2013年8月31日土曜日

ローマ勢力が到来した動かない証拠


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:12頁

 しかしまだ、

 そんな見方は極端で、想像にすぎないと非難する人もあると思う。

 特に人種差別の激しい外国人は、

 日本人に対する嫌悪感から反対する者が多いと予測できる。

 ローマは、アレクサンドロスの後継者が君臨した国々を次々に傘下に収めていった。

 ローマ勢力が日本列島まで確実にやってきて、

 それまでのギリシャ勢力にとってかわったという証拠がある。

 それが今お話しした

 『百合若説教』と『百合若大臣物語』なのである。

 どうしてそれがローマ人が移住してきた証拠か?。

 それは「ユリ若」という発音が、

 ギリシャ語とギリシャ文化ではなく、

 ラテン語とローマ文化だからである。

 それがギリシャから来たギリシャ文化なら絶対に

 「百合若」という名詞は生まれなかったからだ。

 ギリシャ語なら発音は

 「オデュッセウス」だから「御大世照主」。

 「宇治津少将」などと当て字する。

 百合若はどんなに斜めにしてみても、

 「ユリシーズ」か

 「ユリッセス」を百合=ユリ、

  若=清音シャクで「ユリシャ大臣」と読ませたものである。

 仮にこれがないとすれば、

 ギリシャ伝説とは全く無関係なものが、

 名前も、筋書きも、細部のエピソードまでそっくり似たものが、

 広大なアジアを挟んで、

 その両端に、同時代に、偶然にも発生したとしいう、

 どうにも理解に苦しむ『奇跡』になってしまうから、

 その謎は絶対に解けることはない。

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2013年8月30日金曜日

世界帝国思想による被害と天武の神話捏造の真意


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:11頁

 本国の統治者名を支配地名としてつけることは、

 世界ポリスを夢見たアレクサンドロスの前例がある。

 アフリカからアジア各地にみる複数のアレクサンドリアである。

 そのギリシャ政権を受け継いだローマ帝国が真似ても不思議はない。

 植民地支配の波が日本列島まで波及した可能性が浮かび上がってくるし、

 似たことは4~5世紀の半島の国名にもみられる。

 また垂仁天皇の名乗りの一部「伊久米・活目=位宮」が

 高句麗語で琉球を指している事実を考えると、

 彼の卑弥呼に対する政権委譲要求には、

 さらに新たな根拠が加わることになる。

 クレオパトラが死んだ翌年のB.C.E.31年、

 ギリシャは没落してローマ領の一州アカイヤにすぎなくなった。

 その変革の波が卑弥呼時代になって倭にも伝わってきて、

 位宮はそのルキウス政権による

 「倭国の正当な新支配者」としてルキウスを名乗り、

 権利を主張して、

 それまでギリシャ勢力に支えられてきた卑弥呼政権に、

 政権交替を迫ったことになる。

 すると卑弥呼の悲劇はアレクサンドロスが始めた世界国家の、

 「東方経営」が生んだ悲劇だったのである。

 それは「天照大神の岩戸隠れ」などという幼稚野蛮なものではなかった。

 では誰が?なぜ?、

 そんなオカーシナ歴史にしたのか?。

 いうまでもなく

 天武天皇が、

 建国を古く見せ、史実を隠すために原始的に加工した、

 これもまた知性の産物だったのである。

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2013年8月29日木曜日

