2014年2月2日日曜日

なぜ「奴国(ノマ)」が「山門(ヤマト)」になったか


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:16頁

 その誤解をさらに助長するのは、

 江戸時代に輸入した、

 京都の祇園(ぎおん)、

 飛騨(ひだ)の高山、

 博多の祇園山笠の、

 3大曳(ひ)き山祭(やままつ)りを始めとする、

 山車(ダシ)などを使う全国的な「ヤマ祭礼」が、

 全てインドや東南アジア一帯にみる

 シンドゥ祭礼そのものだからである。

 もちろん古代のものも共通点は多い。

 それは大隅岩川町の「弥(や)五郎どん祭り」を最古に、

 次第に全国的に広まっていったものだが、

 それを行なう宗教の中枢が、

 応神天皇を主祭神とする八幡信仰だった。

 これはオオヒルメが八幡をつれて大隅へきたという伝承をもつが、
 
 実体は狭穂姫の生んだ垂仁天皇皇子・本都別で、

 壹與時代に福岡へ移動した奴国(ノマ)生まれである。

 その遺跡・野間(ノマ)は今も中種子の中心であり、

 この野間が本来の「野間(ヤマ)」すなわち本山の位置にあった。

 しかし卑弥呼時代にはそこは奴国(ノマ)と呼ばれていた。

 ヤマと読まれるようになったのは、

 その奴国か邪馬壹国誕生と同時に福岡県に大移動して、

 人口2万戸の超大国・奴国が生まれた時よりも、

 さらに後世のことである。

 それが今も残る山門(ヤマト)郡という地名を生んだのだから、

 これは奄美のヤマトが先ずあり、

 それから分かれた野間(ヤマ)がその当て字によってノマとして区別され、

 それが福岡へ移動した後に旧名を嫌ってヤマを復活し、

 それが後に山人(ヤマト)の国という山門郡の名を生み、

 以後さらに分裂して北東に「山国(ヤマグニ)」を作り、

 八幡(ヤワタ)を作った。

 《なぜ「奴国(ノマ)」が「山門(ヤマト)」になったか
 「なぜ「奴国(ノマ)」が「山門(ヤマト)」になったか

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 《参考:年表・資料》 

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