2015年7月8日水曜日

『晋書』②

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」


 ※出典:古代史獺祭

 ≪晋書≫

 唐 房玄齢(578~648)撰述。

 西晋(265~316)~東晋(317~420)の104年間を記した正史。

 紀十卷、志二十卷、列伝七十卷、載記三十卷の全百三十卷。


 晋書 卷八十二 列傳第五十二 より 陳壽

 卷八十二 列傳第五十二 より 陳壽

 『三国志』の撰者、陳壽の伝記である。

 陳壽 字承祚 巴西安漢人也 少好學 師事同郡譙周 仕蜀爲觀閣令史

 宦人黄皓專弄威權 大臣皆曲意附之 壽獨不爲之屈 由是屢被譴黜

 遭父喪 有疾 使婢丸藥 客往見之 郷黨以爲貶議 及蜀平

 坐是沈滯者累年 司空張華愛其才 以壽雖不遠嫌 原情不至貶廢

 舉爲孝廉 除佐著作郎 出補陽平令 撰蜀相諸葛亮集 奏之 除著作郎

 領本郡中正 撰魏呉蜀三國志 凡六十五篇 時人稱其善敍事

 有良史之才

 夏侯湛時著魏書 見壽所作 便壞己書而罷 張華深善之 謂壽曰

 當以晉書相付耳 其爲時所重如此 或云丁儀・丁有盛名於魏

 壽謂其子曰 可覓千斛米見與 當爲尊公作佳傳 丁不與之 竟不爲立傳

 壽父爲馬謖參軍 謖爲諸葛亮所誅 壽父亦坐被 諸葛瞻又輕壽

 壽爲亮立傳 謂亮將略非長 無應敵之才 言瞻惟工書 名過其實

 議者以此少之

 張華將舉壽爲中書郎 荀勖忌華而疾壽 遂諷吏部遷壽爲長廣太守

 辭母老不就 杜預將之鎮 復薦之於帝 宜補黄散 由是授御史治書

 以母憂去職 母遺言令葬洛陽 壽遵其志 又坐不以母歸葬 竟被貶議初

 譙周嘗謂壽曰 卿必以才學成名 當被損折 亦非不幸也 宜深慎之

 壽至此 再致廢辱 皆如周言 後數歳 起爲太子中庶子 未拜

 元康七年 病卒 時年六十五 

 梁州大中正・尚書郎范頵等上表曰 昔漢武帝詔曰 司馬相如病甚

 可遣悉取其書 使者得其遺書 言封禪事 天子異焉 臣等案

 故治書侍御史陳壽作三國志 辭多勸誡 明乎得失 有益風化

 雖文艷不若相如 而質直過之 願垂採録 於是詔下河南尹・洛陽令

 就家寫其書 壽又撰古國志五十篇・益都耆舊傳十篇 餘文章傳於世

 陳壽(ちんじゅ)。

 字(あざな)は承祚(しょうそ)。

 巴西安漢の人なり。

 少(わか)くして好學、同郡の譙周(しょうしゅう)に師事す。

 蜀に仕(つか)えて觀閣令史と爲る。

 宦人の黄皓(こうこう)は專ら威權を弄(ろう)し、

 大臣は皆意を曲げてこれに附すも、壽は獨りこれが爲に屈せず。 

 これに由りて屢(しばしば)譴黜(けんちゅつ)を被る。

 父の喪に遭いて疾有り、婢をして藥を丸せしむ。

 客の往きてこれを見、郷黨は以って貶議(えんぎ)を爲す。

 蜀の平らぐるに及び、これに坐し沈滯すること累年。

 司空の張華(ちょうか)はその才を愛し、以(い)えらく、

「壽は嫌に遠からずと雖ども、

 情を原(たず)ぬれば貶廢(へんはい)に至らず」と。

 舉げて孝廉と爲す。

 佐著作郎に除せられ、出でて陽平令に補せらる。

 蜀相の『諸葛亮集』を撰し、これを奏す。

 著作郎に除せられ、本郡の中正を領す。

 『魏呉蜀三國志』を撰す。

 凡て六十五篇。

 時の人、その善く事を敍し、良史の才有りと稱す。

 夏侯湛(かこうたん)は時に『魏書』を著わすも、

 壽の作る所を見て、

 便(すなわ)ち己が書を壞(こぼ)ちて罷(や)む。

  張華(ちょうか)は深くこれを善として、壽に謂いて曰く、

 「當(まさ)に『晉書』を以って相付すのみ」と。

 その時の重んずる所と爲すはかくの如し。

 或いは云う、

 「丁儀(ていぎ)・丁(ていよく)は盛名を魏に有す」と。

 壽はその子に謂いて曰く、

 「可(も)し千斛(せんと)の米を覓(もと)めて

 與(あた)うられれば、當(まさ)に尊公の爲に佳傳を作るべし」と。

 丁はこれを與(あた)えず、竟(つい)に爲に傳を立てず。

 壽の父は馬謖(ばしょく)の參軍と爲り、

 謖は諸葛亮(しょかつりょう/=諸葛孔明)の誅する所

 (=『泣いて馬謖を斬る』という有名な出来事)と爲るや、

 壽の父もまた坐して(こん)せらる。

 諸葛瞻(しょかつせん/孔明の子)はまた壽を輕んず。

 壽は亮の爲に傳を立てて、

 「亮は將略長にあらずして、敵に應ずる才無し」と謂い、

 「瞻(せん)は惟(た)だ書に工(たく)みなるも、

 名はその實に過ぐ」と言う。

 議者はこれを以ってこれを少なしとす。

 張華(ちょうか)は將(まさ)に壽を舉げて

 中書郎と爲さんとするも、

 荀勖(じゅんきょく)は華(=張華)を忌みて

 壽(=陳壽)を疾(にく)む。

 遂に吏部に諷して壽を遷して長廣太守と爲すも、

 母の老たるを辭して就かず。

 杜預(どよ)は將に鎮に之(ゆ)かんとするや、

