2014年3月23日日曜日

位宮が高句麗・山上王時代の朝鮮半島


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:5頁

 三韓は『魏書・韓章』が書くように、

 確かに3つの「国」だった。
 
 それを中国の魏が帯方郡の一部にしてしまった。

 それは公孫氏を倒すために、大軍が密(ひそ)かに海を渡って、

 高句麗を除く朝鮮半島を占領して、

 楽浪と帯方という自国の2郡にしたからだった。

 そして高句麗王・位宮を味方に引き入れ、

 公孫氏を東西から挟み撃ちにして滅ぼしてしまった。

 だがそうして公孫氏が片付くと、

 魏は今度は毌(カン)丘儉に高句麗侵略を命じた。

 位宮が味方をしてくれたことなど、

 感謝も考慮もしていない。

 位宮が旧公孫領を荒らして略奪したからだという記事が

 『魏書・高句麗章』にあるが、

 それは魏の口実に過ぎない。

 戦乱の後は当然、

 占領軍兵士や敗残兵による略奪、殺人などが多発する。

 それに対する復讐やテロが起こる。

 それを全て魏に対する位宮の反乱だと、

 魏が一方的に「判定」しただけである。

 このことは、史書が書くからといって、

 そのまま鵜呑(うの)みにしてはいけないことを教えている。

 「判決」は私たち研究者が、

 充分な証拠を揃えて、

 冷静に下さなければいけないのである。

 魏の最大の強敵だった蜀が、

 諸葛(しょかつ)孔明が死んで滅び、

 蜀に派遣していた戦力を転用した魏軍の車馬は、

 苦労しながらも高句麗の山岳地帯を突破した。

 位宮は死力を尽くして防戦したが、

 彼が最後の頼みにした遷都先・丸都(がんと)城を陥落させて、

 魏は高句麗も楽浪郡に加えた。

 《位宮が高句麗・山上王時代の朝鮮半島
 「位宮が高句麗・山上王時代の朝鮮半島

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