海人YMYT」である。

 アズミ族はそのインド〔天毒〕からの渡来海洋人だが、

 邪馬臺国のアーリア人系とは全く別の系譜の人々で、

 その祖名をヤーダヴァ族という。

 紀元前1500年頃北方ヒンズークシ山脈を越えて来た

 牛飼いのアーリア人とは文化の違う紀元前5000年頃から

 メソポタミアからインド、太平洋のインドネシア諸島の方まで

 流浪していた海洋族である。

 彼等はインド亜大陸の西北部インダス川とビンダヤ山脈の間

 アラビア海岸のシンドからデリー・マルワ一帯に勢力を広げていた。

 彼等は単なる流浪者ではなく、各地方間の交易も開拓していた。

 特にメソポタミアとの間にも同地に根強い根拠地を設け

 海路を積極的にインド方面の物産をペルシャ湾を通し輸送した。

 紀元前1800年頃のアッカド王シャルルキン王碑銘には

 インド方面からしか得られない孔雀や紅玉、黒檀などの品目が

 輸入品目名として刻まれている。

  それより古いメソポタミアのシュメルの言葉に貿易相手先地名として

 「メルッハ」名があるが、

 同語は me-lulu-ha 〔土地‐人々‐魚〕で「魚人の地」である。

 Lulu は「人」の複数形である。

 上記したインドの現在の地方名「マルワ」は

  ma(me)-lu-ha〔土地‐人々‐魚:魚人の地〕と

 「人」が単数形で構成されている。 

 ヤーダヴァ族が建てた国「マッラ」は

 倭人伝の「末廬国」の祖語とした

  madhura〔甘い物〕を首都にする国だが、

 サンスクリット語で「魚」である matsura 名に依り、

 古代の主要国の一つであった。

  ヤーダヴァ族はインド神話に天下分け目の大戦、

 インドプラスタの戦いに敗れ、

 次第にアーリア人に圧迫され衰退していった。

 終末期の王はクリシュナ〔マハーカーラ:大黒〕といい、

 彼は最後の守城としてサウラシュトラの海に

 ドヴァラカーという門をいくつか備えた城を造るが滅亡し、

 城は海に没してしまったという。

 現在その西北端に Dwarka との町名が残っている。

 「海に没した」とは、

 そこを離れ海の中(向こう)に消えてしまったとの意味が隠されている。

 彼等が行き着いた先が現博多湾の周辺である。

 『古事記』に「綿津見の宮」、

 『日本書紀』の「海神の宮」 の祖形が

 ドヴァラカー城で、そのキラキラ輝いていた様相を

 『古事記』は「鱗のごと」といっている。

 その「鱗」が lu で、

 いわゆる「龍宮」とはその用語を負わせてた呼称である。

 綿津見の宮、龍宮の伝承にしても一切「龍:大きい蛇」は出てこない。


  ヤーダヴァ族はアズミ族の名で、

 その基になっているサンスクリット語中の

  yadas は「大きな水棲動物」で多分アーリア人には「海の怪物」と

 解釈されたが、その祖王(族)名の yadu の基語である。

 Yādava は「yaduの子孫」が語義である。

 誠に「水居」を背景に持つ族類ではある。

 この yadas 、単に魚のように水中にいただけでなく、

 陸上においても存在していたのが実際で、

 陸上水中〔海中〕双方で生息できた。

 海洋族そのものである。

  さて、水陸を生活の場にした者たちの伝承がメソポタミアにある。

 ジャン・ポテロの『メソポタミア』に紹介されている

 「オアネス」伝承がそれで、

 少々長いがその翻訳本〔法政大学出版局〕から紹介する。

 
   この神話は当初の姿では残っておらず、

  また正確な内容もわからない。

  部分的ながら復元してみる必要がある。

  まず第一に、前300年頃「バビロニアのベール神官」をしていて、

  この古い歴史を持った国の「哲学」と歴史との要説をギリシャ語で

  著したベロッソス(Berossos)自身のスケッチに頼ることにしよう。

   
   彼は説明する。

   バビロニアにおいては、数多くの人間がよそからカルディアの地

  (メソポタミア南部の、ペルシア湾に隣接した地域)

  にやって来て住み着いたが、

  彼らは動物と同様の粗野な生活を送っていた。

  最初の年に、紅海からやってきたオアネスという名の異様な怪物が、

  岸辺に現れた。 


  彼の身体は全体として魚のそれであったが、

  頭の下にもう一つの頭が挟み込まれていて、

  それは人間の頭であった。

  足の陰にも人間の足と同じ足が見えた。

  この姿を人々は記憶にとどめていて、


  今日でもそれを再現した像を作っている。

  この生き物は、人間の間に混じって、

  食物を何も採らず日々を過ごし、

  人々に文字、あらゆる種類の科学と技術、町の建設、

  神殿の建造、判例の集成、幾何学を教えた。

  同様に穀物(の栽培)や果物の収穫などについても明かした。

  要するに、

  彼は人々に文明生活の基本となる全てを授けたのである。

  それが完璧であったがために、

  それ以来人々は(この問題に関して)

