2014年3月31日月曜日

『魏書倭人章』筆者は誰か?詳細な考え方


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:13頁

 帯方を出た梯儁は卑弥呼に金印その他を「手渡す」ために来日して、

 伊都まで来て任務を果たして帰ったから、

 彼は伊都国で卑弥呼に会ったのである。

 次に来た張政もまた伊都国に駐在して、

 それより先には行かなかったが、

 この二人のどちらかが書いた見聞録には

 宮室・楼観・城柵が厳(おご)そかに

 建設されていると描写している。

 それなのに人口は僅か千余戸。

 これに引きかえ邪馬壹国は七万余戸。

 投馬国でも五万余戸だから、伊都国は寒村に過ぎない。

 ところが陳寿が『魏書』を書く参考にした

 魚豢(ギョカン)著の『魏略(ギりゃく)』には

 伊都国の人口は「戸万余」と明記してあるので、

 『魏書倭人章』の千余戸は、卑弥呼政権没落後、

 奴国が旧伊都国まで移動して来て、二万戸の国になったあと、

 その一部だけが伊都国として残った「歴史的一瞬」以後の、

 「邪馬壹国時代初期の伊都国」で、

 これは張政が書いた記録だとわかる。

 いくら古代の家屋は粗末で建築も簡単だといっても、

 ことに倭人は四、五人もの妻をもち、

 家族は一人一人別の部屋に寝るという大家族である。

 一万、二万の家屋が簡単に移動したり建られたりするものではない。

 その時、突然、生まれた奴国は、

 もとの伊都国でなければ、

 存在するはずのない大国なのだから、

 疑いなく、そこが梯儁が来た時の、

 卑弥呼の旧女王国の首都であり、

 「宮室・楼観・城柵」が厳設されていた現場だったのである。

 《『魏書倭人章』筆者は誰か?詳細な考え方
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2014年3月30日日曜日