沖縄語・大隅語・鹿児島語の故郷?わかる


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:10頁

 このユリシーズの原話の本当のギリシャ名は

 『オデュッセイア=Odysseya Οδνσσευα』であるが、

 それを「ユリシーズ」と英語で発音するのは、ラテン語訛りからきている。

 主人公の名の綴り ギリシャ文字     ローマ字綴り   発音読み仮名
 
 ギリシャ語    Οδνσσευα   Odysseus     オデュッセウス

 ラテン語                Ulysses     ウリ ッセ ス

 英 語                 Ulysses     ユリ  シーズ

 これでお気づきになったと思うが、

 U=ウがO=オになり、

 ly=りがdy=ヂになるのは

 沖縄語と鹿児島語との関係とぴったり同じである。

 また

 セスがシーズになるのも鹿児島語と沖縄語との関係とぴったり同じである。

 《鹿児島語はギリシャ語型》、《沖縄語はラテン語型》だが、

 ウリッセズにはセ=Seというe=エ音が混じっているので大隅語型。

 英語のユリシーズのほうが、より沖縄語に近い。

 古代日本への移住者と方言関係の謎が解けてくるのをみる。

 また沖縄語がラテン語及びその方言の英語と同じ発音原則をもつ事実は、

 「琉球の語源」という大きな謎の答を予想させる。

 もちろん充分な研究が必要だが、それは琉球と同じ発音のルキウスが、

 同時代の161年にローマ帝国の統治者になった事実と符合するからである。

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2013年8月28日水曜日

壹與の宗教を伝える『百合若説教』


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:9頁

 その古型を現代まで残していたのは

 壱岐(一大国)の『百合若説教』という「語り物」である。

 毎月28日に行なわれる「ヤボサ=八菩薩=八幡大菩薩」の祈りの場で

 イチジョーという名の巫女が、

 横たえた弓を2本の竹棒で打ち鳴らして拍子をとりながら「語る」もので、

 もと説教節と呼ばれていた浪曲の原始的なものだと思えばいい。

 イチジョーという巫女の役名も、

 そのまま「壹與」時代からの行事であることを証明している。

 すると、その説教の内容が貴重な手掛かりになるはずである。

 『百合若大臣』は後世の脚色で、

 嵯峨天皇のとき左大臣「きんみつ」が

 奈良の初瀬(長谷寺)の観音に願をかけて生まれたのが百合若で、

 右大臣になったとき蒙古襲来が起こり

 出陣して勝って帰るとき裏切り者のため

 玄界灘の孤島に置き去りにされたことから話が展開するが、

 『百合若説教』のほうは名と筋は共通だが、

 宇佐八幡と、

 仲哀天皇と神功皇后・応神天皇を祭る

 大分の柞原(ゆすはる)八幡の零顕を宣伝する本地物なので、

 宇佐八幡もまた壹與時代の名残りだとわかる。

 すると、

 すでにポセイドンと百済・出雲など、多

 数の証拠をもっているギリシャ文化の流入例に、

 このユリシーズと百合若大臣もイソップ=イソフが加わるだけではなく、

 「伊曽布」地名の住人が、

 こうした語り物の巫女たち

 「語り部=稗田阿礼(ピューティア)」の一族だったことになる。

 《壹與の宗教を伝える『百合若説教』
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2013年8月27日火曜日