  これ以上素晴らしいものに遭遇することはなかった。

  日没時には、オアネスという名のこの怪物は、

  夜を過ごすため水の中に身を沈めた。

  彼は水陸両棲生物だったからである。

  後になって、同じような別の生物が現れた……。


  同書はまた、ベロッソスの記述として

 「やはり紅海からやって来た魚人」が

 存在して合計で7人いたといっている。

 その7人は神話で

 「7人の素晴らしいアプカッツル」と称されていたとある。

 またその1人は「アダバ」の異称を持つという。

 そのアプカッツル、アダバ、魚人はヤーダヴァ族の仲間である。

  「オアネス」名はベロッソスがギリシャ語で書いた名称で、

 それをギリシャ語に捜すと、uionos で、

 その語義は「子供、孫」で、

 「綿津見」をまた「海童」と表記する「童:小児」に相当する。

 だからアズミ族の人々がメソポタミアとの関係を

 認識していたとの証拠である。

 「アプカッツル」の本書の解釈は ap-ka-lulu 「海の人魚」、

 「アダバ」は a-deb 〔水-歩き回る〕で「水を歩き回る」

 水陸両棲生物の特性である。

 これらは yadas の語義に合致する。

  メソポタミアのシュメルの時代に関係した族類が

 インドではヤーダヴァ族となり、

 そこでアーリア系の拡張に圧迫されて

 延命の策として海上へ出て極東へ移動し

 アズミ族となったと解釈される。

 彼らの使用言語はサンスクリット語ではない。

 同語はアーリア人の言語である。
 
 インド・ヨーロッパ語圏に属するもので、

 イラン〔ペルシャ〕から北方の牧人たちの言葉である。

 アーリア人の起源について述べておくと、

 本来は「アーリアン」でシュメル語の

  ar-en 〔賛美する-主(神)〕で「神を崇める」の語義である。

 その信仰がバラモン教である。

 彼等はメソポタミアの北部、

 現トルコ方面からイラン高原で牛飼いになり約千年もかけて

 ヒンズークシ山脈を越えて来た勢力である。

 アーリア人がインドでの先住のヤーダヴァ族を

 どうみていたかを示すよい例がある。

 前述の「メルッハ」がサンスクリット語に mleccha とあり、

 「非アーリア人」で「他国人」は宜しいとしても

 「野蛮人」「蛮族」の語義で使用されたのである。

 「シュメル人」とされた人々は

 メソポタミアのペルシャ湾の奥地に多大な文化を建設したが、

 いつの間にかそこから消えてしまったのかの

 推測をしておきたい。

 これも前出したアッカドの王シャルルキンの勢力が巨大となり

 先住の人々はそこにいられなくなったからである。

 アッカド人はアモリ人などと称される

 ユーフラテスの上流現シリア方面が祖地である。

 その川沿いに下ってペルシャ湾岸に侵入してきたのである。

  シュメルの人々はインドへ移りまた極東へ移ったのである。

 シュメルとは後の呼称でシュメルの時代には彼らの土地を

 ki-en-gi〔土地-の-葦〕といい、

 『日本書紀』が記す「葦原中ッ国」名の祖地といえる。

 これまでの多量の引用の実態から

 「シュメル語」の日本への伝来を確信していただきたい。

 シュメル語はこれまでの太陽信仰ばかりでなく、

 多くの主要な神社文化に徹底的に影響し、

 現在に継承されてきているのである。

 アズミ族の信仰の対象福岡市の志賀島にある志賀海神社は

 綿津見神を奉祭するが、

 「シカ」は suku〔神域:ギリシャ語sikos:聖域 〕、

 「シカウミ」は zikum〔天、深海〕の音写である。

 志賀島の外海「玄海灘」の「玄」にも

 漢語で「天界」及び「深海」の語義がある。

  シュメルの文化が、

 諏訪、伊勢、出雲の神社に影響した実相を簡単に述べる。

2015年7月21日火曜日

『中国の正史25史』

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 ≪中国の正史25史≫

 中国の正史25史は、

 それぞれの当時としては最高の条件下に編まれた官選史で、
 
 情報源は政府を中心にしているだけに、

 その資料記事も学識者の手になり、

 充分な知見に基ずいているとせねばならない。

 そのうちでも『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』は、

 遣唐使の往来が復活し、

 交流も記事内容も魏志よりさらに充実して、

 はるかに謎の部分が少ない、とされてきたものである。

 にもかかわらず、

 その『旧唐書』の日本関係記事の標題は二本だてになっていて

 「倭国」と「日本国」になっているのである。

 なぜそうなっているかは記事中に説明がある。

 「日本国は倭国の別種なり」とある。

 はっきり、日本と倭とは別の国であったことを明記しているのである。

 私たちはこれまで倭と書いてあっても日本と書いてあっても、

 一緒くたに「ヤマト」と読むように習慣づけられてきた。

 しかし、この記事は、それが全く別の二カ国であり、

 二つの国が併立していた時代のあったことを教えているのである。

 それはさらに

 「日本はもと小国であったが、倭国を併合した」と説明している。

 この記事がほぼ事実であることは、

 5世紀の終りごろに書かれた『宋書』が説明している。

 そこでは倭の武王が、

 先祖代々、東と西と北の国々を次第に征服した、

 と中国へ上表した文章が記録に残っているからである。

 11世紀後半に書かれた『新唐書』には、

 さらに詳しく天御中主命に初まる歴代天皇の名を、

 所々中国の年代と対照しながら

 58代光孝天皇(9世紀末)まであげてあり、

 その中で、持統天皇と文武天皇の間に、

 次のように国号を改めた理由などを挟んでいる。

 「中国語を習った結果倭という名は悪いと考え日本と改めた。

  使者の説明では国の位置が日の出る所に近いためだとか、

  日本は小さな国で倭が併合したため、

  その名をとって用いたのだとか答えるが、

  使者はどこか、

  よそよそしくて云うことも疑がわしい。

  またむやみに日本を誇り都は数千里四方もあるという。

  南と西は海に至り、東と北は大山に限られていて、

  その向うは毛人国であると云うことである」

 お気づきの通り、

 『旧唐書』とは逆に、倭が日本を合併したとある。

 これだと『宋書』に一致することになる。

 また都が数千里四方もあるというと疑っているが、

 それは倭人里を中国里と誤解しているためである。

 また都というのが

 邪馬臺国式のものであるのを、

 先方は中国式の城壁で囲まれたものと

 誤解していることも明瞭である。

 『新・旧両唐書』が日本国の大きさを

 「東西五月行、南北三月行」と書き、

 また『旧唐書』では更に

 「日本人の入朝者がまた云うのによると、

  日本は東西南北各数千里、

  西も南も境は皆大海に至り、

  東と北の境界には大山があって、

  その山の向うが毛人之国である」と附記している。

 これも後半は『新唐書』と一緒であることがわかる。

 倭人伝とちがって、

 これらの情報はすべて

 日本からの使節から直接に得たものであることが

 明記されているのである。

 決してまた聞きや、想像ではないことに留意しておいて戴きたい。

  「表:中国正史一覧(本書関係分10史)」(加治木原図)

 正史名  関係伝条各     内容年代     編時   編者名(没年)
                西歴B.C.年   年頃             年

 後漢書  東夷・倭      140~188     440    范嘩 ~445

 三国志  魏書・東夷・倭人  110~266     290    陳寿 ~297

 晋書   東夷・倭人     238~266     640    房玄齢~648

 宋書   夷蛮・倭国     421~478    500    沈約 ~513

 南斉書  東南夷・倭国    170~478     530    蕭子顕~537

 梁書   東夷・倭      178~478     630    姚思廉~637

 北史   四夷・倭      178~570     700?   李延寿   ?