距難が立証した群山の正しさと京城説の崩壊


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:12頁

 ではそれが正しいか間違いか、

 決定的な史料で判定してみよう。

 史料は『魏書倭人章』のコースと行程である。

 よくご記憶だから原文だけにしておこう。

 「郡至倭 循海岸 水行 歴韓国 

  乍南乍未 到其北岸 狗邪韓国 七千余里」。

 この中でも最も強力な決め手が距離である。

 到着点の狗邪韓国は巨済島だから、

 それから約7000×55mの地域に群山があれば、

 帯方郡治の位置として正解である。

 当時の船は海岸に沿って進み、

 毎日、夜には停泊して、

 翌日、また沖へ漕ぎ出す。

 それを計算しながら海岸線を糸で辿って行くと、

 ほぼ400Kmある。

 7000×55mは 385km。

 これに「余里」を足すと、

 ぴったり一致していることになる。

 在来はこの帯方郡治を今のソウル(京城)付近だとして

 疑わなかったが、そこまでだと、

 もう200km以上遠くなるから、

 少なく見積もっても「一万余里」以上になる。

 絶対にソウルでなかったことはいうまでもない。

 この講座ではたびたび「定点」の重要さについてお話ししてきたが、

 終わりに際して、さらに強調して梯儁・張政の出発点。

 それは『魏書倭人章』の出発点でもある位置を

 意義あるものにして戴きたかったのである。

 こうして帯方郡使の倭国への出発点が確定すると、

 私たちの倭人尺は、

 『魏書倭人章』の距離記事の信頼牲を、

 絶対のものにしたということになる。

 《距難が立証した群山の正しさと京城説の崩壊
 「距難が立証した群山の正しさと京城説の崩壊

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2014年3月29日土曜日

帯方郡使の出発点。帯方郡治の位置


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:11頁

 するとここで初めて、

 帯方郡使が出発した帯方郡の役所の所在地、

 いわゆる「帯方郡治(ち)」はどこにあったか、

 という謎が解け始める。

 それは半島南半を治め、

 同時に魏との往来にも便利な場所でなければならない。

 車馬が少なく、陸行の困難な時代だから、

 半島の中央部でもだめ、東でもだめ、南半の中心に近く、

 西の海に出られる港でなければならない。

 なぜ港だとわかるか、それは帯方郡使の出発点を、

 ただ「郡より倭に至る」と書くだけで、

 「郡からどこの港へいって、そこから船出して…」と

 断らないから、郡(郡治=郡役所の所在地)が出発点で、

 そこが港でもあったとわかるからである。

 ではそれはどこだったのだろう?。

 郡の都だったのだから、

 地名にもそれが残るはずである。

 上記の条件に完全に合う地域に「群山」がある。

 群の字が違うが、

 そこは海岸で山の群れなどありはしないから、

 当て字にきまっている。

 とすれば群は郡の名残(なごり)、

 山は権力の中心「本山(ほんざん)」とみると、

 かつての帯方郡治(ち)の遺跡になる。

 そこは大河。

 「錦江」の河口にあり、

 鹿児島湾の別名「錦江(きんこう)湾」

 との密接な繋(つな)がりを語っている。

 そこは後(のち)の半島百済喪失の舞台、

 架空の白村江とされた場所でもあり、

 その北の背後地に半島百済の首都で王陵のある扶余(フヨ)がある。

 南の背後地には大屯山国立公庫地域があって

 公孫康の屯有県帯方郡を思い起こさせる。

 これ以上の帯方郡治候補地はない。

 《帯方郡使の出発点。帯方郡治の位置
 「帯方郡使の出発点。帯方郡治の位置

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狗邪韓国の全てまでわかる完全な記述


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:10頁

 三韓が帯方郡に属しているのだから、

 単に「韓」だけならその地域名として理解できるが、

 「韓国」とわざわざ断っている。

 これはなぜか?。

 それは三韓に属さない「韓国」を経由するからなのである。

 そんなものがあるか?。

 それこそがお気付きのように狗邪韓国なのだ。

 このことから、

 過去に何の答えも出ていない

 「狗邪韓国」の所属も明かである。

 この国は三韓の国名には含まれていないから、

 明かに帯方郡にも入っていない。

 だから「倭の北岸」と書かれた。

 間違いなく倭国の領土だと認識して、

 はっきり「倭国の北の端の国」と明記したのである。

 だからそこは半島本土ではない。

 離れた島なのである。

 それが地名の訛りからみて、

 過去に風島(カゼシマ)などと呼ばれた巨済島であることは、

 狗邪は「古謝」という沖縄の地名と姓の発音「クジャ」そのものであり、

 巨済も今「コチェ」と発音されて古謝の韓音「コチェ」と一致し、

 種子島音でコザ(古座)。

 コをカと発音する大隅訛りだと狗邪も巨済もカゼになる事実から、

 今は巨済大橋で半島本土と陸続き状態になったが、

 3世紀には完全に本土から隔離して、

 独立国だった大島(だいとう)、

 巨済島であることは先ず間違いない。

 この例は『魏書倭人章』がどんなに細部まで、

 気をくばって書かれているかを物語る。

 島国1つもおろそかにせず所属を明確にしている。

 どこから見ても三韓は帯方の中にあったのである。

 《狗邪韓国の全てまでわかる完全な記述
 「狗邪韓国の全てまでわかる完全な記述

