2015年7月6日月曜日

『晋書倭人伝』

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 ≪晋書≫

 唐 房玄齢(578~648)撰述。

 西晋(265~316)~東晋(317~420)の104年間を記した正史。

 紀十卷、志二十卷、列伝七十卷、載記三十卷の全百三十卷。


 その倭人伝は魏志の要約を中心に、

 魏略、後漢書、隋・唐代に得られた知識、

 晋代の史料を整理して構成されています。

 一番重要なのは、

 「文帝が相となるに及び、また数至る。」という文で、

 司馬炎(晋の武帝)により晋が建国された

 泰始元年の朝貢に先立って、文帝と諡された司馬昭時代の、

 倭の遣使が明らかにされることです。

 泰始元年は、少なくとも、

 壱与の三度目の遣使ということになり、

 帯方郡使、張政の帰国は魏末期、

 司馬昭時代の最初の遣使と推定できるのです。

 このあたりの詳しい分析は

 「魏志倭人伝から見える日本、ファイル3」に書いてあります。

 【司馬懿(宣帝)-司馬師(景帝)-司馬昭(文帝)-

  司馬炎(武帝、晋建国)】

 魏略逸文として翰苑に記されている言葉、

 「自ら太伯の後という」も、

 晋書が魏略の引用かどうかわかりませんが、

 実際に記録されていたことが明らかになります。


 倭人在帯方東南大海中依山島為國地多山林無良田

 食海物舊有百餘小国相接至魏時有三十國通好

 「倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。

  土地は山林が多く、良田はない。

  海産物を食べている。

  昔は百余の小国がたがいに接していた。

  魏の時に至って、三十の国があり、親しく交流した。」

  戸有七萬男子無大小悉黥面文身

  自謂太伯之後又言上古使詣中國皆自稱大夫

 「戸数は七万あり、男子は大人、子供にかかわらず、

  みな、顔と体に入れ墨している。

  自ら太伯の後裔という。

  また、昔,使者が中国を訪れた時、

  みな、大夫を自称したともいう。」

  昔夏少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害

  今倭人好沈没取魚亦文身以厭水禽

 「昔、夏の少康の子は会稽に封じられると、髪を切り、

  入れ墨して蛟龍の害を避けたが、

  今、倭人は沈没して魚を取るのを好み、

  少康の子と同様、入れ墨して水鳥を追い払う。」

  計其道里當会稽東冶之東其男子衣以横幅但結束相連略無縫綴

  婦人衣如單被穿其中央以貫頭而皆被髪徒跣

 「その道のりを計算すると、まさに会稽、東冶の東にあたる。

  その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、

  ほとんど縫いつづることがない。

  婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、

  その中央に穴をあけ、頭を入れる。

  みな、おかっぱ頭で、裸足である。」

  其地温暖俗種禾稲紵麻而蠶桑織績

  土無牛馬有刀楯弓箭以鐵為鏃

 「その地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。

  土地に牛、馬はいない。

  刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。」

  有屋宇父母兄弟臥息異處

  食飲用租豆嫁娶不持錢帛以衣迎之

 「家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。

  食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。

  嫁取りの時、銭や布は持たず、

  衣服を用意してこれを迎える。」

  死有棺無槨封土為冢

  初喪哭泣不食肉已葬擧家入水澡浴自絜以除不祥

 「死に際し、棺はあるが槨はなく、土を盛って冢を作る。

  初め、喪中は哭泣して肉を食べない。

  葬儀が終わると、家中の者が水に入り、

  体を洗って清潔にして縁起の悪さを取り除く。」

  其擧大事輒灼骨以占吉凶

  不知正歳四節但計秋収之時以為年紀

  人多壽百年或八九十國多

  婦女不淫不妬無爭訟

  犯輕罪者没其家孥重者族滅

 「大きな決断をしなければならない時は、

  すぐさま骨を焼いて吉凶を占う。

  正月や四季の区別を知らず、

  ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。

  住民は長生きで、百歳とか八、九十歳の者が多い。

  婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。

  争いや訴えはない。

  軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、

  重罪者は一族を滅ぼす。」

  其家舊以男子為主漢末倭人亂功伐不定乃立女子為王

  名曰卑彌呼

  宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見其後貢聘不絶

  及文帝作相又數至泰始初遣使重譯入貢

 「その家は昔は男子を主としていた。

  漢末に倭人は乱れ戦いあって安定しなかったので、

  女子を立てて王にした。

  名は卑弥呼という。

  宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が

  公孫氏を平らげると、その女王は遣使して帯方に至り朝見した。

  その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。

  文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また、何度かやって来た。

  晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、通訳を重ねて貢を納めた。」

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