日本昔話『正直爺さん』の原作者


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:8頁

 『お爺さんが池のそばで木を切っていると、

  手がすべって鉈(なた)を水の中に落としてしまった。

  困っていると、水の中から美女が現われて、

  落としたのはこれか?と黄金の鉈を差し出す。

  爺さんは「違う、錆びた古鉈だ」と答えると、

  錆びた古鉈を探してきてくれたが、

  「正直のご褒美に」といって黄金の鉈もくれる。

  この話を聞いた隣りの爺さんは、そこへいって鉈を池に投込んだ。

  美女が現われて「落としたのはこれか?」と黄金の鉈を差し出す。

  爺さんは「そうだ!」と手をだす。

  すると美女は怒って「このウソつき」と黄金の鉈で爺さんの頭を叩き切る。

  いのちは助かったが、その後いっそう貧乏になった』

 という昔話は、

 そのイソップが原作者である。

 すぐおわかりだと思うが、

 『花咲か爺』などの原形である。

 いつ、こんな話が日本に伝わったか。

 過去にも多くの研究者があったが、

 日本の建国史も不明だった時代には、

 まさかギリシャ人が日本まで来ていたなどと想像さえする者もなく、

 ギリシャ神話『ユリシーズ(英名)』そのままの

 『百合若大臣物語』でさえも、

 ユリシーズとは無関係だという結論をだした者までいる。

 だから過去の業績はゼロ以下で、何の役にも立たない。

 では正しい答はないのか。

 こうした説話を最初に全国に広めたのは

 大隅正八幡=鹿児島神宮を本山とする歩き巫女で、

 その発生は応神天皇以前、いや卑弥呼以前である。

 《日本昔話『正直爺さん』の原作者
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2013年8月26日月曜日

余りにもよく似たイソップという地名


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:7頁

 人は故郷を懐かしみ、誇りに思うから移住先に故郷の名をつける。

 だからこそ、

 こうした地名は、種子島を中心にして、九州にあった旁国などの、

 どの地域の人々が移住に参加して丹波国を造り上げたか、

 明瞭に話してくれるのだということがおわかり戴けたと思う。

 ところが、

 この丹波の地名には、

 もっと遠くから来た人びとがいたという事実を

 証言しているものが3か所にある。

 丹波国氷上郡の「石生(いそふ)」と

 但馬国七美(しとみ)郡の「射添(いそふ)」は、

 両方とも同じ「伊曽布(いそふ)」という読み仮名がつけてある。

 これでいくと但馬国朝来(あさこ)郡の磯部も

 イソベと仮名はふってあるが、

 部(ぶ)の清音は「フ」だから、

 他の2つよりも「イソフ」によく合う。

 これは何から来た名前だろうか?。

 1593年(文禄2年)に、

 天草のイエズス教会が出したローマ字書き日本語版の翻訳書は、

 『伊曽保物語』という名でかなりよく知られているが、

 それは

 『ESOPONO FABVLAS=イソポの物語』という表題への当て字である。

 その内容はよくご存知の『イソップ物語』で、

 イソップとは、

 esopus Αισωποσ …と書く

 B.C.E.6世紀のギリシャの寓話作家である。

 伊曽保はESOPOのラテン系発音=イソポへの当て字で、

 イソップなら「伊曽布(いそふ)」のほうが正確である。

 また例によって「まさか…?」という人もあると思うが、

 これは他人の空似なのだろうか?。

 《余りにもよく似たイソップという地名
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2013年8月25日日曜日

九州からの移住の史実を語る丹波の地名


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:6頁

 また、この国々の郡や町村の名にも面白い実証がある。

 丹後の国に「丹波郡」があるのに、

 肝心の丹波の国には丹波郡がない。

 同じようなことは丹後国に竹野(たかの)郡があり、

 但馬国の美含(みかみ)郡に竹野(たかの)がある。

 これらは全域が丹波国だったら何の不思議もないことだから、

 もと1つの国だったものが後に3分割されたのだと、

 「地名」が立派に立証しているのである。

 また視点を変えると、

 3世紀には南九州にあった例のき「旁国」と共通した名が沢山ある。

 「丹波には」

  山国(邪馬)、

  有頭(うど)(烏奴)、

  志麻(斯馬)、

  城崎(きのさき)(鬼奴)、

  多紀(都支)、

  草上(狗邪韓)、

  榛原・拝師(巴利)、

  竹田・高津(狗奴)、

  佐沼(蘇奴)、

  栗村(鬼奴)。

 「丹後には」

  山田(邪馬)、

  大野(烏奴)、

  木津(鬼奴)、

  納野(奴)、

  熊野(狗奴)、

  佐濃・狭沼(蘇奴)。

 「但馬国には」

  山口(邪馬)、

  出石・糸井(伊都)、

  遠屋・遠佐(投馬)、

  城崎(城之崎)(鬼奴)、

  久斗・原野(狗奴)、

  刀岐(都支)がある。

 また旁国ではないが、

 「丹波国に」

  佐伯(大分)、

  田原(熊本)、

  河内・日置(薩摩)、

  加茂(蒲生(かも)=大隅)、

  夜久・横作(屋久島)。

 「丹後に」

  謁叡(えい)(穎娃(えい)=薩摩)、

  小野(薩摩・尾の間=屋久)。

 「但馬に」

  安美(台湾・奄美)、

  日置(産摩)、

  狭沼(さの)(宮崎)、

  賀陽(かや)(鹿島=大隅)、

  新田(宮崎)