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筆者は船旅をし、歩いて、眼と耳で確かめて書いた


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:9頁

 この間(かん)、高句麗が魏に敗れて北の境界には変動があったが、

 半島が二分されて南半分が帯方郡だったことは動かない。

 仮にこの判定が間違っていて、

 三韓が帯方郡より南に独立していたのなら、どうなるか?。

 そのときは『魏書倭人章』の書き出しが

 「倭人在 三韓 東南大海之中」と変わる。

 しかし現実にはそうではなく

 「倭人在 帯方 東南大海之中」と明記してある。

 これを書いたのは単なる編集者に過ぎない陳寿ではない。

 彼は記録を寄せ集めただけで、

 その記録を書いたのは実際に倭国まで旅した梯儁と張政である。

 この二人は倭人の住む国がどこにあるかをはっきり聞き、

 そこへ往復する船旅を体験し、

 事実であることを眼で見、足で歩いて確かめたのだから、

 その記録が正確なことは疑う余地がない。

 彼らは二人とも、そのとき、帯方郡に勤務していた現役の役人である。

 帯方郡の範囲も、

 そこに含まれている地域の現状も歴史も知り尽くしていたのだから、

 三韓と帯方郡を間違えることはありえない。

 そして書いたのが「倭人在 帯方 東南」なのである。

 それは明確に三韓が帯方郡に包含されていた事実を、記録しているのである。

 もしそれが違っていたら、

 それは直ちに別の役人に指摘され、その場で訂正される。

 間違ったままで記録に残されることは絶対にない。

 だがその行程記事中に「韓国を経て」がある。

 これはどうなるか?。

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初めて独立国の王として扱われた卑弥呼


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:8頁

 ところがそれをせずに太守を殺したのは、

 魏による支配が確立していたからで、

 どこから見ても三韓は、間違いなく魏の領土として、

 帯方郡の中に組みこまれていたのである。

 そのことは三韓の長が魏から

 「邑君(ゆうくん)・邑長(ゆうちょう)」などの

 印綬(いんじゅ)という粗末な町村長級の称号しか

 受けなかったことでも証明されている。

 三韓は今は完全に魏の臣下だということなのだ。

 だから当時の絶対君主制のもとでは、

 三韓王の支配権力は公務員としてのものでしかなく、

 自治権はない。
 
 それらは全て魏の皇帝のそのまた

 家臣の各郡の太守から貸し与えられたものなのだ。

 これもまた、三韓が完全に帯方郡の中に入っていた証拠である。

 これに比べて卑弥呼は親魏倭王の金印と紫綬(しじゅ)という

 贈位(ぞうい)の品(しな)によって、

 魏と対等の独立国の王としての地位と称号で遇されたのだから、

 それまでの、

 公孫氏に支配されていたころの状態を考えると、

 倭人連邦が完全な独立国として世界に承認され、

 それが記録されたのは、

 この卑弥呼の『親魏倭王』が最初だということになる。

 それ以前にも、

 『後漢書』が記録した、

 後漢の光武帝から『漢の委奴国王』の金印を受けた委奴国王や、

 その後の倭王帥升がいるが、

 それらは漢の属国の王としか認めていないのだという点を、

 はっきり認識して、

 卑弥呼のそれと同じだなどと間違えてはならない。

 《初めて独立国の王として扱われた卑弥呼
 「初めて独立国の王として扱われた卑弥呼

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自治権まで奪われた辰韓王の大反乱


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:7頁

 卑弥呼が魏に初めて遣使した前後のようすを見ておこう。

 『魏書・韓章』はこう書く。

 「景初中 明帝は 密(ひそか)に 

  帯方太守の劉昕(リウキ)と 

  楽浪太守の鮮于嗣(センウシ)を

  派遣して 海を越えて二郡を 定めた」

 「部従事(役職名)の 呉林(ゴリン)は 

  もと楽浪が 韓国を 統べていたので

  (自分に権限があると思って) 

  辰韓の八国を 分割して 楽浪に 与えた 史の訳は

  転じて 異同が有り 臣濆沽(シホコ)韓は 忿って 

  帯方郡の 崎(キ)離宮 攻めた

  (帯方)太守の弓遵(ジュン)と 楽浪太守の劉茂(リウモ)は

  兵を 起こして これを伐ったが

  遵は 戦死した(しかし)二郡は 遂に 韓を 滅ぼした」

 おわかりのように、支配権は帯方郡にあったのだ。

 だが通訳の説明がまずくてそのやり方に腹を立てた

 辰韓のシホコ王が激怒して武力に訴えた。

 2郡の太守はこれを迎え討ったが、

 結局、帯方郡太守が殺されたので、

 三韓は自治権も剥奪(はくだつ)されて完全に魏の領土になってしまった。

 これで、どんな経緯で三韓が帯方郡に編入され、

 ついにはどんな地位に陥ちたかが、

 よくおわかり戴けたと思う。

 仮に支配潅がないのに

 呉林(ゴリン)が勝手にそんなことをしたのなら、

 それは魏の皇帝にたいする越権であり、
 
 2郡の反撃は韓に対する「侵略」だから、

 魏政府に訴えれば是正し抑止されるので、

 シホコは武力に訴える必要などなかったのである。

 《自治権まで奪われた辰韓王の大反乱
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歴史は一瞬の間に変わる


