2014年3月22日土曜日

吉野ガ里は「燕(エヌ)」の役所か難民居住遺跡


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:4頁

 その公孫氏の『燕』もこのあとに書くように

 景初2年(238)、魏に奇襲されて滅んでしまった。

 燕は「エン」、中国訛りでは「エヌ」。

 これに日本で当て字すると「吉野(エヌ)」。

 いま邪馬台国の遺跡だと称している佐賀県吉野ガ里(り)は、

 その町村表示が「里(り)」という中国~半島様式で、

 邪馬壹国や旁国の「国」でないことはもちろん、

 ラマヤナの倭国様式でもないから、

 間違いなく「燕」に関連のある漢人または半島人による遺跡で、

 公孫氏時代の役所所在地の跡か、

 あるいは燕の難民居住地遺跡かのどちらかである。

 そこから出土した家屋遺構も小さな村落ていどのもので、

 大屋が数万戸もあった女王国の首都の痕跡ではない。

 そこは『魏書倭人章』の地理条件にも全く合わないし、

 また旁との位置関係も全然一致するものがない。

 ただ1つ確実な遺物はその地名だが、

 それが「燕」を指し、

 中国~半島様式の「里(り)」という村落名を今だに名乗っているのは、

 そこが特殊な歴史をもつ外人村落だったから、

 千数百年、手付かずで「吉野」と「里」が残されたのだと考えるしかない。

 邪馬台はもちろん妄想でデッチ上げた化け物にすぎないが、

 大和説にはそれがヤマトと読めると錯覚したという論理的な根拠がある。

 ところがこの吉野ガ里に至っては、そうした知的根拠は全くない。

 それを邪馬台国だという人物の知能指数がよく読み取れる。

 《吉野ガ里は「燕(エヌ)」の役所か難民居住遺跡
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