 隋書   東夷・倭国      57~608     640    魏徴 ~643

 旧唐書  東夷・倭国・日本   57~839     940     劉昫887~946

 新唐書  東夷・日本     神代~884    1050    宋祁998~1061

 ※出典:加治木義博 邪馬臺国の言葉:61・62頁
 ※中国の「正史」の日本語訳
 ※中国正史一覧


 

2015年7月20日月曜日

『宋史』

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 ※出典:古代史獺祭

 ≪宋史≫ 

 宋史

 1345年成立。元の托克托(トクト・脱脱)編纂。

 宋(北宋・南宋)の歴史を記した史書。

 紀四十七巻、志百六十二巻、表三十二巻、

 列伝二百五十五巻の全四百九十六巻。


 卷四十四 本紀第四十四 理宗四 寶祐六年

 「詔申嚴倭船入界之禁」

 (寶祐)

  六年春正月辛亥朔 以丁大全參知政事兼同知樞密院事

 林存兼權參知政事 癸亥 詔出封樁庫銀萬兩付蜀閫 辛未

 詔授成穆皇后弟太師郭師禹孫善庸承務郎 仍免銓注差 癸酉

 罷李曾伯廣西經略 以廣南制置大使兼知靜江府 其經略司官屬

 改充制司官屬 甲戌 詔樞密院編修官呂逢年詣蜀閫

 趣辦關隘・屯柵・糧餉 相度黄平・思・播諸處險要緩急事宜

 具工役以聞 戊寅 雷

  二月辛巳朔 以馬光祖爲端明殿學士・京湖制置使・知江陵府

 兼夔路策應・湖廣總領財賦屯田事 壬辰 雨土

  三月辛亥朔 祈雨 丙辰

 馬光祖請以呂文德・王鑑・王登・汪立信等充制司參議官及辟制司準備差使等官

 詔光祖開閫之初 姑從所請 戊辰 以馬光祖兼荊湖北路安撫使 庚午

 熒惑退入氐 甲戌 詔湖北提點刑獄文復之移司江陵 兼京湖制司參議官

  夏四月庚辰朔 詔 自冬徂春 天久不雨 民失東作 自四月一日始

 避殿減膳 仰答譴告 癸未 程元鳳等以久旱乞解機務 詔不允 甲申

 大雨 丙申 群臣三表請禦正殿 從之 丁酉

 詔田應己思州駐箚御前忠勝軍副都統制 往播州共築關隘防禦 己亥

 臺臣朱熠劾沿江制置副使呂好問 黄州之役貪酷誤事 詔褫職 乙巳

 程元鳳罷 以觀文殿學士判福州 尋提舉洞霄宮 丙午

 趙葵三辭免福建安撫使 詔授醴泉觀使兼侍讀 丁未

 以丁大全爲右丞相兼樞密使 林存同知樞密院事兼權參知政事

 朱熠端明殿學士・簽書樞密院事

  五月庚戌朔 詔 襄・樊解圍 高達・程大元應援 李和城守 皆有勞績

 將士用命 深可嘉尚 其亟議行賞激 癸丑 詔懷遠・漣水相繼奏功

 夏貴官兩轉 兼河南招撫使 毛興轉右武大夫 並依舊任 丁巳 李曾伯言

 廣西多荒田 民懼增賦不耕 乞許耕者復三年租 後兩年減其租之半

 守令勸墾闢多者賞之 奏可 丙寅 命嗣榮王與芮判大宗正事 丁卯

 嗣秀王師彌薨

  六月癸巳 臺臣戴慶劾淮東總領趙與時 奪職鐫秩

  秋七月庚戌 城凌霄山 詔朱禩孫進一秩 易士英帶行閤門宣贊

 餘轉官有差 癸丑 熒惑犯房宿 戊午 趙葵四辭免醴泉觀使兼侍讀

 乞外祠 從之 戊辰 蜀郡劉整上捷 詔推恩賞 癸酉 知平江府余晦

 以臺臣戴慶言 曩敗績于蜀 誤國欺君 詔奪寶章閣待制 罷任

 追冒支官錢 甲戌 詔前福建漕臣高斯得已奪職鐫官 其贓百餘萬嚴限徴償

 以懲貪吏 乙亥 呂文德入播州 詔京湖給銀萬兩

  八月癸未 太陰行犯熒惑 戊戌 詔上流鎖江防禦 癸卯

 詔申嚴倭船入界之禁

  九月壬子 詔蜀・廣・海道申嚴防遏 甲寅 詔安南情状叵測

 申飭邊防 戊辰 安豐上戰功 有流星透霞

  冬十月丙子朔 詔 蜀中將帥雖未克復成都 而暴露日久 戰功亦多

 宜與序升 其亟條具以聞 丁丑

 以兪興爲四川制置副使・知嘉定府兼成都安撫副使 乙酉

 詔知隆慶府楊禮守安西堡有功 官兩轉 戊子 大元兵攻通・泰州 庚寅

 廣南劉雄飛奏橫山之功 詔雄飛官三轉 部兵將校官兩轉 辛卯

 詔常州・江陰・鎮江發米振贍淮民

  十一月己酉 林存罷 以資政殿學士知建寧府 癸丑 潁州上戰功

 詔亟推賞 以示激厲 詔追復余玠官職 甲寅 築黄平 賜名鎮遠州

 呂逢年進一秩 詔撫諭沿邊將士 丙辰 給事中張鎮言 徐敏子曩帥廣右

 嗜殺黷貨 流毒桂府 詔仍舊羈管隆興府 丁巳 葉夢鼎依舊職知隆興府

 壬戌 以朱熠同知樞密院事兼權參知政事

 饒虎臣端明殿學士・同簽書樞密院事 賈似道樞密使・兩淮宣撫使

 甲子 太陰犯權星 丁卯 東海失守 賈似道抗章引咎 詔令以功自贖

 特與放罪 甲戌 淮東帥臣奏大元兵退 填星・熒惑在危

  十二月戊寅 詔改來年爲開慶元年 庚辰 大元兵渡馬湖入蜀

 詔馬光祖時暫移司峽州 六郡鎮撫向士璧移司紹慶府 以便策應 癸未

 房州上戰功 丙戌 詔置橫山屯 丁亥 向士璧不俟朝命進師歸州

 捐貲百萬以供軍費 馬光祖不待奏請招兵萬人 捐奉銀萬兩以募壯士

 遂有房州之功 詔士璧・光祖各進一秩 辛丑 詔李曾伯城築關隘

 訓練民兵峒丁 申嚴防遏 填星・太白・熒惑合于室


 卷四百九十一 列傳第二百五十 外國七 日本國

 「古事記」・「日本書紀」のいずれとも異なる系譜の

 『王年代記』を記録している。

  倭國者 本倭奴國也 自以其國近日所出 故以日本爲名 或云

 惡其舊名改之也

  其地東西南北各千里 西南至海 東北隅以大山 山外即毛人國

 自後漢始朝貢 歴魏晋宋隋皆来貢