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:6頁

 ご覧の通り「歴史は一瞬にして変わる」。

 半島は突然上陸してきた執実によって、

 大半が魏の2郡に変わったし、

 公孫氏の『燕』もそっくり魏領に変わったし、

 独立国・高句麗もまた丸都城陥落の瞬間に、

 一瞬にして「楽浪郡の一部」に変わってしまったのである。

 三韓が半島南部に生まれたのも、

 それが『魏書・韓章』の記事のように独立国群のように見えたのも、

 それが帯方郡の一部になったのも、全て事実であり、

 限られた時間だけの史実であって、

 また間もなく、次の一瞬には、もう変化してしまっていた。

 『魏書・東夷巻』は、

 とくにそれが甚だしい三国志時代の記録なのである。

 それを考えることができずにか、または忘れてか、

 三韓は独立国として帯方郡とは別に、

 郡のそとにあったと思い込んでいる者は、

 「一瞬に変わる」歴史の本質さえ理解できない、

 歴史を議論する素質に欠けた人間だということを、

 自分で公表しているだけである。

 それを陳寿のせいにするのも間違っている。

 彼は必要な情報を全部書いているだけである。

 それを正しく読むのは読者の責任だし、

 またこうして正しく読めるのである。

 そうして今、

 ここでいちばん大切なことは、

 従来、

 「それは邪馬臺国だ」と主張する者のあった

 「邪馬壹国」が出現したのはいつか、

 という「一瞬」の時期なのである。

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 「歴史は一瞬の間に変わる

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2014年3月23日日曜日

位宮が高句麗・山上王時代の朝鮮半島


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:5頁

 三韓は『魏書・韓章』が書くように、

 確かに3つの「国」だった。
 
 それを中国の魏が帯方郡の一部にしてしまった。

 それは公孫氏を倒すために、大軍が密(ひそ)かに海を渡って、

 高句麗を除く朝鮮半島を占領して、

 楽浪と帯方という自国の2郡にしたからだった。

 そして高句麗王・位宮を味方に引き入れ、

 公孫氏を東西から挟み撃ちにして滅ぼしてしまった。

 だがそうして公孫氏が片付くと、

 魏は今度は毌(カン)丘儉に高句麗侵略を命じた。

 位宮が味方をしてくれたことなど、

 感謝も考慮もしていない。

 位宮が旧公孫領を荒らして略奪したからだという記事が

 『魏書・高句麗章』にあるが、

 それは魏の口実に過ぎない。

 戦乱の後は当然、

 占領軍兵士や敗残兵による略奪、殺人などが多発する。

 それに対する復讐やテロが起こる。

 それを全て魏に対する位宮の反乱だと、

 魏が一方的に「判定」しただけである。

 このことは、史書が書くからといって、

 そのまま鵜呑(うの)みにしてはいけないことを教えている。

 「判決」は私たち研究者が、

 充分な証拠を揃えて、

 冷静に下さなければいけないのである。

 魏の最大の強敵だった蜀が、

 諸葛(しょかつ)孔明が死んで滅び、

 蜀に派遣していた戦力を転用した魏軍の車馬は、

 苦労しながらも高句麗の山岳地帯を突破した。

 位宮は死力を尽くして防戦したが、

 彼が最後の頼みにした遷都先・丸都(がんと)城を陥落させて、

 魏は高句麗も楽浪郡に加えた。

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 「位宮が高句麗・山上王時代の朝鮮半島

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2014年3月22日土曜日

