2014年8月31日日曜日

阿曇・安曇(122 )哈尼族・阿尼族の祭事:耶枯扎(ye ku zha)

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 《参考:年表・資料》

 阿曇・安曇(122)哈尼族・阿尼族の祭事:耶枯扎(ye ku zha)

 耶枯扎(ye ku zha)=火把節フォファチェ(huo ba jie)

 :「松明まつり」=川崎

   川崎(越谷市北川崎、八潮市南川崎、三郷市花和田)

 「耶枯扎」=耶枯・耶枯阿培楼

  耶枯扎(ye ku zha)
 
   伊草(八潮市)松ノ木=mut(の)火(thi)、松江(草加市)mut-火(huo)

   谷口やぐち(三郷市)栄/酒井・境木:「酒火」(たいまつ)

   矢古田(郷) 江戸時代の北足立郡の郷名

 「耶枯」(ye ku )

   矢古宇(村) 江戸時代の北足立郡の村名
  
   矢古宇郷 鎌倉期からみえる郷名 草加市

   伊興「吾妻鑑」伊古宇氏 足立区北部伊興遺跡(祭祀跡) 

 ◎おびしゃ:びしゃ=米酒⇒甘酒

   阿培朱格:祖先崇拝的(の)灵台 新年祭(大年節)

   aあtuまzheさgeけ

   毘沙 bi sha

 ◎おくんち くんち=洪西洪米祭

   洪:火把(たいまつ)

   西=新 たいまつをたいて新しい夜を迎える。(夜籠りをする)

   洪:火把、米:夜


 ◎スミスカリ

  「漢書」貨殖伝第六十一

  蜀の卓氏の祖先は趙の人で、鉄の冶金で富裕となった。

  秦が趙を破ったとき、卓氏は蜀へ移住させられた。(略)