 唐永徽顯慶長安開元天寶上元貞元元和開成中並遣使入朝

  雍熈元年 日本國僧然 與其徒五六人浮海而至

 獻銅器十事并本國職員王年代紀各一卷

  然 衣緑自云 姓藤原氏父爲真連 真連其國五品官也

 然善隷書而不通華言 問其風土 但書以對云 國中有五經書及佛經

 白居易集七十卷 並得自中國 土宜五穀而少麥 交易用銅錢

 文曰乾文大寶 畜有水牛驢羊多犀象 産蠶多織絹 薄緻可愛

 樂有國中高麗二部 四時寒暑大類中國 國之東境接海島夷人居所

 身面皆有毛 東奥州産黄金 西別島出白銀以爲貢賦 國王以王爲姓

 傳襲至王六十四世 文武僚吏皆世官

  其年代紀所記云

  初主天中主 次曰天村雲尊 其後皆以尊爲 次天八重雲尊 次天彌聞尊

 次天忍勝尊 次贍波尊 次萬魂尊 次利利魂尊 次國狭槌尊 次角魂尊 

 次汲津丹尊 次面垂見尊 次國常立尊 次天鑑尊 次天萬尊 次沫名杵尊

 次伊弉諾尊 次素戔烏尊 次天照大神尊 次正吾勝速日天押穂耳尊

 次天彦尊 次炎尊 次彦瀲尊 凡二十三世 並都於筑紫日向宮

  彦瀲第四子神武天皇 自筑紫宮入居大和州橿原宮

 即位元年甲寅當周僖王時也 次綏靖天皇 次安寧天皇 次懿德天皇

 次孝昭天皇 次孝天皇 次孝靈天皇 次孝元天皇 次開化天皇

 次崇神天皇 次垂仁天皇 次景行天皇 次成務天皇 次仲哀天皇

 國人言爲鎮國香椎大神 次神功天皇 開化天皇之曽孫女

 又謂之息長足姫天皇 國人言爲太奈良良姫大神 次應神天皇 

 甲辰始於百濟得中國文字 八蕃菩薩 有大臣紀武内年三百七

 次仁德天皇 次履中天皇 次反正天皇 次允恭天皇 次安康天皇

 次雄略天皇 次清寧天皇  次顯宗天皇 次仁賢天皇 次武烈天皇

 次繼體天皇 次安開天皇 次宣化天皇 次天國排開廣庭天皇

 亦名欽明天皇 即位十一年壬申 始傳佛法於百濟國 當土梁承聖元年

 次敏達天皇 次用明天皇 有子曰聖德太子 年三聞十人語同時解之

 七悟佛法 于菩提寺講聖鬘經 天雨曼陀羅華 當土隋開皇中

 遣使泛海至中國求法華經 次崇峻天皇 次推古天皇欽明天皇之女也

 次舒明天皇 次皇極天皇 次孝德天皇 白雉四年 律師道照

 求法至中國 從三藏僧玄奘受經律論 當土唐永徽四年也

 次天豊財重日足姫天皇 令僧智通等入唐求大乗法相敎 當顯慶三年

 次天智天皇 次天武天皇 次持天皇 次文武天皇 大寶三年

 當長安元年遣粟田真人入唐求書籍 律師道慈求經 次阿閉天皇

 次皈依天皇 次聖武天皇 寶二年 遣僧正玄入朝 當開元四年

 次孝明天皇 聖武天皇之女也 天平勝寶四年 當天寶中

 遣使及僧入唐求内外經敎及傳戒 次天炊天皇 次野姫天皇

 聖武天皇之女也 次白天皇 二十四年

 遣二僧靈仙行賀入唐禮五臺山學佛法 次桓武天皇

 遣騰元葛野與空海大師及延歴寺僧澄入唐詣天台山傳智者止觀義

 當元和元年也 次諾樂天皇 次嵯峨天皇 次淳和天皇 次仁明天皇

 當開成會昌中遣僧入唐禮五臺 次文德天皇 當大中年間 次清和天皇

 次陽成天皇 次光孝天皇 遣僧宗入唐傳敎 當光啓元年也 次仁和天皇

 當土梁龍德中遣僧寛建等入朝 次醍醐天皇 次天慶天皇 次封上天皇

 當土周廣順年也 次冷泉天皇 爲太上天皇 次守平天皇即王也

 凡六十四世

  畿内有山城大和河内和泉攝津凡五州 共統五十三郡

 東海道有伊賀伊勢志摩尾張參河遠江駿河伊豆甲斐相模武蔵安房上常陸凡十四州

 共統一百一十六郡 東山道有通江濃飛信濃上野下野陸奥出羽凡八州

 共統一百二十二郡 北陸道有若狹越前加賀能登越中越後佐渡凡七州

 共統三十郡 山道有丹波丹彼徂馬因伯耆出雲石見岐凡八州

 共統五十二郡 小陽道有作備前備中備後安周防長門凡八州

 共統六十九郡 南海道有伊紀淡路河波讃耆伊豫土佐凡六州

 共統四十八郡 西海道有筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向大隅薩摩凡九州 

 共統九十三郡 又有壹伎對馬多凡三島 各統二郡 是謂五畿七道三島

 凡三千七百七十二都四百一十四驛八十八萬三千三百二十九課丁

 課丁之外不可詳見 皆然所記云

  按隋開皇二十年 倭王姓阿毎 名自多利思比孤 遣使致書 唐永徽五年

 遣使琥珀馬脳 長安二年 遣其朝臣真人貢方物 開元初遣使来朝

 天寶十二年 又遣使来貢 元和元年 遣階真人来貢 開成四年

 又遣使来貢 其所記皆同 大中光啓龍德及周廣順中

 皆嘗遣僧至中國唐書中五代史失其傳 唐咸亨中及開元二十三年

 大暦十二年 建中元年 皆来朝貢其記不載

  太宗召見然存撫之甚厚賜紫衣于太平興國寺

 上聞其國王一姓傳繼臣下皆世官 因歎息謂宰相曰 島夷耳

 乃世祚遐久其臣亦繼襲不絶 蓋古之道也

 中國自唐李之亂縣分裂梁周五代享歴尤促 大臣世冑鮮能嗣續

 朕雖德慙往聖常夙夜寅畏講求治本不敢暇逸建無窮之業 可久之範

 亦以爲子孫之計 使大臣之後世襲禄位朕之心焉

  其國多有中國典籍 然之来復得孝經一卷越王孝經新義第十五一卷

 皆金縷紅羅水晶爲軸

 孝經即鄭氏注者越王者乃唐太宗子越王貞新義者記室參軍任希古等撰也

 然復求詣五臺 許之令所過續食 又求印本大藏經詔亦給之

  二年随台州寧海縣商人鄭仁德船歸其國 後年仁德還

 然遣其弟子喜因奉表来謝曰 日本國東大寺大朝法濟大師賜紫沙門然啓

 傷鱗入不忘漢主之恩 枯合歡猶亢魏氏之敵 雖云羊僧之拙誰忍鴻之誠

