2014年2月11日火曜日

八咫烏(ヤアタガラス)で明確になった神武東征の真相


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:25頁

 これで神武東征の実態がお見えになったと思う。

 神武天皇が日向の高千穂の宮から出発して奈良を征服したというのは、

 いまも隼人町に残る高千穂の宮跡から奈良へ東征した、

 倭と海人(ハヤト)王の天武天皇が、

 自己の業績を最大限に活用して、

 紀元前660年に神武天皇が日本国を

 肇国(ちょうこく)したという唐向け謀略用の歴史を、

 創作して巻頭に追加したものだったのである。

 その証拠は1つで充分だ。

 それは彼を先導した「ヤタガラス」の名である。

 この名は在来、ヤタガラスと発音することを強制されてきたが、

 その文字は「頭八咫烏」で、

 頭の字は従来も発音しないように、

 これは「かしら」という意味で、名の中に入れるものではない。

 咫の字の発音姓「タ」ではなく「アタ」で、

 「八咫」は発音「ヤアタ」への当て字である。

 ではヤアタとは何か?。

 それこそ大阪に長く住んでいて地理に詳しいので、

 天智天皇軍を攻撃する戦いの道案内をしたコオロギさんたちの一族、

 霧島で雌伏(しふく)していた八幡徒(ヤマト)たちだったのだ。

 だから「八咫(ヤアタ)」は八幡(ヤマト)への当て字で、

 その実体は山人である。

 道案内というのは、あくまで天武天皇の視点であって、

 実際は天武を担いだ山人たちの復讐戦だったのだ。

 最初の八幡(ヤマン)は3世紀の壹與時代の人で、

 もう一人の八幡(ヤマン)は4世紀。

 天武を担いだ八幡徒(ヤマト)は7世紀の人たち。

 我が国のヤマトは2世紀の奈良とも、

 卑弥呼とさえも無関係だったのである。

 《八咫烏(ヤアタガラス)で明確になった神武東征の真相
 「八咫烏(ヤアタガラス)で明確になった神武東征の真相

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