  卓氏だけは

  「ここは土地が狭く痩せている。

   岷山の麓の沃野は、土の下に踆鴟があって一生飢えないですみ、

   住民は商売上手で、みな取引をしている。と聞いている」と言って、

  わざわざ遠い所へ移住を希望し、臨邛県に移された。

  彼は大いに喜び、鉄山に拠って鉄を冶金し、

  また、いろいろ工夫を凝らして、滇・蜀の人々と交易し、

  その富は八百人の奴僕を召し使うほどになり、~。

  ※踆鴟=里芋 (注)蹲った鴟(とび)の形に似ているゆえ

 「火把節」
 「火把節」
  
 「おびしゃ」
 「おびしゃ」

 「おくんち・お九日」
 「おくんち・お九日」

 「漢書」第六十一貨殖伝
 「漢書」第六十一貨殖伝

 踆鴟

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2014年8月30日土曜日

阿曇・安曇(121)『魏書倭人章』登場者の系譜

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 《参考:年表・資料》

 阿曇・安曇(121)『魏書倭人章』登場者の系譜

  出典:加治木義博:言語復原史学会
     『魏志倭人章』詳解1
     垂仁天皇の邪馬壹国
     99~100頁

 断定できる「実在」

 これで第1章は終わるが読者の中には

 『魏書倭人章』と『記・紀』とが一致したというだけで

 『記・紀』の登場人物が実在だといいきれるか?と、

 まだ疑問に思う方がありそうである。

 『記・紀』が『魏書倭人章』をもとに作られたものなら

 一致は当然で、

 何も「実在」の証拠にはならない。

 という気がするかも知れない。

 だが考えてみると、

 たとえ『記・紀』が
 
 『魏書倭人章』を写したものであったとしても、

 『魏書倭人章』の方は、

 日本国民をだまそうという目的で作られた

 「ニセの歴史」などではなく、

 帯方郡使が外国人の眼で

 「客観的に見聞きした事実」の報告書を、

 陳寿が編集しただけに過ぎない。

 郡使は何もウソを書く必要も理由もないから、

 そこに登場する人物は全て、実在者ばかりである。

 それをもとに『記・紀』が書かれたとしても、

 「事実の記録による実在者の歴史」であることには変りはない。

 しかも『記・紀』は『魏書倭人章』をもとに

 書かれたものではない。

 なぜなら『記・紀』は『魏書倭人章』の人物が、

 だれだったか知らない。
 
 ことに『日本書紀』は<卑弥呼>を<神功皇后>だと考えて、

 <卑弥呼>が<難升米>を魏へ派遣したことなどを、

 小文字ではあるが何年にもわたって書き添えている。

 『日本書紀』は天皇たちの治世年数を書いているから、

 その遣使の年から数えると、

 本当の<卑弥呼>である<倭迹迹日百襲姫>は、

 それから320年も前に死んだことになっている。

 これではとても『魏書倭人章』の焼き直しだとはいえない。

 また卑弥呼は女王と書かれ、

 男弟は政治を補佐しているに過ぎないのに、

 その男弟を崇神天皇、

 卑弥呼を単なる天皇の姑と逆に書いている。

 かと思えば

 『魏書倭人章』では分らない卑弥呼の死に方などを

 『記・紀』は詳しく知っている。

 『記・紀』を詳細に分析してみると

 『魏書倭人章』とは関係なく、

 どちらも独立して書かれていることが立証される。
 
 だから事実の記録に一致する

 『記・紀』の登場者は「実在だ」と断定できるのである。

 『魏書倭人章』登場者の系譜


 「『魏書倭人章』登場者の系譜」(主に『日本書紀』により『古事記』で補う)

                 孝霊天皇
   ┌───┬─────┬────┻━━━┯━━━━━━━┓
  稚武彦 彦狭島  彦五十狭芹彦  倭迹迹日百襲姫   孝元天皇
                     (男 弟)    (卑弥呼)
             ┌──────┬────┬────┸─────┐
            武埴安彦   彦太忍信 倭迹迹姫 開化天皇   大彦
          (狗右制卑狗)                         ┃          │
           ┏━━━━━━━┯━━━━━━━━━━┛    武渟川別
          崇神天皇     彦座         彦湯隅    (難升米)
          (男 王)                │
           ┃                 丹波道主
           ┃                  │
     ┌──┬───┼──┐       ┌────┬──┴─┐
      ∧  ∧  ∧∧  ∧       ∧     ∧   ∧
     八掖 彦伊 垂伊卑 豊都      沼奴  歌弟薊弥  日弥
     坂邪 五声 仁支弥 城市      羽佳  凝比瓊馬  葉馬
     入狗 十耆 天馬弓 入牛      田鞮  比売入獲  酢升
     彦∨ 狭∨ 皇∨呼 彦利      入∨  売 媛支  媛∨
        茅    素  ∨      日      ∨     │  
            ┃ ∨         売          │
          ┗━━━━━━━━┳────────────┘
                   ┃
                       ┌──────┻━━━━┓
           倭姫命                 景行天皇
          (壹  與)       (戴斯烏越)

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

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2014年8月28日木曜日

阿曇・安曇(120)『後漢書』三國志巻三十・魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章(2)

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 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(120)『後漢書』三國志巻三十・魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章(2)

 出典:『三国志』(晉) 陳壽撰;(宋)裴松之註

 魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章

 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、

 官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。

 方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、

 差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

 又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、

 濱山海居、草木茂盛、行不見前人。

 好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

 東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。

 有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

 東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。

 東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。

 南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。


 次に南へ海を渡り、千余里進む。

 この海の名は瀚海といい、一大国(壱岐)に到着する。

 〔この国の長〕官もまた卑狗といい、

 次〔官〕は卑奴母離という。

 広さはほぼ三百里四方である。

 〔この国には〕竹木や叢林が多く、

 三千ばかりの家がある。

 耕地は少々あるが、

 耕地を耕すだけでは食糧を確保することができないので、

 〔対馬国と〕同じく南北から米穀を買い入れている。

 また一つの海を渡り、

 千余里行って末盧国(佐賀県松浦郡)に到着する。

 人家は四千余戸あり、

 〔人々は〕山裾や海浜に沿って住んでいる。

《参考》

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阿曇・安曇(119)三國志巻三十・魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章(1)