 然誠惶誠恐頓首頓首死罪 然附商船之離岸期魏闕於生涯望落日而西行

 十萬里之波濤難盡 顧信風而東別 千里之山嶽易過

 妄以下根之卑適詣中華之盛

 於是宣旨頻降恣許荒外之跋渉宿心克粗觀内之竒

 况乎金闕暁後望尭雲於九禁之中巖晴前拜聖燈於五臺之上

 就三藏而禀學巡寺而優游遂使蓮華廻文神筆出於北闕之北貝葉印字佛詔傳於東海之東

 重蒙宣恩忽来跡 季夏觧台州之孟秋達本國之郊 爰逮明春初到舊邑

 緇素欣待候伯慕迎

 伏惟陛下恵溢四溟恩五嶽世超黄軒之古人直金輪之新

 然空辭鳳凰之窟更還螻蟻之封

 在彼在斯只仰皇德之盛越山越海敢忘帝念之深

 縦粉百年之身何報一日之恵 染筆拭涙伸紙揺魂不勝慕恩之至

 謹差上足弟子傳燈大法師位嘉因並大朝剃頭受戒僧祚乾等拜表以聞

 其本國永延二年次戊子二月八日 實端拱元年也

  又別啓貢佛經納青木函

 琥珀青紅白水晶紅黒木子念珠各一連並納螺鈿花形平函

 毛籠一納螺杯二口 葛籠一納法螺二口染皮二十枚

 金銀蒔繪筥一合納髪鬘二頭

 又一合納參議正四位上滕佐理手書二卷及進奉物一卷表状一卷

 又金銀蒔繪硯一筥一合納金硯一鹿毛筆松墨金銅水瓶鐵刀

 又金銀蒔繪扇筥一合納檜扇二十枚蝙蝠扇二枚螺鈿梳函一對其一納赤木梳

 二百七十其一納龍骨十 螺鈿書案一螺鈿書几一金銀蒔繪平筥一合

 納白細布五匹 鹿皮籠一納裘一領

 螺鈿鞍轡一副銅鐵鐙紅鞦泥障倭畫屏風一雙石流黄七百斤

  咸平五年建州海賈周世昌遭風飄至日本 凡七年得還 與其國人滕木吉至

 上皆召見之 世昌以其國人唱和詩来上 詞甚雕刻膚淺無所取

 詢其風俗云婦人皆被髪一衣用二三 又陳所記州名年

 上令滕木吉以所持木弓矢挽射 矢不能遠 詰其故國中不習戰闘

 賜木吉時装錢遣還

  景德元年其國僧寂照等八人来朝 寂照不暁華言而識文字繕寫甚妙

 凡問答並以筆札 詔圓通大師賜紫方袍

  天聖四年十二月明州言 日本國大宰府遣人貢方物 而不持本國表 詔之

 其後亦未通朝貢 南賈時有傳其物貨至中國者

  熈寧五年有僧誠尋 至台州止天台國清寺願留州以聞 詔使赴闕 

 誠尋銀香爐木子白琉璃五香水精紫檀琥珀所飾念珠及青色織物綾 

 神宗以其遠人而有戒業之開寶寺盡賜同来僧紫方袍 

 是後連貢方物而来者皆僧也

  元豊元年使通事僧仲来 賜慕化懐德大師 明州又言 得其國大宰府牒

 因使人孫忠還遣仲等貢二百匹水銀五千兩 以孫忠乃海商而貢禮與諸國異

 請自移牒報而答其物直付仲東歸 従之

  乾道九年始附明州綱首以方物入貢

  淳熈二年倭船火兒滕太明毆鄭作死 詔械太明付其綱首歸治以其國之法

  三年風泊日本舟至明州 衆皆不得食 行乞至臨安府者復百人

  詔人日給錢五十文米二升俟其國舟至日遣歸

  十年日本七十三人復飄至秀州華縣 給常平義倉錢米以振之

  紹熈四年泰州及秀州華縣復有倭人爲風所泊而至者

 詔勿取其貨出常平米振給而遣之

  慶元六年至平江府

  嘉泰二年至定海縣 詔並給錢米遣歸國


  倭國は本の倭奴國也。

 自ら其の國日出ずる所に近きを以って、故に日本を以ちて名と爲す。

 或いは云う、其の舊名を惡(にく)み之を改むる也と。

 其の地は東西南北各千里。

 西南は海に至り、東北隅は大山を以って(隔)(へだ)て、

 山外は即ち毛人國。

 後漢より始めて朝貢し、魏・晋・宋・隋を歴(へ)て皆来貢す。

 唐の永徽・顯慶・長安・開元・天寶・上元・貞元・元和・開成中、

 並びに使を遣して入朝す。

 雍熈元年、日本國の僧然(ちょうねん)、

 其の徒五・六人と海に浮かんで至り、

 銅器十事并びに本國『職員』【原文の「(今)」は誤り。

 正しくは「令」で『職員令』】・『王年代紀』各一卷を獻(献)ず。

 雍熈元年/北宋(960~1127)の年号。

 西暦984年、日本の永觀二年。

 六十五代花山天皇(かざんてんのう)即位の年

 (このとき十七歳)にあたる。

 然/三論宗(さんろんしゅう)の東大寺僧。

 平安京の西の愛宕山に伽藍を建立するため

 中国の天台山・五台山への巡礼を企図し、

 この前年、

 呉越の商人の陳仁爽 (ちんじんそう)・徐仁満(じょじんまん)の

 船に便乗し中国への渡海を果たした。

 時に四十七歳。

 王年代紀/「古事記」は和銅五年(712)、

 「日本書紀」は養老四年(720)にすでに成立している。

 にもかかわらず、

 そのいずれとも異なる系譜を記すこの

 「年代紀」とはいったいどのようなものであったろうか。

 然(ちょうねん)、衣は緑にして自ら云う、

 姓は藤原氏、父は真連と爲すと。

 真連は其の國の五品官也。

 然は隷書を善くすれども華言に通ぜず。

 其の風土を問うに、但だ書を以って對(こた)えて云う、

 國中に五經の書及び佛經、

 『白居易集』七十卷有り、並びに中國より得たり。

 土は五穀に宜(よろ)しく麥(麦)少し。

 交易には銅錢を用い、文を「乾文大寶」と曰う。

 畜に水牛・驢・羊有り犀・象多し。

 蠶(糸蚕)を産し多く絹を織る。

 薄緻愛す可し。

 樂に國中・高麗の二部有り。

 四時の寒暑は大いに中國に類す。

 國の東境は海島に接し夷人の居する所なり。

 身面皆毛有り。

 東の奥州は黄金を産し、西の別島は白銀を出し以って貢賦と爲す。

 國王は王を以って姓と爲し、傳襲して(今)王に至るに六十四世。

 文武の僚吏は皆な官を世々にす。