吉野ガ里は「燕(エヌ)」の役所か難民居住遺跡


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:4頁

 その公孫氏の『燕』もこのあとに書くように

 景初2年(238)、魏に奇襲されて滅んでしまった。

 燕は「エン」、中国訛りでは「エヌ」。

 これに日本で当て字すると「吉野(エヌ)」。

 いま邪馬台国の遺跡だと称している佐賀県吉野ガ里(り)は、

 その町村表示が「里(り)」という中国~半島様式で、

 邪馬壹国や旁国の「国」でないことはもちろん、

 ラマヤナの倭国様式でもないから、

 間違いなく「燕」に関連のある漢人または半島人による遺跡で、

 公孫氏時代の役所所在地の跡か、

 あるいは燕の難民居住地遺跡かのどちらかである。

 そこから出土した家屋遺構も小さな村落ていどのもので、

 大屋が数万戸もあった女王国の首都の痕跡ではない。

 そこは『魏書倭人章』の地理条件にも全く合わないし、

 また旁との位置関係も全然一致するものがない。

 ただ1つ確実な遺物はその地名だが、

 それが「燕」を指し、

 中国~半島様式の「里(り)」という村落名を今だに名乗っているのは、

 そこが特殊な歴史をもつ外人村落だったから、

 千数百年、手付かずで「吉野」と「里」が残されたのだと考えるしかない。

 邪馬台はもちろん妄想でデッチ上げた化け物にすぎないが、

 大和説にはそれがヤマトと読めると錯覚したという論理的な根拠がある。

 ところがこの吉野ガ里に至っては、そうした知的根拠は全くない。

 それを邪馬台国だという人物の知能指数がよく読み取れる。

 《吉野ガ里は「燕(エヌ)」の役所か難民居住遺跡
 「吉野ガ里は「燕(エヌ)」の役所か難民居住遺跡

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2014年3月21日金曜日

公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:3頁

 三韓が倭国の拡大発展から生まれた地方自治体だったことは、

 ほぼご納得戴けたと思うが、それがどんな風に進行したか、

 そして魏の楽浪・帯方2郡ができるとどうなったか、

 という記録が『魏書・韓章』には、よくわかるように記録されている。

 短く要点だけお話ししよう。

 「桓霊(後漢の2帝)の末(170~180年代)、

  韓・濊(ワイ)は強盛。

  郡県は制御できず、多くの民が韓に流入した。

  建安(~220年)中、

  公孫康は屯有(トンユウ)県以由の荒地を分けて帯方郡にして、

  公孫摸と張敞(ショウ)を派遣、

  遺民を集めて兵を興し韓・濊(ワイ)を伐(う)つ、

  ……倭・韓はついに帯方に属す」。       

 214年に靺鞨(マカラ)が南鮮を荒らしたという記事はこのことである。

 そして公孫たちはまだ後漢の臣下で帯方郡も後湊の領土である。

 その時代には倭国も三韓も、

 その帯方郡の支配下にあったと、ここに明記してあるのである。

 後漢の衰えとともに倭人は半島へ勢力を拡げて行った。

 しかし公孫軍の反撃に敗れて九州までが

 「帯方郡」の中に入れられてしまった。

 それが後漢滅亡後、公孫氏の私物化していた。

 卑弥呼時代の倭人連邦は公孫氏の勢力下にあったのだ。

 『魏書倭人章』では三国時代の歴史以外は省略されて

 「倭国乱れ、相攻伐 歴年」としか書いてないが、

 『後漢書』はそれを「桓霊の間 倭国大乱」と明記している。

 卑弥呼が女王に共立された当時は、

 公孫氏の帯方、

 のちの『燕(エン)』国の支配下にあったのである。

 《公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓
 「公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓

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2014年3月20日木曜日

興味尽きない「言語復原史学」の神髄とは


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:32頁

 以上の例でよくおわかり戴いたと思うが、

 『魏書倭人章』の検討は

 『魏書倭人章』の文章だけを訳して済むようなものではない。

 例えば壹與とはどんな人物なのか、

 彼女が始祖王とされている新羅とはどんな国だったかは、

 こうしてシンハラの歴史や、

 8世紀の新羅景徳王の感情や行動まで知り尽くしていて、

 初めて全貌を知ることができるのである。

 よく「言語復原史学とは?」と尋ねられるが、

 それには、こうした実例まで挙げてお話ししなければ、

 本当におわかり戴けるものではない。

 だからこそ本講をご勉強載いたのである。

 しかしその原則は難しいものではない。

 少しでも関連が見つかれば、それをどこまでも、どこまでも追及していく、

 そして景徳王の人間としての内部まで観察すれば、何があったか、

 史実が浮かび上がって、新羅とはどんなものだったかが正しく見えてくるのである。

 「言語復原史学とは?」と質問をお受けになる機会が多くなると思うので、

 その時には、この景徳王の例をお話し戴くといいと思って、

 本講の締(し)め括(くく)りに活用してみた。

 これと同じものは卑弥呼や位宮たちをめぐっても、まだ大量にある。

 今度は貴方が次々に発掘し、それらを明かにしていって戴きたい。

 それは将棋や推理小説やサスペンス映画のような、

 簿っペらな知的遊戯には比べられない。

 高い知性をもつものにとって、永遠に興味が尽きることのない、

 人類だけがなし得る、価値ある最高の仕事の1つだと信じている。

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2014年3月19日水曜日

古代インドから来ている秦韓(シンハラ)・慕韓(ボハラ)の名


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:31頁

 マカーラ、マトゥラ、マツウラ、マドラス、マドロスは、

 同じ語源と同じ意味をもつ同じ言葉なのである。

 それを日本語とパーリ語の共通語が教え、立証しているのだ。

 インド圏のネパールにはボカラという都市があり、

 これも慕韓の発音の一つに合う。

 また韓の字は中国・韓国ではハンと発音する。

 カンより弱く発音するとk音がh音になるからである。

 だからカラならハラになる。

 幕韓はボハラかブハラと発音した可能性がある。

 なぜなら韓(カラ)は姶良(カラ)で我が国ではカラ。

 そこは高天原が移動した政権所在地だから、

 原はハラかゲンと読まれていたはずだからである。

 韓もその発音への当て字の一つなのだ。

 仏跡のあるガンダーラ(アフガニスタン)の北隣、

 ウズベク共和国にブハラ州がある。

 そのスペルはBukharaプカラともフクハラとも読める。

 5世紀五胡十六国の一つだから倭人とも深い繋(つな)がりがある。

 全く無関係とはいいきれない大きな地名である。

 辰韓もシンハラと読むとインドのスリランカの古名である。

 アソカ王が派遣した仏教宣布団が最初に成果を収めた大国だ。

 だから半島側に拡大した厳格な戒律仏教・シーラ・バッガの国・新羅、

 その前身が辰韓と当て字されているのは

 「シンハラ」への当て字だった可能性が非常に大きい。

 その場合は五王の秦韓もやはりシンハラと読まねばならない。

 《古代インドから来ている秦韓(シンハラ)・慕韓(ボハラ)の名
 「古代インドから来ている秦韓(シンハラ)・慕韓(ボハラ)の名

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2014年3月18日火曜日

文法しか知らない在来の言語学


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:30頁

 だが、インドにも「マツウラ=マトゥラ」という地名があって、

 今はマドラスと発音されているので、

 英語の「船乗り=マドロス」が、

 この地名から出ていることがわかる。

 これも枕崎と同じく、やはり海人を意味しているからである。

 インド語と英語はいうまでもなく印欧語で、もとは同じ言葉だ。

 マカラを松浦と馬韓の語源とみるよりも、

 このインドのマツウラのほうが、よっぽど語源らしく見える。

 これはどちらが正しいのであろうか?。

 この答はパーリ語にある。

 私(加治木義博)の研究では現在の時点で

 3000語を超える日本語との共通語があり、

 これはまだ日増しに増えつつある。

 だから日本語も印欧語に入るとする方が正しい。

 なぜなら過去の「文法」一辺倒の言語分類では、

