2014年3月29日土曜日

筆者は船旅をし、歩いて、眼と耳で確かめて書いた


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:9頁

 この間(かん)、高句麗が魏に敗れて北の境界には変動があったが、

 半島が二分されて南半分が帯方郡だったことは動かない。

 仮にこの判定が間違っていて、

 三韓が帯方郡より南に独立していたのなら、どうなるか?。

 そのときは『魏書倭人章』の書き出しが

 「倭人在 三韓 東南大海之中」と変わる。

 しかし現実にはそうではなく

 「倭人在 帯方 東南大海之中」と明記してある。

 これを書いたのは単なる編集者に過ぎない陳寿ではない。

 彼は記録を寄せ集めただけで、

 その記録を書いたのは実際に倭国まで旅した梯儁と張政である。

 この二人は倭人の住む国がどこにあるかをはっきり聞き、

 そこへ往復する船旅を体験し、

 事実であることを眼で見、足で歩いて確かめたのだから、

 その記録が正確なことは疑う余地がない。

 彼らは二人とも、そのとき、帯方郡に勤務していた現役の役人である。

 帯方郡の範囲も、

 そこに含まれている地域の現状も歴史も知り尽くしていたのだから、

 三韓と帯方郡を間違えることはありえない。

 そして書いたのが「倭人在 帯方 東南」なのである。

 それは明確に三韓が帯方郡に包含されていた事実を、記録しているのである。

 もしそれが違っていたら、

 それは直ちに別の役人に指摘され、その場で訂正される。

 間違ったままで記録に残されることは絶対にない。

 だがその行程記事中に「韓国を経て」がある。

 これはどうなるか?。

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