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 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(119)『後漢書』三國志巻三十・魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章(1)

 出典:『三国志』(晉) 陳壽撰;(宋)裴松之註

 魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章

 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。

 舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、

 乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、

 始度一海、千餘里至對馬國。

 其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。

 所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。

 有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。

 
 倭の人々は、

 帶方〔郡〕の東南にある大海の中の〔島々〕に住んでいて、

 山や島によって国や村をつくっている。

 もとは百余の国々に分かれていて、

 漢の時代には朝見して来る国もあった。

 今、通訳をつれた使者が〔中国や帶方郡に〕通って来る所は、

 三十国である。

 帶方〔郡〕より倭に行くには、都を出発して、

 まず海岸に沿って航行し、韓の国々を経て、

 乍(しばらく)は南に、乍は東に進んで、

 その北岸の狗邪韓國に到着する

 〔この間の距離は〕七千余里である。

 〔そこから〕始めて一つの海を渡り、

 千余里にして対馬国到着する。

 この国の大官は卑狗といい、次〔官〕を卑奴母離という。

 住んでいる所は海に囲まれた孤島で、

 広さは四百余里四方ほどである。

 土地は山が險しく、深森が多く、

 道路は禽獣が通う小経のようで、狭く險しい。

 〔人家は〕千余戸もある。

 人々は海産物を食糧として自活しているが、

 船によって南北〔の国々に〕から米穀を買い入れている。

 ※出典:大学講義録34:9~12頁

 「筆者は船旅をし、歩いて、眼と耳で確かめて書いた」

 この間(かん)、高句麗が魏に敗れて北の境界には変動があったが、

 半島が二分されて南半分が帯方郡だったことは動かない。

 仮にこの判定が間違っていて、

 三韓が帯方郡より南に独立していたのなら、どうなるか?。

 そのときは『魏書倭人章』の書き出しが

 「倭人在 三韓 東南大海之中」と変わる。

 しかし現実にはそうではなく

 「倭人在 帯方 東南大海之中」と明記してある。

 これを書いたのは単なる編集者に過ぎない陳寿ではない。

 彼は記録を寄せ集めただけで、

 その記録を書いたのは実際に倭国まで旅した梯儁と張政である。

 この二人は倭人の住む国がどこにあるかをはっきり聞き、

 そこへ往復する船旅を体験し、

 事実であることを眼で見、足で歩いて確かめたのだから、

 その記録が正確なことは疑う余地がない。

 彼らは二人とも、そのとき、帯方郡に勤務していた現役の役人である。

 帯方郡の範囲も、
 
 そこに含まれている地域の現状も歴史も知り尽くしていたのだから、

 三韓と帯方郡を間違えることはありえない。

 そして書いたのが「倭人在 帯方 東南」なのである。

 それは明確に三韓が帯方郡に包含されていた事実を、

 記録しているのである。

 もしそれが違っていたら、それは直ちに別の役人に指摘され、

 その場で訂正される。

 間違ったままで記録に残されることは絶対にない。

 だがその行程記事中に「韓国を経て」がある。

 これはどうなるか?。

 「狗邪韓国の全てまでわかる完全な記述」

 三韓が帯方郡に属しているのだから、

 単に「韓」だけならその地域名として理解できるが、

 「韓国」とわざわざ断っている。

 これはなぜか?。

 それは三韓に属さない「韓国」を経由するからなのである。

 そんなものがあるか?。

 それこそがお気付きのように狗邪韓国なのだ。

 このことから、
 
 過去に何の答えも出ていない

 「狗邪韓国」の所属も明かである。