 パーリ語にそんなに大量の共通語が

 あることさえ知らなかったという事実があるからだ。

 文法はその土地に住んでいた古代人の語順が、

 居住者が変わっても言葉だけは受け継がれるから、

 いつまでも土着する。

 だから文法が全てではない。

 それに後から加わった単語があって初めて言語は進化して行く。

 その結果、今の日本語が完成したのだから、

 最初の言語の占める量はごく少いし、

 現実の日本語と全然ちがうからである。

 言語の全貌がわからない過去の分類は時代遅れだ。

 物理を応用した情報産業、生物や化学を応用した医学・薬学が進化している。

 古い言語学だけが正しいはずはない。

 《文法しか知らない在来の言語学
 「文法しか知らない在来の言語学

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2014年3月17日月曜日

靺鞨(マッカツ)人の正体は松浦人、海人の国・末盧国と馬韓国


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:29頁

 では「慕韓」は馬韓なのだろうか?。

 馬韓は、鹿児島半島南端の枕崎(マッラザキ)市のマッラから、

 九州北部の佐賀・長崎両県にまたがる松浦郡のマツラに移動拡大して、

 さらに朝鮮半島まで広がったものだった。

 これもマクラのマに馬の当て字をしたものだから、

 カラはクラと同じもの、

 その発音からみて、カンでなくカラだったのである。

 枕という当て字に意味がないとすると、

 そのもとの発音は「マカラ」で、

 これは海に棲む巨大な聖魚だとするインドの海の神である。

 枕崎は海港都市だから昔は海人の町で、

 その名がマカラだった可能性は非常に高い。

 するとそのはるか南にある臥蛇(ガジャ)島の名に結びっく。

 ガジャはインド語で象のことだが、

 マカラはガジャ・ミナ(水象・海象)とも呼ばれるからだ。

 この島が象と鯨の頭部によく似ていることも本講でお話ししたが、

 インドの宗教画には長い鼻をかかげた象の頭をもった魚が、

 海を泳いでいる絵が多数みられる。

 それがマカラである。

 『三国史記』には「靺鞨(マッカツ)」という敵が記録されている。

 この字がマカラなのだから、

 半島側からみた海からの敵、

 それは『魏書倭人章』が末盧(まつろ)国の風俗として描く、

 あの「水が深くても気にせず、昔、沈み潜って魚蝮をとる」

 人たち=松浦海人以外には考えられない。

 この松浦が半島と分離したのも大化改新以後なのだから、

 『三国史記』の読み方がわかる。

 《靺鞨(マッカツ)人の正体は松浦人、海人の国・末盧国と馬韓国
 「靺鞨(マッカツ)人の正体は松浦人、海人の国・末盧国と馬韓国

 『参考』
 前人未到の道を行く - 邪馬台国・奇跡の解法 - Gooブログ

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2014年3月16日日曜日

畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:28頁

 『史記』や『後漢書』にも

 「秦の始皇が除福と童男女数千人を蓬莱(ホーライ)に派遣して

  神仙を捜させたがダメで、

  徐福は誅(ちゅう)を恐れて此の洲に止(とど)まった」

 とあるのが同じである。

 秦韓とは辰韓の別名だったのである。

 倭の五王はそれを辰韓の代わりに使っていた。

 この韓はカンと発音していたのか?確かめておく必要がある。

 なぜなら姶良郡はカラグニ、
 
 霧島の最高峰もカラクニ見岳で、

 カン郡でもカンコク見岳でもなかった。

 それと同じものが突然カンになることはないから、

 辰韓はシンカンではなくシン韓(カラ)かタツ韓(カラ)だったのである。

 すると神功皇后が目標の国を宝の国(タカラの国)と呼び、

 それを占領して君臨した国がそれだったのだから、

 これは

 トカラ列島の宝島→種子島の辰韓(タツカラ)→開聞岳のある

 シラキッ新羅と姶良郡のカラグニ→

 福岡の白日の国=新羅(新=辰・羅=国=韓)→半島の辰韓、

 という拡大移動に伴って分布した地名の全てが、

 このタッカラ=宝の国という名をもっているのだ。

 壹與=神功皇后が君臨した宝の国=邪馬壹国は、

 このようにどこからみても畿内にはない。

 これも邪馬台国畿内説がでたらめだという重要な証拠である。

 もちろんそのことは他の山積する反証群によって、

 もう充分立証され尽くしてはいるが、

 学説というものは裁判ではない。

 研究結果の全ての真実を徹底的に表明して、

 「万全を期する」のが務めなのである。

 《畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」
 「畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」