 などがあって、

 移住者たちの故郷が九州各地にあることを記録している。

 《九州からの移住の史実を語る丹波の地名
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2013年8月24日土曜日

移動の規模や勢力を記録する地名


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:5頁

 「田尻」という地名の全国の分布が、

 基本的には倭の五王の移動経路と、

 その後の歴史を記録したものであったことがおわかり戴けたと思うが、

 正確にいうと

 それは反正天皇とその勢力が影響した歴史だけの記録に過ぎず、

 それ以上に詳しい史実は物語らない。

 しかし分布地名の中には、

 さらに詳しくその移動の規模や勢力、

 その後の消長まで物語るものがある。

 それは史学には見過ごせない貴重な宝である。

 次はその実例を挙げてみよう。

 田尻と同じ語源「種子島」をもつ地名である

 「丹波」「丹後」「但馬」は、

 大半が町村名や字名である田尻とは

 比較にならないはど大きい広域地名として現在まで残っている。

 それらは3つとも古代の国であるだけでなく、

 本来は

 兵庫北部と京都北部とにまたがった1つの大国「丹波国」であり、

 それが後に3か国に分けられたほどに大きかったのである。

 『倭名類聚鈔』によると

 第百三が丹波国。

 第百四が丹後国。

 第百五が但馬国になっている。

 この分割が後世のものだということは、

 もちろん文献に記録が残っているが、

 それは周知のことで、

 今の私たちが貴重な紙面をさく問題ではない。

 私たちは地名から史実を「発見」し、

 それらの記録が事実がどうかを

 「判定する側に立っている」ことを、常に忘れてはならない。

 在来のような

 「『○○』に、こう書いてある」と

 羅列する程度の史学ではないのである。

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2013年8月23日金曜日

河内皇朝の実力と2種類の田尻


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:4頁

 10世紀の『倭名類聚鈔』をみると、

 「丹比」郡は河内国の最南端にあって、

 「太知比(たちひ)」と振り仮名がしてあり、

 「丹北と丹南をなす」と特記してあるので、

 大きな郡だとわかるが、他の郡は町村数が2から8なのに、

 この丹比郡だけは突出して11町村もあるという河内最大の郡である。

 その河内国そのものが、

 『倭名類聚抄』完成の数年前の政府公文書

 『延喜式』巻第二十二の「民部 上 畿内」には、

 首都平安京のある山城国を抜いて、

 大和国と並んで「大」にランクづけされている。

 それは隣接する和泉国の郡数3に対して、

 河内国は14郡もあるからである。

 以後「大」国は東海道の伊勢国がある以外には、相模国まで一つもない。

 河内国・丹比は、

 倭王・済=反正天皇の名乗りにふさわしい都の名残りを、

 10世紀の平安時代になっても、こんなに濃厚にとどめている。

 そこには丹上、丹下という町村名もあり、

 有名な丹下(たんげ)という姓の出処がわかるが、

 この姓は今でも鹿児島県にあって、

 河内皇朝当時から出身者の帰郷や交流があったことを証言している。

 田尻という地名が全国的な分布をもっていても不思議ではないが、

 5世紀当時の国情を考えれば、

 関西の田尻は反正政権の役所跡だとしても、

 東海以東の田尻は河内皇朝とは無関係で、

 倭国東遷以後の丹比人の移住先とみるほかない。

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2013年8月22日木曜日

田尻が立証した天皇家の故郷と5世紀前後の奈良入り


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:3頁

 大学講義録26の31~33頁の

 全国の「田尻」リストが何を意味し、何を教えてくれるか。

 それは個々の田尻それぞれに命名の歴史がある。

 それを一つ一つ確かめるだけでも膨大な量の研究対象であるから、

