2014年3月12日水曜日

弥生に大和朝廷があれば半島も関西地名のはず


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:24頁

 邪馬台国畿内説がいう、

 奈良や近畿に卑弥呼政権があったという説は、

 神武天皇の建国が奈良だということである。

 仮にそれを正しいと仮定して考えてみよう。

 神武天皇は大軍で東征してはいないから、

 その後進行した卑弥呼時代直前までの半島進出は、

 近畿人が追い出されて移住した可能性も高く、

 小人数で折角取った土地に愛着のある

 南九州から同行した人々ではない。

 だとすれば紀元前後の弥生中後期には、

 近畿人が半島まで支配していたことになる。

 この仮定の場合、

 その移住先の地名は近畿の地名と共通でなければならない。

 ところが今ご覧の通り、

 半島の共通地名は全て九州地名である。

 これは卑弥呼時代直前までの半島進出は

 九州人が行なった証拠で、

 それは同時に神武東征が

 卑弥呼時代以後だったことも証言しているのである。

 どちらからみても卑弥呼以前から奈良に大和朝廷があり、

 それを継いで卑弥呼が奈良や近畿地方にいたという仮説は、

 この半島共通地名の問題によっても完全に否定されてしまう。

 逆に卑弥呼政権が九州にあった可能性は、はるかに高まる。

 例えば上記、馬韓の地名は、

 天城(鹿児島県徳之島)・甘木(楯岡県)、八重山・嘉手納(沖縄県)と、

 3世紀の近畿人が使うどころか、

 まるで知らなかったはずの特殊な地名が混じり、

 椿(飯塚市)、津奈木(熊本県)などという

 固有地名まで入っているからである。

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