 この国は三韓の国名には含まれていないから、

 明かに帯方郡にも入っていない。

 だから「倭の北岸」と書かれた。

 間違いなく倭国の領土だと認識して、

 はっきり「倭国の北の端の国」と明記したのである。

 だからそこは半島本土ではない。

 離れた島なのである。

 それが地名の訛りからみて、

 過去に風島(カゼシマ)などと呼ばれた巨済島であることは、

 狗邪は「古謝」という沖縄の地名と姓の発音「クジャ」そのものであり、

 巨済も今「コチェ」と発音されて古謝の韓音「コチェ」と一致し、

 種子島音でコザ(古座)。

 コをカと発音する大隅訛りだと狗邪も巨済もカゼになる事実から、

 今は巨済大橋で半島本土と陸続き状態になったが、

 3世紀には完全に本土から隔離して、

 独立国だった大島(だいとう)、

 巨済島であることは先ず間違いない。

 この例は『魏書倭人章』がどんなに細部まで、

 気をくばって書かれているかを物語る。

 島国1つもおろそかにせず所属を明確にしている。

 どこから見ても三韓は帯方の中にあったのである。

 「帯方郡使の出発点。帯方郡治の位置」
 
 するとここで初めて、

 帯方郡使が出発した帯方郡の役所の所在地、

 いわゆる「帯方郡治(ち)」はどこにあったか、

 という謎が解け始める。

 それは半島南半を治め、

 同時に魏との往来にも便利な場所でなければならない。

 車馬が少なく、陸行の困難な時代だから、

 半島の中央部でもだめ、東でもだめ、南半の中心に近く、

 西の海に出られる港でなければならない。

 なぜ港だとわかるか、それは帯方郡使の出発点を、

 ただ「郡より倭に至る」と書くだけで、

 「郡からどこの港へいって、そこから船出して…」と

 断らないから、郡(郡治=郡役所の所在地)が出発点で、

 そこが港でもあったとわかるからである。

 ではそれはどこだったのだろう?。

 郡の都だったのだから、地名にもそれが残るはずである。

 上記の条件に完全に合う地域に「群山」がある。

 群の字が違うが、

 そこは海岸で山の群れなどありはしないから、

 当て字にきまっている。

 とすれば群は郡の名残(なごり)、

 山は権力の中心「本山(ほんざん)」とみると、

 かつての帯方郡治(ち)の遺跡になる。

 そこは大河。

 「錦江」の河口にあり、

 鹿児島湾の別名

 「錦江(きんこう)湾」との密接な繋(つな)がりを語っている。

 そこは後(のち)の半島百済喪失の舞台、

 架空の白村江とされた場所でもあり、

 その北の背後地に半島百済の首都で王陵のある扶余(フヨ)がある。

 南の背後地には大屯山国立公庫地域があって

 公孫康の屯有県帯方郡を思い起こさせる。

 これ以上の帯方郡治候補地はない。

 「距難が立証した群山の正しさと京城説の崩壊」

 ではそれが正しいか間違いか、決定的な史料で判定してみよう。

 史料は『魏書倭人章』のコースと行程である。

 よくご記憶だから原文だけにしておこう。

 「郡至倭 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍未 

  到其北岸 狗邪韓国 七千余里」。

 この中でも最も強力な決め手が距離である。

 到着点の狗邪韓国は巨済島だから、

 それから約7000×55mの地域に群山があれば、

 帯方郡治の位置として正解である。

 当時の船は海岸に沿って進み、

 毎日、夜には停泊して、翌日、また沖へ漕ぎ出す。

 それを計算しながら海岸線を糸で辿って行くと、ほぼ400Kmある。

 7000×55mは 385km。これに「余里」を足すと、

 ぴったり一致していることになる。

 在来はこの帯方郡治を今のソウル(京城)付近だとして

 疑わなかったが、そこまでだと、

 もう200km以上遠くなるから、

 少なく見積もっても「一万余里」以上になる。

 絶対にソウルでなかったことはいうまでもない。

 この講座ではたびたび「定点」の重要さについてお話ししてきたが、

 終わりに際して、さらに強調して梯儁・張政の出発点。

 それは『魏書倭人章』の出発点でもある位置を

 意義あるものにして戴きたかったのである。

 こうして帯方郡使の倭国への出発点が確定すると、

 私たちの倭人尺は、

 『魏書倭人章』の距離記事の信頼牲を、

 絶対のものにしたということになる。

《参考》

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2014年8月24日日曜日

阿曇・安曇(118)『後漢書』東夷傳倭章(4)