 ここで安易に答を出そうとするのは間違いであるが、

 すでに出ている答もある。

 それは大量に分布した田尻は、

 漢字の表記は同一だが、

 発音が地域によって異なるという事実である。

 必要なものだけ挙げると、

 南九州語では「タジイ」と発音し、「タジヒ」と当て字する。

 沖縄には田尻はみつからなかったが、

 発音差をもとにその発音を構成してみると「タチー」になる。

 すると過去のご説明で、もうお気づきと思うが、

 これらの「タジ・タチ」は

 丹波・丹後・但馬の国名や橘の語源だった種子島に結びっく。

 リストには挙げなかったが田尻の真の語源は種子島であって、

 決してイタドリの花による個人名などではなく、

 万世一系の天皇家の名乗りの法則通り、

 「国名・地名による名乗り」だったのである。

 それだけでなく倭の五王の一人である反正天皇は、

 『宋書』「夷蛮・倭国」は442年に上表して、

 倭連邦国家の王と認められている。

 5世紀半ばである。

 そんな時代になっても、

 天皇の名乗りが「田尻」を「多遅比=タヂヒ」と

 南九州発音で呼んでいるのは、

 南九州から奈良への天皇家の移動が5世紀前後だという事実の、

 動かない大きな証拠の一つなのである。

 《田尻が立証した天皇家の故郷と5世紀前後の奈良入り
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2013年8月21日水曜日

ギリシャの女王と蛇


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録26:34頁

 「ギリシャの女王と蛇」

 「王女メディアとヘカテの社の大蛇

 『金毛羊皮』を求めて

 アルゴ船で遠征した

 ヤァソン

 メディアの協力で救われて、

 羊皮を手に入れる。

 「マケドニアのプヒリプ王

  マケドニア金貨

  彼の生前に発行さfれた最高額の通貨。

 「アリストテレス像

  アレアクサンドロスを教えたアカデミア当時の肖像彫刻


 《ギリシャの女王と蛇
 「ギリシャの女王と蛇

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2013年8月20日火曜日

多治比の歴史がわかるか?全国の田尻リスト


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録26:31~33頁

 田尻の遺物は現在、どこに、どんな風に残っているのだろう?。

 残っているとすれば、

 それを見れば、

 自ずから多治比の歴史=反正天皇の歴史から、

 ひいては倭の五王の歴史までわかるはずである。

 発祥地の鹿児島県から始めてみよう。

 「字名の田尻は省略」

 (   )は田尻以外の変形。

 [田尻]は独立自治体または市制自治体の広域町名。

   府県   市郡   町村   田尻         地域・地名の系統

 1 鹿児島県 日置郡  吹上町                高族系

 2 熊本県  葦北郡  産山村                高族系

 3 熊本県  下益城郡 富合町                高族系

 4 福岡県  三池郡  高田町                高族系

 5 福岡市  西区        [田尻]          高族系

 6 大分県  大分市       [田尻]

 7 大分県  中津市       

 8 山口県  小野田市      [田の尻]         高族系

 9 和歌山県 日高郡  中津村                高族系

 10 和歌山県 和歌山市      [田尻]

 11 奈良県  吉野郡  吉野町   (丹治)

 12 奈良県  香芝市       [田尻]          高族系

 13 大阪府  泉南郡       [田尻町]

 14 大阪府  南河内郡 美原町   (多治井)(丹上)(丹南)   高族系

 15 兵庫県  多可郡  加美町                高族系

 16 兵庫県  氷上郡  柏原町                高族系

 17 福井県  敦賀市       [田尻]