 其の年代紀に記す所に云う。

 初めの主は天(御)中主と(号)す。

 次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。

 次は天八重雲尊。

 次は天彌聞尊。

 次は天忍勝尊。

 次は贍波尊。 

 次は萬魂尊。

 次は利利魂尊。

 次は國狭槌尊。

 次は角魂尊。

 次は汲津丹尊。

 次は面垂見尊。

 次は國常立尊。

 次は天鑑尊。

 次は天萬尊。

 次は沫名杵尊。

 次は伊弉諾尊。

 次は素戔烏尊。

 次は天照大神尊。

 次は正(哉)吾勝速日天押穂耳尊。

 次は天彦尊。

 次は炎尊。

 次は彦瀲尊。

 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。

 彦瀲の第四子を神武天皇と(号)す。

 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。

 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。

 次は綏靖天皇。

 次は安寧天皇。

 次は懿德天皇。

 次は孝昭天皇。

 次は孝天皇。 

 次は孝靈天皇。

  次は孝元天皇。

  次は開化天皇。

  次は崇神天皇。

  次は垂仁天皇。

  次は景行天皇。

  次は成務天皇。

  次は仲哀天皇、國人言う、(今)鎮國香椎大神と爲すと。

  次は神功天皇、開化天皇の曽孫女、又た之を息長足姫天皇と謂い、

   國人言う、(今)太奈良良姫大神と爲すと。

  次は應神天皇、甲辰の(歳)(とし)始めて百濟に中國の文字を得、

  (今)八蕃菩薩と(号)す。

  大臣有り紀武内と(号)し年は三百七(歳)。

  次は仁德天皇。

  次は履中天皇。

  次は反正天皇。

  次は允恭天皇。

  次は安康天皇。

  次は雄略天皇。

  次は清寧天皇。

  次は顯宗天皇。

  次は仁賢天皇。

  次は武烈天皇。

  次は繼體天皇。

  次は安開天皇。

  次は宣化天皇。

  次は天國排開廣庭天皇、亦たの名を欽明天皇、

   即位の十一年壬申の(歳)、始めて佛法を百濟國より傳う。

   (此)の土の梁の承聖元年に當たる。

  次は敏達天皇。

  次は用明天皇。 子有り、聖德太子と曰う。

   年三(歳)にして十人の語を聞き同時に之を解す。

   七(歳)にして佛法を悟り、

   菩提寺に于(お)いて聖鬘經を講ずるに、

   天、曼陀羅華を雨ふらす。

   (此)の土の隋の開皇中に當たる。

   使を遣わして海に泛(うか)び中國に至りて法華經を求む。

  次は崇峻天皇。

  次は推古天皇、欽明天皇の女也。

  次は舒明天皇。

  次は皇極天皇。

  次は孝德天皇。 白雉四年、律師道照、法を求めて中國に至り、

   三藏の僧玄奘に從いて經律論を受く。

   (此)の土の唐の永徽四年に當たる也。

  次は天豊財重日足姫天皇。

   僧智通等をして入唐して大乗法相敎を求めしむ。

   顯慶三年に當たる。

  次は天智天皇。

  次は天武天皇。

  次は持(総)天皇【原文の「持(総)天皇」は誤り。

   正しくは「持統天皇」】。

  次は文武天皇。

   大寶三年、長安元年に當たり粟田真人を遣わし入唐して書籍を求め、
   律師道慈に經を求めしむ。

  次は阿閉天皇。

  次は皈依天皇。

  次は聖武天皇。 寶二年、僧正玄を遣わして入朝せしむ。

   開元四年に當たる。
 
  次は孝明天皇、聖武天皇の女也。

   天平勝寶四年、天寶中に當たり、

   使及び僧を遣わして入唐し内外の經敎を求めしめ及び戒を傳えしむ。
  次は天炊天皇。

  次は野姫天皇、聖武天皇の女也。

  次は白天皇。

   二十四年、二僧靈仙・行賀を遣し入唐して五臺山に禮し

   佛法を學ばしむ。

  次は桓武天皇。

   騰元(とうげん)【「藤原」を音読みしたもの】葛野と

   空海大師及び延歴寺の僧澄を遣し入唐して天台山に詣り

   智者の止觀義を傳えしむ。

   元和元年に當たる也。

  次は諾樂天皇。

  次は嵯峨天皇。

  次は淳和天皇。

  次は仁明天皇。
 
   開成・會昌中に當たり、僧を遣わして入唐し五臺に禮せしむ。

  次は文德天皇、大中年間に當たる。

  次は清和天皇。

  次は陽成天皇。

  次は光孝天皇、僧宗を遣わして入唐し敎を傳えしむ。

   光啓元年に當たる也。

  次は仁和天皇。

   (此)の土の梁の龍德中に當たり、僧寛建等を遣わして入朝せしむ。

  次は醍醐天皇。

  次は天慶天皇。

  次は封上天皇

  【原文の「封上天皇」は誤り。正しくは「村上天皇」】。

  (此)の土の周の廣順の年に當たる也。

  次は冷泉天皇。 (今)、太上天皇と爲す。

  次は守平天皇、即ち(今)の王也。 凡そ六十四世。

  守平天皇/円融天皇のこと。

   村上天皇の第五皇子で、冷泉天皇の同母弟。

   同母兄冷泉天皇が精神を患っていたため、

   十一歳の時に譲位され、即位した。 

   実権を握っていた藤原氏の内紛に巻き込まれ、

   永観二年(984)花山天皇に譲位した。

