2015年1月12日月曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承②


 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫

 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭
 浅草神社

 1.神社の沿革

  ◎祭神

   祭神は

    土師真中知命(ハジノマツチノミコト)

    檜前浜成命(ヒノクマハマナリノミコト)

    檜前竹成命(ヒノクマタケナリノミコト)

   の三神を主座神とし、徳川家康と大国主命を合祀する。

  ◎社名

    昔は俗に三社権現と云われていたが、

   明治元年に三社明神社と改められ、

   同5年10月11日に郷社に昇格し、

   更に翌6年2月浅草神社と改められた。

    当社の社紋の三つ網の紋は土師氏並びに檜前氏の家紋、

   葵は東照宮即ち徳川家の家紋である。


  ◎起源

    浅草神社の起源については、明確な資料がなく、

   その創建時代を確定することは不可能であるが、

   権現思想との関係から、本地垂述説が流行しだした、

   平安から鎌倉時代以降ともみられ、

   網野宥俊氏もその著『浅草神社の今昔』(昭和38年刊)の

   中に於いて

   「今より650年から700年前の創建と推考することにおいて

    一応異論はない様に思われる」と云われている。

  ◎由来

    神社関係の古述としては『藤原煌窩文集』や

   『本浅神社考』(林羅山著)の二書に、

   三社権現に関する記述があり徳川時代の書物は

   大体この書の伝承をそのまま伝えているが

   これは浅草寺縁起に

   見える浅草権現示現の伝承とほぼ一致している。

   即ち推古天皇の36年3月18日(陽暦4月30日)、

   春日うららかなる朝まだき、猟師の檜前浜成、竹成兄弟が、

   浅草浦(今の隅田川)で漁労に精を出していたが、

   その日に限り一匹の漁もなく、

   投網にかかるのはただ人型の像だけで、

   始め兄弟は観音像であることを知らず、

   幾度か像を海中に投げ捨て、

   何度場所を替えて網を打ってもかかるのは

   不思議と人型の像だけなので、

   最後には兄弟も不思議に思い、

   その尊像を奉持して今の駒形から上陸し、

   エンジュの切株に安置して、

   当時郷士の文化人であった土師真中知に

   この日の出来事を語り、

   一見を請うたところ、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして、

   自らも帰依の念深仏体であることを告げて、

   諄々との功徳、おはたらきにつき説明する所があった。

   兄弟の者は始めてきく観音の現世利益仏であることを知り、

   何となく信心のもようされて、深く観音を念じ、名号を唱え、

   吾ら猟師なれば、

   漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、

   明日はよろしく大漁を得さしめたまへ、と厚く祈念して、

   翌19日再び網を浦々に打てば、

   願いの如く船中に魚くづ満ちて、

   大漁を得、土師真中知は間もなく剃髪して沙門となり、

   自宅を改めて新構の寺となし、さきの観音像を奉安して、

   供養護持のかたわら郷民の教化に

   生涯を捧げたというのが、

   『浅草寺縁起』伝承の起こりとなっている。

   『承応縁起』による真中知の没した

    (舒明天皇の11年(639)3月18日)後、
  
   間もなくその嫡子が観世音の夢告を蒙り、

   「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、

    故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、

    その感得供養の力は賞すべきなり。

    即ち観音堂の傍らに神ととして親達を鎮守主すべし、

    名づけて三社権現と正氏、いつき祀らば、

    その子孫、土地と共に繁栄せしむべし」

   といった意味の告示があって、

   ここに三社権現社が創建された様になっている。

   これによると三社の創建は

   今を去る1357年にの昔と云うことになるが、

   これは少々無理の様で、文中に見える「権現」の初見すら、

   既に承平年中(923~937)であり、

   『応永縁起』に於いて土師真中知を阿弥陀如来の化現とし、

   檜前浜成を観世音菩薩、檜前竹成を勢至菩薩の

   夫々化現としている事からも平安末期から鎌倉へかけて

   仏教普及の一つの方便として、

   仏が本であり、神は仏が権(か)りに姿を現じたものである、

   とする権現思想が流行し出した以後に於いて、

   上記の三氏の末孫が宗祖のあまり郷土神として

   祀ったものであろうと推定される。

  ◎社家

    三社権現の祭神の子孫は代々僧形で、

   浅草寺及び浅草神社に奉仕し、

   いわゆる社僧として三社の社務を分掌していた。

   土師氏の子孫は専当坊、浜成の子孫は斎当坊、

   竹成の子孫は常当坊と称し、世に浅草寺三譜代と唱え

   明治維新にまで至ったが、

   折りしも神仏分離の政策に当たり、

   専当坊長夷は復飾して土師内膳と改め、

   純然たる三社の神職となった。

   現宮司の矢野泰良氏はこの土師氏62代に当たる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