 18 福井県  丹生郡  清水町  [田尻栃谷]        高族系

 19 岐阜県  恵那郡  川上村  [田之尻]         高族系

 20 岐阜県  多治見市      [田尻]          高族系

 21 三重県  一志郡  一志町                高族系

 22 愛知県  碧南郡市      [田尻町]

 23 静岡県  浜松市       [田尻]          高族系

 24 静岡県  焼津市       [田尻]          高族系

 25 神奈川県 川崎市  中原区                高族系

 26 千葉県  市川市       [田尻]          高族系

 27 栃木県  日光市       [伊勢町]

 28 石川県  松任市        [(田治町)]         高族系

 29 石川県  石川郡  野々市町               高族系

 30 石川県  鹿島郡  能登島町               高族系

 31 富山県  東砺波郡 福野町

 32 富山県  富山市       [東田尻・西田尻・南田尻]

 33 新潟県  中頚木郡 吉川町                高族系

 34 新潟県  三島郡  寺泊町

 35 新潟県  北魚沼郡 広神村                高族系

 36 新潟県  見附市       [田之尻]

 37 茨城県  日立市       [田尻]

 38 福島県  双葉郡  浪江町

 39 宮城県  本吉郡  志津川町  (田治畑)                  高族系

 40 宮城県  気仙沼市      [田尻・田尻沢]      高族系

 41 宮城県  遠田郡       [田尻町]         高族系

 42 秋田県  本荘市       [田尻]

 《多治比の歴史がわかるか?全国の田尻リスト
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2013年8月19日月曜日

