2014年3月31日月曜日

『魏書倭人章』筆者は誰か?詳細な考え方


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:13頁

 帯方を出た梯儁は卑弥呼に金印その他を「手渡す」ために来日して、

 伊都まで来て任務を果たして帰ったから、

 彼は伊都国で卑弥呼に会ったのである。

 次に来た張政もまた伊都国に駐在して、

 それより先には行かなかったが、

 この二人のどちらかが書いた見聞録には

 宮室・楼観・城柵が厳(おご)そかに

 建設されていると描写している。

 それなのに人口は僅か千余戸。

 これに引きかえ邪馬壹国は七万余戸。

 投馬国でも五万余戸だから、伊都国は寒村に過ぎない。

 ところが陳寿が『魏書』を書く参考にした

 魚豢(ギョカン)著の『魏略(ギりゃく)』には

 伊都国の人口は「戸万余」と明記してあるので、

 『魏書倭人章』の千余戸は、卑弥呼政権没落後、

 奴国が旧伊都国まで移動して来て、二万戸の国になったあと、

 その一部だけが伊都国として残った「歴史的一瞬」以後の、

 「邪馬壹国時代初期の伊都国」で、

 これは張政が書いた記録だとわかる。

 いくら古代の家屋は粗末で建築も簡単だといっても、

 ことに倭人は四、五人もの妻をもち、

 家族は一人一人別の部屋に寝るという大家族である。

 一万、二万の家屋が簡単に移動したり建られたりするものではない。

 その時、突然、生まれた奴国は、

 もとの伊都国でなければ、

 存在するはずのない大国なのだから、

 疑いなく、そこが梯儁が来た時の、

 卑弥呼の旧女王国の首都であり、

 「宮室・楼観・城柵」が厳設されていた現場だったのである。

 《『魏書倭人章』筆者は誰か?詳細な考え方
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