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 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

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    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(118)『後漢書』東夷傳倭章(4)

 『後漢書』東夷傳倭章

 自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。

 自女王國南四千餘里至朱儒國。

 人長三四尺。

 自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。

 會稽海外有東鯷人、鯷音達奚反。

 分爲二十餘國。

 又有夷洲及洲。

 傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男女數千人入海、

 事見史記。求蓬莱神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、

 世世相承、有數萬家。

 人民時至會稽市。

 會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至sen[扁三水旁右檀]洲者。

 所在絶遠、不可往來。


 女王国から東へ海を渡ること千余里で狗奴国に至る。

 同じ倭の種族なのであるが、女王に属していない。

 女王国から南へ四千余里で朱儒国(こびとの国)に至る。

 人の背丈は三、四尺しかない。

 この朱儒〔国〕から船で東南へ行くこと一年で裸国・黒歯国に至る。

 使者や通訳を〔中国に〕伝える〔国〕は、ここにおいて極まるのである。

 會稽の海外には東鯷人(不詳)がいて、

 分かれて二十余の国をつくっている。

 また夷州および澶州もある。

 〔澶州は『史記』に〕「秦の始皇帝が、

 方術の士であった徐福を遣わし、

 童男・童女数千人を率いて海上に出、

 蓬莱の仙人を捜させたが、得ることができなかった。

 徐福は誅せられるのを畏れて帰還を諦め、

 〔澶〕州に止まった」と伝えられている。

 〔澶州には〕代々相承けてそれらの人たちの子孫が繁栄し、

 数万の家があって、

 人民が時として會稽郡にやって来て商いをする。

 會稽郡東冶県の人で、

 海に出たところ風に流されて澶州に行き着いたという者もあるが、

 あまりにも遠いので往来はかなわない。

 ※出典:YAMATO:184~186頁

 「天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫」

 このハ行とカ行の関係が理解できると、

 この「ホ」の国と、それをめぐる国々の国名が、

 何から生まれて、どう分裂して増えていったかが完全にわかる。

 沖縄語の「ク」は本土語の「コ」だとわかるから、

 高麗は「コマ=コ国(マ)」で、やはり同じ国だとわかる。

 この高麗は本来「コーライ・コーレイ・コーリー」などとと

 呼ばれていた。

 それはこの地方が3000年前には、

 古代世界で最大の貝貨幣・宝貝の産地で供給国だったが、

 そのため宝貝は今でもインド語で「コーリー」、

 学名も英語も「カウリー」と呼ぶ。

 産物の名の多くは、その生産地の地名と同じになるから、

 これは「高麗」が世界を代表する産地だったことを

 記録しているのである。

 そして、学名と英語の「カウリー」は、実は沖縄語なのだ。

 那覇(なは)と反対側の中城湾(なかぐすくわん)には

 「高離島」という島があって土地の人は

 それを「カウリー・ジマ」と呼んでいるのである。

 それは沖縄発音で、もとは「コーライ」だったことがわかる。

 なぜならすぐ隣りにある台湾は、秦の始皇帝のころから「

 蓬莱=ホーライ」島と

 呼ばれているからである。

 「ホ」と「コ」が入れかわっているだけであることは、

 ご説明しなくてもいいと思う。

 では「蓬莱」という漢字のついた台湾は中国領だったのだろうか?