南九州以外にはない多治比・丹比の発生地


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録26:30頁

 では「タジイ」は何を意味するのか?。

 学講義録18の5頁で反正天皇々居の所在地リストをご覧戴いたが、

 その候補地・大阪府南河内郡美原町に『記・紀』の書く

 「多治比・丹比」に相当する

 「多治井・丹上・丹南」がある。

 これは前記の近津安宿(アスカ)の「上・尾張・下」と

 同形で倭国の王都とみていいが、

 隣接する和泉市にも「田尻町」という大きな町がある。

 「田尻」は南九州では「タジイ」と発音する。
 
 理由は南九州語ではラ行音をなるべく発音しないようにして、

 語頭では「ダ行」か「ザ行」、

 語尾の「リ」は「イ」と発音し、

 そのイも昔は「ヒ」と振り仮名した。

 田尻はぴったり「タジヒ」に合うのである。

 その南九州語かそのまま『記・紀』に残るのは、

 天皇が近畿へ移動した時期が遠くなかった証拠だ。

 ではそれがなぜイタドリなのか?。

 イタドリは田のはずれに生えて一番大きく日立つ草だ。

 「田尻草」が「タジイ」の語源だとするのが、

 いちばん妥当である。

 現在では全国を調査しても「多治比」は見つからないが、

 この田尻なら広く目にする地名である。

 また反正天皇=倭王・済の略「倭済」と「和泉」とは、

 どちらも「イズミ」と読めるから

 河内よりも和泉にあるほうが自然だともいえる。

 現代まで大きな町であり続けたことと、

 多治比が見つからない理由を考えると、

 田尻町一帯が古代の多治比だと結論できる。

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2013年8月18日日曜日

蛇神信仰の伝統の中で生まれた名乗り


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録26:29頁

 折口信夫(しのぶ)氏は、

 タジヒは蝮のことで

 ミズハもミズマも水神を表わすから、

 水神信仰からきた名だろうという。

 この考えからいけば、

 オリンピアスの蛇とも無縁ではないことになるし、

 先にお話しした水間寺や、

 福岡県の三瀦(みずま)地方、

 熊本県の水俣、

 宮崎県の三間などとも

 繋がりのある名で、

 水漲岳から三原山までの蛇婿神話は、

 反正天皇のほうが倭迹迹日百襲姫=卑弥呼以上に、

 より深い関係をもっていることになる。

 この蝮を、

 今使われているような

 「蝮の道三(どうさん)」式の、

 極悪人につけた渾名(あだな)だと見ることもできる。

 それだと即位前の彼の行為に原因がある。

 『履中紀』には彼やく兄の住吉仲皇子を、

 彼の近従の隼人に暗殺させておきながら、

 その隼人にも洒を飲ませて騙し討ちにして殺してしまう。

 という、人として許されない行為が特記されているからである。

 それを淡海(おうみ)の三船は明かに非難して、

 わざわざ「反正=正義に反した天皇」という

 漢風諡号(おくりな)をつけた。

 もっとも用心して弁解も考えてあった。

 反正とは「タゼイ」で「タジイ」への当て字だと……。

 記はその名を水歯別とだけ書き、

 紀の瑞歯別と同じミズハワケと読む。
 
 しかしイタドリは蓚産(シュウサン)を含んでいて酸(す)っぱいので

 「酸い葉(パ)」と呼ばれる草だから、

 本当はスイバ別が正しい。

 結局は、

 イタドリの様々な別名を「寄せ集めただけ」の名にすぎない。

 というのが結論だ。

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2013年8月17日土曜日

種子島以外にない反正天皇の誕生地


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録26:28頁

 仁徳天皇が阿波に都したのは、その晩年である。

 先にも検討した通り、

 彼が若い時に大阪に都したというのは錯覚にすぎない。

 徳島より西にある難波国は、

 ナのハ国(マ)で、ナがハ国(マ)でもあるから、

 今の愛媛県長浜町あたりであった可能性が高いが、

 反正天皇の母は仁徳皇后・磐の媛で、

 正妻だからいちばん最初の夫人に当たり、

 両親の若いときの子である。

 まだ徳島には来ていない。

 愛媛こは淡路はないから、

 そのタジは間違いなく種子島である。

 これは別の記事でも立証されている。

 それは「多遅花」である。

 多遅(たち)花はタヂバナに対する当て字である。

 これも幾度もご説明した通り、

 種子之国(シマ)→種子国(タジマ)→但馬→タンバ→丹波→タ津(ン)バ国(ナ)→

 タ津(チ)バナ→橘・立花

 で同じものだから、

 種子島からの移動コースは地名でたどることができる。

 その生き証人としては、

 種子島が史実の中心舞台であり、

 物語の発生地だった

 『浦島物語』が、『丹後国風土記』によって世に知られ、

 その舞台が

 京都府の竹野郡網野町あたりだとされている事実があって、

 人々が移動した-コースを証言している。

 多遅花は虎杖(イタドリ)で、

 スイバ、マムシ草、スカンポなどの別名がある。

 郊外には野生しているから初夏にでる若芽の色や形、

 模様が、毒蛇の蝮に似ていることをよくご存知だと思う。

 だがなぜ?それがタジヒと呼ばれるのか?。

 考えてみる必要がある。

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2013年8月16日金曜日

「名乗りの分析法」(反正天皇を例題として)


