2013年8月8日木曜日

倭国天皇の都だった近津安宿(ちかつあすか)の尾張


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録26:20頁

 安宿郡は

 「賀美(かみ)」

 「尾張(おわり)」

 「資母(そも)」の3村に分けてある。

 かみは上、

 しもは下とすぐわかるから、

 そこをアソカ王の都として見ると、
 
 上は「お上」すなわち貴族や官僚の居住地域、

 下は下々(しもじも)の居住地域とすぐわかる。

 東京の山の手と下町だからである。

 すると真ん中の「尾張」は何を意味するのだろう?。

 オワリは「終り」なら、

 村外(はず)れだとも考えられるが、

 それは上や下のほうにあるはずで、

 中心の、それも広い範囲が村外れということはない。

 これは「終り」ではない。

 正しい答は、

 やはりより高度な言語復元からしか得られない。

 それは

 倭国の故郷・南九州語の発音知識がなければ理解できないからだ。

 鹿児島語では「尾張」は「オワイ」と発音し、

 大隈語ではオワイは「ウワイ」と発音する。

 尾張と倭はどちらもウワイヘの当て字なのである。

 尾張とは、

 敗戦までは「倭」そのもの、

 倭王=倭国天皇の「都=宮居(みやこ)」があった地域を意味している。

 このことで『倭名類聚鈔』の当て字は、

 勝った側が文字を変えたものだったことがわかる。

 もとの「倭」の字のままではおきたくなかったので、

 わざわざ尾張に変えたのである。

 このことにはまだ証拠がある。

 それは上を「賀美(かみ)」、

 下を「資母(しも)」と発音していることである。

 大隅では上井(ウワイ)、

 聖徳太子は上宮(ウワノミヤ)で、

 上をカミとは発音しない。

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