2014年10月17日金曜日

太田道潅の江戸築城


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「太田道潅、徳川家康の築城により移転された稲荷神社」

 ≪太田道潅の江戸築城≫

  太田道潅は永享4年(1432)

 扇谷上杉氏の家臣太田資清(道真)の子として生まれた。

 幼名を鶴千代、名は資長といい、道潅と号したのは、

 「太田道潅状」によりと48歳以後のことらしい。

 この道潅によってかっての江戸氏の居館の地に江戸城が築かれた。

 康生2年(1456)に築城が開始され、

 翌長禄元年(1457)には一応の完成をみたという。

  城主道潅は優れた文化人であったため、

 江戸城内でしばしば文雅の集まりが催され、

 文明6年(1474)6月17日の歌合会は

 「武州江戸歌合」としてよく知られている。

 また、禅僧蕭庵竜統や万里集九も江戸城を訪れている。

 彼等の書き残した

 「寄題江戸城静勝軒詩序」や「静勝軒銘詩并序」などによれば、

 当時の江戸城は、

 江戸期の江戸城の本丸とその周辺にあたる小規模なものであり、

 子城・中城・外城と称される3つの独立した郭に区切られ、

 郭と郭の間は深い濠が掘られ、橋によって結ばれていたという。

 江戸城は、川越・岩槻両城(いづれも埼玉県)とともに

 扇谷上杉氏の拠点となり、

 上杉氏の家宰道潅は江戸城に拠って勢力を広げたが、

 文明18年に主家である扇谷上杉定正に謀殺された。

 以後、江戸城には扇谷上杉氏が入ったが、

 大永4年(1524)、道潅の孫、太田資高・康資父子が

 主家扇谷上杉朝」興にそむき、当時武蔵に侵攻しつつあった

 小田原北条氏に内応したため、江戸城は北条氏綱の手中に落ちた。

 ≪江戸城の普請≫  

  徳川家康が入城した当時の江戸城は、

 のちの本丸・三の丸・大手門にまたがる範囲にあたり、

 「町屋なども茅葺きの家百ばかりも有るかなしかの体、

  城もかたちばかりにて、城の様もなく」(聞見集)

 というありさまであった。

 また、現在の日比谷・霞が関・田町・新橋(いずれも港区)を

 結ぶ線上に江戸湾の海岸線があり、

 日比谷入江も大手門に向って入り込んでいた。

 一方、日比谷・霞が関から赤坂(港区)方面にかけて

 数本の枝条の浅い河流があり、四谷(新宿区)方面から

 流れる小川の水が、

 赤坂・永田町辺りでよどんで溜池をつくっており、

 千代田区域南東部の大半は遠浅の入江と沼沢地・低湿地であった。

  天正18年8月、徳川家康は江戸城に入城すると、

 直ちに軍事物資輸送のため、道潅時代につけかえられた

 平川河口(日本橋川下流)から江戸城に通じる道三堀を開削、

 堀沿いに舟町・柳町・四日市・材木町などの町割を行った。

 家康による江戸城拡張工事はやや遅れ、

 豊臣秀吉の全国平定が終了した文禄元年(1592)西の丸築造から始まった。

 本多正信の指揮の下に行われた工事によって

 西の丸が郭内に組み入れられ

 堀開削の揚げ土は低湿地の埋立てに用いられた。

 この工事は、同3年伏見城(京都府)築城工事が

 徳川氏に課せられたため、一時中断した。

 慶長3年(1598)豊臣秀吉が死去し、

 次いで同5年の関ヶ原の戦いの結果、

 政権は豊臣氏から徳川氏に移り、

 同8年家康が征夷大将軍に任命されて幕府を開くと、

 江戸城は全国の政治中心となった。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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