   譲位後、朱雀院上皇と称され、寛和元年(985)出家。

   正暦二年(991)円融寺に崩じた。

   神武から数えて六十三代であるが、

   この年代紀は神功皇后を天皇としているためか六十四世という。

 畿内に山城・大和・河内・和泉・攝津(摂津)の凡そ五州有り。

 共に五十三郡を統(す)ぶる。 東海道に伊賀・伊勢・志摩・尾張・

 參河(三河)・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・

 上(上総)・常陸の凡そ十四州有り。

 共に一百一十六郡を統(す)ぶる。

 東山道に通江【原文の「通江」は誤り。

  正しくは「近江」】・濃(美濃)・飛(飛騨)・信濃・上野・下野・

  陸奥・出羽の凡そ八州有り。

  共に一百二十二郡を統ぶる。

 北陸道に若狹・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の凡そ七州有り。

 共に三十郡を統ぶる。

 山(陰)道に丹波・丹彼【原文の「丹彼」は誤り。

  正しくは「丹後」】・徂馬【原文の「徂馬」は誤り。

  正しくは「但馬」】・因(因幡)・伯耆・出雲・石見・岐(隠岐)の

  凡そ八州有り。

  共に五十二郡を統ぶる。

  小陽道【原文の「小陽道」は誤り。正しくは「山陽道」】に

  (播磨)・作(美作)・備前・備中・備後・安(安芸)・周防・

  長門の凡そ八州有り。

  共に六十九郡を統ぶる。

 南海道に伊紀・淡路・河波・讃耆(讃岐)・伊豫・土佐の凡そ六州有り。

 共に四十八郡を統ぶる。

 西海道に筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の

 凡そ九州有り。

 共に九十三郡を統ぶる。

 又、壹伎(壱岐)・對馬・多(たね?)の凡そ三島有り。

 各々二郡を統ぶる。

 是を五畿七道三島と謂う。

 凡そ三千七百七十二都、四百一十四驛、八十八萬三千三百二十九課丁。

 課丁の外は詳見する可からず。

 皆然の記す所と云う。

 按ずるに隋の開皇二十年、

 倭王姓は阿毎、名は自多利思比孤、使を遣わして書を致す。

 唐の永徽五年、使を遣わして琥珀・馬脳(瑪瑙)を(献)ず。

 長安二年、其の朝臣真人を遣わして方物を貢ず。

 開元の初め使を遣わして来朝す。

 天寶十二年、又使を遣わして来貢す。

 元和元年、階真人を遣わして来貢す。

 開成四年、又使を遣わして来貢す。

 (此)れ其の記す所と皆同じ。

 大中・光啓・龍德及び周の廣順中、

 皆な嘗(かつ)て僧を遣わし中國に至るも唐書の中、

 『五代史』も其の傳を失う。

 唐の咸亨中及び開元二十三年、大暦十二年、建中元年、

 皆な来りて朝貢するも其の記に載(の)せず。

 太宗、然を召見し之を存撫すること甚(はなは)だ厚く、

 紫衣を賜い、太平興國寺に(館)せしむ。

 太宗/北宋(960~1127)の第二代皇帝、趙匡義(ちょうきょうぎ)。

 このとき即位八年、四十六歳。

 上、其の國王は一姓繼を傳え臣下も皆な官を世々にするを聞き、

 因(よ)って歎息して宰相に謂いて曰わく

 「(此)れ島夷のみ。
 
  乃(すなわ)ち世祚遐久(せいそかきゅう)にして

  其の臣亦た繼襲(けいしゅう)して絶えず。

  (此)れ蓋(けだ)し古(いにしえ)の道也。

  中國は唐李の亂より縣(うけん)分裂し、

  梁・周の五代、歴を享(う)くること尤(もっと)も促(みじか)く、

  大臣の世冑(せちゅう)能く嗣續(しぞく)すること鮮(すくな)し。

  朕、德は往聖に慙(は)ずと雖(いえど)も

  常に夙夜(しゅくや)寅(つつし)み畏(おそ)れ、治本を講求し、

  敢(あえ)て暇逸(かいつ)せず。

  無窮の業を建て、可久の範を(垂)(た)れ、亦た以って

  子孫の計を爲し、

  大臣の後をして世々禄位を襲わしめるは(此)れ朕の心なり」と。

 其の國、多く中國典籍有り。 

 然の来たるや復た孝經一卷・越王の孝經新義第十五の一卷を得たり。

 皆、金縷(る)紅羅(ひょう)水晶を軸と爲す。 

 『孝經』は即ち鄭氏の注せる者、

 越王とは乃ち唐の太宗の子越王貞、

 新義とは記室參軍任希古等の撰也。

 然、復た五臺に詣らんことを求む。 

 之を許し過ぐる所をして食を續(つ)がしむ。

 又、印本大藏經を求め詔して亦た之を給す。

  二年、台州寧海縣の商人鄭仁德の船に随いて其の國に歸る。

 後年にして仁德還る。 

 然、其の弟子喜因を遣わして表を奉じて来り謝して曰く 

 「日本國東大寺の大朝法濟大師、賜紫の沙門然啓す。

  傷鱗(夢)に入るも漢主の恩を忘れず。 

  枯(骨)歡を合するも、猶(な)お魏氏の敵に亢(こう)す。

  羊僧の拙なりと云え雖も、誰か鴻(こうはい)の誠に忍びんや。

  然、誠惶誠恐、頓首頓首死罪。

  然、商船の岸を離るるに附し、魏闕(ぎけつ)を生涯に期し、

  落日を望みて西行す。

  十萬里の波濤盡(つく)し難し。

  信風を顧みて東別す。

  千里の山嶽過ぎ易し。

  妄(みだ)りに下根の卑を以って、

  適々(たまたま)中華の盛に詣る。 

  是に於いて、宣旨頻(しき)りに降り、

  恣(ほしいまま)に荒外の跋渉を許し、