 始皇帝はその島を神仙の住む別世界の仙境と信じて、

 「真人」になるために神薬を授かりに

 徐福らをその島へ派遣したのである。

 この「蓬莱」を徐福らの作り話だとする者が多いが、

 それは間違っている。

 それは実在し、徐福は場所も知っていた。

 彼は野蛮な独裁者・始皇帝の力を逆に利用して

 無事に中国を脱出する唯一の手段として、

 また万一の場合に備える「保険=人質」として、

 始皇帝の第三女ら多数の少年少女を連れて移住したのである。

 その子孫が首都を沖縄に移して大琉球と称し、台湾は小琉球になった。

 さらに種子島に移って女王国家「ホの国」を建国、

 南種子町の広田遺跡の墓に

 「山字文」の貝製装身具を残した。

 豊玉姫の伝統は弥生時代からのものだったのである。

 その後の足取りは、大隅の「襲(ソ)」という

 別名と「徐(ソ)」は同じ発音だから、

 そこが「徐の国」だったことがわかり、

 『日本書紀』と『三国史記』の記事で、

 さらに多数の証拠が見つかる。

 写真の「天慧甗(テンエゲン)」もそこに伝えられて実在する。

 天武天皇はその子孫の一人だったから、

 あれほどまでに「ヤマト=仙」にこだわり、

 それを国教にし、国名にしたのである。

 では元の名の「ホーライ」とは何だったのか?

 それは台湾の先住民・ギリシャ人の神話に出てくる

 大神ゼウスの娘で三人姉妹の

 「季節の女神(ホーライ)」のことである。

 台湾はギリシャ以上に温暖な気候と豊富な果物に恵まれた仙境だから、

 季節の女神の島と呼ばれたのだ。

 「徐福が運んできた天慧甗」

 この徐福の徐は与や邪の字と全く同じ発音で、

 与那国がギリシャ人を意味している通り、

 イオニア系ギリシャ人だった。

 だから「与ナ」は国をマという人には「邪マ」と書かれた。

 邪馬壹国もギリシャ人の国という意味なのである。

 その「徐」は「ソ」とも発音する人々がいた。

 韓国のソウルも「徐伐」と書かれている。


 そのソの国は今の大隅地方で、

 そこにこの中国・秦の時代に作られた徐の国製だと銘記された

 銅器が現代まで宝として

 伝世してきたのである。

 『天孫降臨』の一部に

 この「ソの国」を「添」とか「曾堡里」とか当て字しているのは、

 内容とは別の史料として重要な意味をもっている。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2014年8月23日土曜日

阿曇・安曇(117)『後漢書』東夷傳倭章(3)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(117)『後漢書』東夷傳倭章(3)

 『後漢書』東夷傳倭章

 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。

 光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。

 有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。

 侍婢千人、少有見者、唯有男子一人給飮食、傳辭語。

 居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衞。

 法俗嚴峻。


 〔後漢の光武帝〕建武中元二年(57)、

 倭奴国〔王が遣使して〕貢物を奉り朝賀した。

 使者は大夫と自称した。

 〔倭奴國は〕倭國の最南端である。

 光武帝は〔倭奴國王に〕印綬を与えた。

 安帝の永初元年(107)、

 倭國王帥升らが、生口百六十人を献上して、

 皇帝の接見を求めた。

 〔後漢末の〕桓帝、靈帝の治世(147~189)に、

 倭国はたいへん混乱し、たがいに戦い、

 何年もの間〔倭国の〕主なき有様であった。

 〔時に〕一人の女子がいた。

 その名を卑弥呼といい、

 すでにかなりの年かさでありながら未婚で、

 鬼道を用いてよく人々を妖惑していた。

 そこで〔卑弥呼は〕婢千人を傅かせ、

 その姿を見た者は稀である。

 ただ一人の男子が、飲食を供給し、

 言葉を伝えている。

 〔卑弥呼が〕居る処の宮室・楼観・城柵はみな、

 武装した者たちが守備しており、

 規律は極めて厳格である。

 ※出典:異説・日本古代国家:223~225頁

 「スサノオは1世紀に実在」

 この宮之城の名は、もう一つ別の古代史の謎を解いてくれる。

 「後漢書、東夷伝」によると

 「倭面土」国王の帥升が漢の安帝に会見を申し入れた、とあった。

 この国名をヤマトと読むなど諸説があるが、当時の漢文の原則は、

 漢委奴国王の金印でも証明される通り、

 母国名→属国名の二重表示になっており、

 漢の委奴国、倭の面土国と明確に記して、

 村名なしで大字(あざ)小字をいきなり書くようなことは許されない。

 倭が当時の日本の国号である以上、

 これは切り離して読むのが常識である。

 では面土はどう読むか?

