2014年2月6日木曜日

倭の五王は卑弥呼政権の後継者ではない


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:20頁

 私たちはすでに仁徳天皇系が倭の五王で、

 四国→淡路島経由で

 大坂・奈良に入ったことを知っている。

 しかし彼らは「倭王」を名乗っているが、

 明確に男王制の武装集団で、

 卑弥呼の仏教政権と対立する異質のものである。

 それを証明するものは沢山あるが、

 1つでわかるものがある。

 それは地名だ。

 彼らが卑弥呼政権の後継者なら必ず命名したはずの

 首都名それは巴利国である。

 それが大分県から奈良県までの倭の五王コースに全く見られない。

 その代わりの地名が長谷・初瀬で、それは百済への当て字であり、

 その末路が出雲の佐田の大神だったから、

 彼らは間違いなく

 百済出雲(ポセイドン)教徒だったのである。

 ではそれ以外のグループがあったのか?。

 あった。

 証拠は巴利国が、四国コースではなく、

 兵庫県に「播磨=巴利国」を残したことで、

 その一派は山陽道を進んだのである。

 それは誰だったか。

 『記・紀』は共に「神功皇后」が難波まで「還(かへ)ろうとして」

 仲哀天皇の先妻の皇子、

 香坂(カゴサカ)・忍熊(オシクマ)2皇子と戦った話を載せている。

 『日本書紀』はさらに詳しく

 播磨・赤石(明石)・住吉・紀伊の水門(みなと)などの地名を挙げている。

 もつともこのコースは卑弥呼や壹與の事跡としては真実ではないと、

 すでにお話し済みだが、

 皇后を祖神にいただくグループが移住し、

 命名したことは疑いない。

 それは明らかに女王制の倭人たちである。

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 《参考:年表・資料》 

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