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録26:27頁

 まず反正天皇の名乗りを見てみよう。

 紀は多治比または多遅比の瑞歯別と書き、

 多遅花とは今の虎杖(いたどり)のことで、

 天皇が「淡路の宮」で誕生した時、産湯をつかった井戸の中に、

 その花があったので名付けたと説明が書いてあるが、

 淡路もタンジ、タジで、

 天皇の名乗りのタジヒは

 地名または国名の名乗りであると考えるほうが合理的である。

 また淡路といえば兵庫県の淡路島だというのが

 在来の歴史家のお決まりの解説だが、

 古代の淡島(アワシマ)は、

 淡島を「オオシマ」と読む奄美大島のことで、

 淡路島とは、そこへ行く「路(みち)」の島、

 古代の多執(タジ)島=オオ路島、

 すなわち「種子島=タネガシマ」以外にはない。

 その淡島の淡が「アワ=阿波=徳島県」に移動してから、

 兵庫県の淡路島が生まれたので、

 〔オオ=淡=阿波・サザキ=讃岐(讃は「讃良皇女=ササラ皇女」のササ)〕

 すなわち

 オオサザキ=大雀=仁徳天皇の阿波の国へ行く「路(みち)」の

 島の淡路島と混乱するから、よく確かめないと、

 種子島と淡路島との500kmもの距離と移動に要した歴史と時間がフッ飛んでしまう。

 これも日本の古代史を野蛮な化け物に仕立て上げた元凶だったのである。

 すでに四国東瑞に移動してきている父・仁徳天皇を考えると、

 今の淡路島のほうに分(ぶ)がありそうに思えるが、

 果たして反正天皇時どこで誕生したのであろうか?…。

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2013年8月15日木曜日

地名史研究の捜査分析技法の研修用教科書


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録26:26頁

 さらに精密にみると、

 ⑤の「大国化」では、

 同一地名が広範囲に分布する理由が加わる。

 それは地方官庁(代官所)の所在地に

 支配者の国名が使われるからである。

 この場合単一の統一国家しかなければ、

 その国名は同一になるか、

 わざわざ書く必要がないから省略される。

 国名によって支配権を示す手法がとられている場合には、

 独立・封建を問わず

 複数の国家が分立していたことの証拠として重要な役割果たす。

 こう考えると、

 これまで個人の姓や、単なる地名として見向きもされず、

 放置されていたものにも、私たちの祖先の真の記録があることがわかる。

 それらの「歴史と共に働いた遺物である地名」を見つけ出し、

 さらにその地名分布の「流れ」の方向牲や、地名の「変形」の様子、

 またその変形に「法則性」はないか、

 といった科学的な観察と分析が必要である。

 こうしたことを実地に検討して始めて、

 地名から確実に史実が復元できるのである。

 次は、話題が倭の五王の畿内天皇家時代に入ったついでに、

 さきに中断した形の反正天皇の名乗りの「タジヒ」を題材にして、

 その現在の分布を研究することで、

 今後ますます重要度を増す「地名史研究」の、

 本学の「捜査・分析技法の研修用教科書」として、

 これからの頁をご覧いただくことにしよう。

 《地名史研究の捜査分析技法の研修用教科書
 「地名史研究の捜査分析技法の研修用教科書

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2013年8月14日水曜日

歴史の差を記録している地名分布


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録26:25頁

 こうして「はじめ」と「おわり」という、

 ありきたりの日本語の形容詞でさえ、

 研究すればこんなに重要な史実を、

 綿密に証言するものだとわかった。

 これまで多くの地名が、その原語から語源、

 それを運んできた人々のコース、時代、

 その移動の動機や原因などまで、

 詳しく教えてくれたのは当然だったのである。

 その研究はさらに精密化する必要がある。

 それはどんなことか?。

 たとえば古代天皇たちの名乗りは、

 その勢力がどこで発生してどう進んできたか、

 という消長を物語る。

 それは複数の国名が、

 「過去」に発生した時から

 「その天皇の現在」に至る「歴史」をもっているからである。

 それは歴史の差によって次のような「証拠」を残す。

 ① 移動または逃亡 その地名は、元の土地には、そのままでは残らない。

 ② 分裂      その地名は、元の土地にも残り、別の土地にも同じ地名が分布する。

 ③ 拡大発展    その地名は、元の土地と連続した地域全域の名に拡大する。

 ④ 拡大移動    その地名は、元の土地にも残るが、移動先で大きくなる。

 ⑤ 大国化     その地名は、さらに大国化が進むと、その地名は文字が美化したり、

           その支配下、に入った土地に、同じ地名がつけられる。

 などである。

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