2014年3月29日土曜日

自治権まで奪われた辰韓王の大反乱


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:7頁

 卑弥呼が魏に初めて遣使した前後のようすを見ておこう。

 『魏書・韓章』はこう書く。

 「景初中 明帝は 密(ひそか)に 

  帯方太守の劉昕(リウキ)と 

  楽浪太守の鮮于嗣(センウシ)を

  派遣して 海を越えて二郡を 定めた」

 「部従事(役職名)の 呉林(ゴリン)は 

  もと楽浪が 韓国を 統べていたので

  (自分に権限があると思って) 

  辰韓の八国を 分割して 楽浪に 与えた 史の訳は

  転じて 異同が有り 臣濆沽(シホコ)韓は 忿って 

  帯方郡の 崎(キ)離宮 攻めた

  (帯方)太守の弓遵(ジュン)と 楽浪太守の劉茂(リウモ)は

  兵を 起こして これを伐ったが

  遵は 戦死した(しかし)二郡は 遂に 韓を 滅ぼした」

 おわかりのように、支配権は帯方郡にあったのだ。

 だが通訳の説明がまずくてそのやり方に腹を立てた

 辰韓のシホコ王が激怒して武力に訴えた。

 2郡の太守はこれを迎え討ったが、

 結局、帯方郡太守が殺されたので、

 三韓は自治権も剥奪(はくだつ)されて完全に魏の領土になってしまった。

 これで、どんな経緯で三韓が帯方郡に編入され、

 ついにはどんな地位に陥ちたかが、

 よくおわかり戴けたと思う。

 仮に支配潅がないのに

 呉林(ゴリン)が勝手にそんなことをしたのなら、

 それは魏の皇帝にたいする越権であり、
 
 2郡の反撃は韓に対する「侵略」だから、

 魏政府に訴えれば是正し抑止されるので、

 シホコは武力に訴える必要などなかったのである。

 《自治権まで奪われた辰韓王の大反乱
 「自治権まで奪われた辰韓王の大反乱

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 《参考:年表・資料》 

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