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2014年3月15日土曜日

任那(みまな)の実在と、秦韓=辰韓という証明


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:27頁

 また新羅独立以前の半島が、

 政治的には列島の一部分であったことが確認できたことは、

 さらに私たちの古代常識を正しく拡大する。

 それは何よりもまず倭の五王の名乗りの真相を、

 在来の曖昧(あいまい)なものから飛躍的に正しいものにしてくれる。

 「七国諸軍事」というのは、

 実際は一国の軍事権を撮っているということで当然のことであり、

 従来は、

 これを誇張だと説明する者がいたが、

 それは真相を知らない者のでたらめな想像にすぎないと、

 はっきり判定することができる。

 また七国中の任那(みまな)は、

 在来は架空説をとなえる者まであるほど、

 影の薄い存在だったが、事実がわかってみると、

 地方自治体の百済・新羅を統括する

 倭国政府の出先機関があるのは当然のことで、

 『日本書紀』は少しもウソは書いていない。

 これは「任那日本府」という名も新羅の立場からありうることで、

 これを疑う者は自分で無知を告白していることになる。

 では残る秦韓と辰韓とは何だったのだろう?。

 答えは.『魏書・韓章』の「辰韓」の部分にある。

 「耆老(きろう)は、昔、秦の苦役を逃れて韓の地にやってきた我々を、

  馬韓は東部に住まわせてくれたのだと、その言い伝えを語った。

  だからその言葉は馬韓語ではなく、国を邦、人を徒、賊を冠(こう)などという。

  これは秦の言葉に似るから彼らを秦韓と呼ぶ者があるのだ」

 《任那(みまな)の実在と、秦韓=辰韓という証明
 「任那(みまな)の実在と、秦韓=辰韓という証明

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2014年3月14日金曜日

説明不能の国名の合併縮小が畿内説の致命傷


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:26頁

 これで倭国は、卑弥呼時代はもちろん、

 5世紀末になって初めて奈良に本拠をもつまでは、

 近戦圏とは全く無関係だったことが確認できた。
 
 では日本国はどうか?。

 日本国は『旧唐書』の7世紀末の記事に初めて「もと小国」として、

 倭国と別の国だと明記されている。

 それも該当する小国時代の地理条件が、

 全国でも鹿児島県以外にない地形をもつ国として記載され、

 また『新唐書・日本』には、

 その

 「東海の嶼(しま)には

  邪古(屋久島)、

  波邪(隼人)、

  多尼(谷山)の3小王がいる」と

 書き加えてあるので、

 小国時代の日本は7世紀まで鹿児島県にあり、

 隼人より西に首府があって、

 倭国以上に奈良とは無関係だったとわかる。

 人々の移動は、

 地名とその大きさの変化で、

 どちらからどちらへ移動したのかがわかる。

 建国期の移動は拡大移動が原則だ。

 仮に3世紀に近戦が中央だったのなら、

 例えば丹波・丹後・但馬などは以後、

 西に移って一層大きくなり分裂して行く。

 それがなぜ次第に合併して、

 逆に小さくなり、種子島にまで極小してしまうのか、

 説明のつかない現象が幾っも重なって

 大量の旁国で起こったことになってしまう。

 小さいものが、あちらこちらへ分裂しながら、

 次第に移動して行って、

 幾つかの大国になったのは誰にでも理解できるが、

 その逆はどんなにしても理解できない。

 これが邪馬台国大和説や畿内説の最大の欠点なのである。

 《説明不能の国名の合併縮小が畿内説の致命傷
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