 これは後漢の正史であるから漢音で読まねばならない。

 六朝音や呉音で読んでは正しい答えが出るはずがない。

 それは漢音では面(ミャン)、土(ヅゥ)となる。

 これは鹿児島方言の宮之城(ミヤンジュ)に当てた発音としては、

 類を見ない程に完璧な文字であることがわかる。

 当時の倭国内だけでなく、

 現在の日本地名に至る全国の地名を調べてみても、

 ミヤンヅゥに当てはまるものは宮之城以外にない。

 また観点を変えてみても、高句麗、新羅を生み出した倭の中心、

 川内王朝とでも名づけるものの中心地である。

 その王が一大部隊を引きつれて、漢の皇帝に会いに、

 はるばる長安まで大旅行を敢行することができた背景も納得が行く。

 これまでの想像説のように正体不明の一小国王が、

 実行できることではなかったのである。

 では帥升も漢音で読まねばならない。

 これは帥(スイ)升(サヌグ)で、

 これまたスサノウと聴きとれる音になっている。

 音だけでは証拠不充分だが、非常に肉迫していることは疑えない。

 これは充分証拠集めをしてみる価値がある。

 さきの修家(スカ)もその一つだが、さらに史書に幾つも見つかる。

 「勾麗第一番目の都は卒本扶余で、今の成川であったが、

  高朱蒙の子、瑠璃王の代に都を国内城に移し、

  慰那厳に都城を築いた」

 と明記している。

 もう一つは、さきに見た佟江の別名”塩難水(エナミ)”である。

 これも<イミ>が訛ったものと充分考えられる。

 さらにもう一つ。

 ”佟江”というのは、

 冬(トウ)あるいは凍(トウ)をあててもいいもので、

 古語の氷(スガ)を意味した可能性があること。

 というのは、『大韓彊域考』という文献によれば、

 「卒本の故地は今の開原県の東南二水を捗った処にあったと思われ、

  考えるに県の南十余里に”清河”あり云々」とあり、

 半島北部から鴨緑江を越えた土地にも、

 卒本と清河(スガ)とのセットが見られるからである。

 こんな風に、地名の移動を調べる場合、

 このセットになった地名は非常に有力な手がかりと証拠になる。

 それは人名の場合と同じく数が増せば増すほど、

 偶然でない証拠が増すからである。

 これだけ証拠がそろってくると、

 出雲神話の圧巻、

 ヤマタの大蛇退治の舞台が、イナのスガの地、

 すなわち国内(コウチ)城、現在の宮之城であり、

 それが倭の面土国であり、帥升王がスサノオであることが、

 もうひと押しであることを、

 ひしひしとお感じになっていらっしゃるであろう。

 そのひと押しをしてみよう。

 それは出水はどうなるのか?

 ということなのである。

 これは成川を朝鮮半島にあったと思いこんだりしているが、

 それは高句麗は半島にしかないと思いこんでいる、

 先入感のなせる業(ワザ)で仕方がないとして、

 ここに新しく登場した慰那(イナ)の地名は、

 スサノオの本拠地であった葦名(イナ)と完全に一致するのである。

 このイナガンは地名であるから、

 ガンは語尾に<上>または<神>がついた時の

 鹿児島方言であるとして大きな間違いはない。

 ここで注意を要するのは国内城を瑠璃王が築いたのではなく、

 それは以前からあったのであり、都を、

 その国内城を中心にして稲上、

 または井之上といった地区に建設したというのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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