 またこれを帝に薦め、「宜(よろ)しく黄散に補すべし」と。

 これに由りて御史治書を授けれるも、

 母の憂(も)を以って職を去る。

 母は遺言して洛陽に葬らしめ、壽はその志に遵(した)がう。

 また母を以って歸葬せざるに坐し、

 竟(つい)に貶議(ほうぎ)を被る。

 初め、譙周(しょうしゅう/前出。陳壽の師)は嘗て壽に謂いて曰く、

 「卿は必ず才學を以って名を成さんも、

  當(まさ)に損折(そんせつ)を被らん。

  また不幸に非ずや。宜しく深くこれを慎しむべし」と。

 壽のここに至り、再び廢辱に致るは、皆周の言の如し。

 後、數歳。

 起ちて太子中庶子と爲るも、未だ拜さずして、元康七年、病に卒す。

 時に年六十五。

 梁州大中正・尚書郎の范頵(はんきん)等は上表して曰く、

 「昔、漢の武帝は詔して曰く、

 『司馬相如(しばしょうじょ)は病い甚だし。

  悉くその書を取らしむべし』と。

 使者はその遺書を得るに、封禪の事を言う。

 天子は焉(これ)を異とす。

 臣等案ずるに、故(もと)の治書侍御史の陳壽は『三國志』を作り、

 辭は勸誡多く、得失に明らかなれば、風化に益有り。

 文艷は相如に若(し)かずと雖ども、而して質直はこれに過ぐ。

 願わくは採録を垂れんことを」と。

 ここに於いて詔して河南尹・洛陽令に下し、

 家に就(ゆ)きその書を寫(うつ)さしむ。

 壽はまた『古國志』五十篇・『益都耆舊傳』十篇を撰す。

 餘の文章も世に傳わりたり。


 晋書 卷九十七 四夷伝 倭人

 卷九十七 列傳第六十七 四夷 東夷 倭人

 倭人在帶方東南大海中依山島爲國 地多山林无良田食海物

 舊有百餘小國相接 至魏時有三十國通好

 戸有七萬 男子无大小悉黥面文身 自謂太伯之後

 又言上古使詣中國皆自稱大夫

 昔夏少康之子封于會稽斷髮文身以避蛟龍之害

 今倭人好沒取魚亦文身以厭水禽

 計其道里當會稽東冶之東
 
 其男子衣以横幅但結束相連略无縫綴 婦人衣如單被穿其中央以貫頭

 而皆被髮徒跣

 其地温暖俗種禾稻紵麻而蠶桑織績 土无牛馬 有刀楯弓箭 以鐵爲鏃

 有屋宇父母兄弟臥息異處 食飮用俎豆 嫁娶不持錢帛以衣迎之

 死有棺无椁封土爲冢 初喪哭泣不食肉 已葬舉家入水澡浴自潔以除不祥

 其舉大事輙灼骨以占吉凶

 不知正歳四節但計秋收之時以爲年紀

 人多壽百年或八九十

 國多婦女不淫不妬无爭訟 犯輕罪者没其妻孥重者族滅其家

 舊以男子爲主 漢末倭人亂攻伐不定 乃立女子爲王名曰彌呼

 宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶

 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢

 倭人は帶方東南大海の中に在り、山島に依りて國を爲す。

 地に山林多く、良田无く、海物を食す。

 舊、百餘の小國相接して有り。

 魏の時に至り、好を通ずるに三十國有り。

 戸は七萬有り。

 男子は大小と无く、悉く黥面文身す。

 自ら太伯の後と謂う。

 又、上古使の中國に詣るや、皆自ら大夫と稱すと言う。

 昔、夏少康の子會稽に封ぜられしに斷髮文身し以って蛟龍の害を避く。
 今、倭人好く沒して魚を取り、亦た文身は以って水禽を厭わす。

 其の道里を計るに、當に會稽東冶の東たるべし。
 
 其の男子の衣は横幅にして、但だ結束して相連ね、

 略ぼ縫い綴ること无し。

 婦人の衣は單被の如く、

 其の中央を穿ち以って頭を貫く。

 皆、被髮し徒跣なり。

 其の地は温暖にして、俗は禾稻紵麻を種え、蠶桑織績す。

 土に牛馬无し。

 刀、楯、弓、箭、有り。鐵を以って鏃と爲す。

 屋宇有りて、父母兄弟臥息處を異にす。

 食飮に俎豆を用う。

 嫁を娶るに錢帛を持たず、衣を以って之を迎う。

 死には棺有りて椁无し。

 土を封じて冢と爲す。

 初め喪するや、哭泣し、肉を食さず。

 已に葬るや、家を舉げて水に入りて澡浴自潔し、以って不祥を除く。

 其の大事を舉するに、輙ち骨を灼き以って吉凶を占う。

 正歳四節を知らず、但だ秋に收むるの時を計りて以って年紀と爲す。

 人多く壽は百年、或は八九十。

 國に婦女多く、淫せず妬せず、爭訟无し。

 輕き罪を犯す者は其の妻孥を没し、重き者は其の家、族を滅す。

 舊、男子を以って主と爲す。

 漢の末、倭人亂れ攻伐して定まらず。

 乃ち女子を立てて王と爲す。

 名を彌呼と曰う。

 宣帝、公孫氏を平ぐるや、其の女王、使を遣し帶方に至り朝見す。

 其の後、貢聘絶えず。

 文帝、相と作(な)るにおよび、又、數至る。

 泰始の初め、使を遣し譯を重ねて入貢す。

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