  宿心克くい、粗々(ほぼ)内(うない)の竒(かいき)を

  觀(み)たり。

  いわんや金闕の暁後、尭雲を九禁の中に望み、

  巖(げんけい)の晴前、聖燈を五臺の上に拜するをや。

  三藏に就きて學を禀げ、寺を巡りて優游し、

  遂に蓮華廻文の神筆をして北闕の北より出し、

  貝葉印字の佛詔を東海の東に傳えしむ。

  重ねて宣恩を蒙(こうむ)り、忽ち来跡を(お)う。

  季夏に台州の(ともづな)を觧(解)き、孟秋に本國の郊に達す。

  ここに明春に逮(およ)び初めて舊邑に到る。

  緇(し)素欣待し候伯慕迎す。

  伏して惟(おも)んみるに陛下、恵は四溟(しめい)に溢れ、

  恩は五嶽よりく、世は黄軒の古に超え、

  人は金輪の新に直(あた)る。

  然、空しく鳳凰の窟を辭し、更に螻蟻(ろうぎ)の封に還る。

  彼に在り斯に在るも只だ皇德の盛を仰ぎ、

  山を越え海を越ゆるも敢て帝念の深きを忘れんや。

  縦(たと)い百年の身を粉するも、何ぞ一日の恵に報いんや。

  筆を染めては涙を拭い、紙を伸べては魂を揺がし、

  慕恩の至に勝(た)えず。

  謹んで上足の弟子傳燈大法師位嘉因並びに大朝剃頭受戒僧祚乾等を

  差し表を拜して以聞す」と。

 其の本國の永延二年(歳)次戊子二月八日と(称)す。

 實に端拱(たんきょう)元年也。

 又別啓もて佛經を貢し、青木函に納む。 

 琥珀、青紅白水晶、紅黒木(かん)子の念珠各一連、

 並びに螺鈿(らでん)花形平函に納む。

 毛籠一、螺杯二口を納む。

 葛籠(かつろう)一、法螺二口、染皮二十枚を納む。

 金銀蒔繪(まきえ)筥(きょ)一合、髪鬘(はつまん)二頭を納む。

 又一合、參(参)議正四位上滕(とう)佐理の手書二

 及び進奉物一卷、表状一卷を納む。 又金銀蒔繪硯一筥一合、金硯一、

 鹿毛筆、松(煙)墨、金銅水瓶、鐵刀を納む。

 又金銀蒔繪扇筥一合、檜扇二十枚、蝙蝠扇二枚を納む。

 螺鈿の梳(そ)函一對、其の一は赤木梳二百七十を納め、

 其の一は龍骨十(けつ)を納む。

 螺鈿の書案一、螺鈿の書几(しょき)一、金銀蒔繪の平筥一合、

 白細布五匹を納む。 鹿皮籠一、裘(ちきゅう)一領を納む。

 螺鈿の鞍轡(あんぴ)一副、銅鐵鐙、紅(糸)鞦(しゅう)、

 泥障、倭畫屏風一雙、石流黄七百斤。

 咸平五年、建州の海賈(かいこ)周世昌、

 風に遭い飄(ただよ)いて日本に至る。 

 凡そ七年にして還ることを得たり。 

 其の國人滕木吉と至る。

 上、皆な之を召見す。

 世昌、其の國人の唱和の詩を以って来上す。

 詞は甚だ雕(ちょう)刻なれども膚淺(ひせん)にして取る所無し。

 其の風俗を詢(と)うに云う

 「婦人は皆被髪して一衣に二・三(けん)を用う」と。

 又記する所の州名、年(号)を陳(の)ぶ。

 上、滕木吉をして所持せる木弓矢を以って挽射せしむ。

 矢、遠きこと能わず。 其の故を詰(なじ)るに

 「國中、戰闘を習わず」と。

 木吉に時装・錢を賜いて遣し還す。

 景德元年、其の國の僧寂照等八人来朝す。

 寂照は華言を暁(さと)らざるも文字を識り繕寫甚だ妙なり。

 凡そ問答には並びに筆札を以ってす。

 詔して圓通大師と(号)せしめ、紫方袍を賜う。

 天聖四年十二月、明州言う

 「日本國大宰府、人を遣わして方物を貢ず。

  しかも本國の表を持たず」と。

 詔して之を(却)(しりぞ)く。 

 其の後、亦た未だ朝貢を通ぜず。

 南賈時に其の物貨を傳えて中國に至る者有り。

 熈寧五年、僧誠尋有り。

 台州に至り天台の國清寺に止り、州に留まらんことを願い、以聞す。

 詔して闕に赴かしむ。

 誠尋、銀香爐・木子・白琉璃・五香・水精・紫檀・琥珀を

 飾る所の念珠、及び青色織物綾を(献)ず。

 神宗、其の遠人にして戒業あるを以って、

 之を開寶寺に(処)(お)らしめ、盡く同来の僧に紫方袍を賜う。

 是後、連(しき)りに方物を貢して来る者は皆僧也。

 元豊元年、通事僧仲をして来たらしむ。

 慕化懐德大師と(号)を賜う。

 明州又言う「其の國の大宰府の牒を得たり。

 使人孫忠還るに因りて仲等を遣わし、(し)二百匹、水銀五千兩を貢す。

 孫忠乃ち海商たるを以って貢禮諸國と異る。

 請う、自ら牒報を移して其の物直に答え、

 仲に付して東歸せしめんことを」と。

 これに従う。 

 乾道九年、始めて明州の綱首に附し、方物を以って入貢す。

 淳熈二年、倭船の火兒滕太明、鄭作を毆(う)ちて死せしむ。

 詔して太明を械にし、

 其の綱首に付して歸り治するに其の國の法を以ってせしむ。

 三年、風泊の日本の舟、明州に至る。

 衆、皆な食を得ず。

 行乞して臨安府に至る者、復た百人。

 詔して人ごとに日に錢五十文・米二升を給し、

 其の國の舟の至る日を俟(ま)ちて遣わし歸す。

 十年、日本の七十三人、復た飄(ただよ)いて秀州華縣に至る。

 常平義倉の錢米を給し以って之を振(にぎ)わす。

 紹熈四年、

 泰州及び秀州の華縣に復た倭人の風の爲に泊せられて至る者有り。

 詔して其の貨を取る勿(なから)しめ、

 常平米を出し振給して之を遣わす。

 慶元六年、平江府に至る。

 嘉泰二年、定海縣に至る。

 詔して並びに錢米を給し國に遣わし歸す。