2012年1月17日火曜日

3世紀より前に入った「呉音」



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録03:17~18頁

 3世紀より前に入った「呉音」

 そのもう一例は

 『魏書倭人章』や『記・紀』『風土記』ともその他の文献とも無関係な、

 「漢字の発音」である。

 ご存じの通り漢字の読み方には中国式の発音で読む「音読」と、

 日本式の発音で読む「訓読」とがあるが、

 そのうちの中国式の発音にもまた幾種類もある。

 現代の発音は北京語が標準語で、

 広東語や福建語が南中国語として広く使われている。

 このうち南中国語は今も古代と大差ないが、

 北方の標準後は政権が変わる度に極端に変化してきた。

 それは異なった国語を話す人々によって政権が奪われると、

 その新しい支配者の発音が標準語になるためで、

 こちらは紀元前後の「漢魏音」と

 6世紀以後の「隋唐音」と

 17世紀以後の「北京音」とに

 大別されるように、同じ漢字でも発音がまるで異なる。

 そのことは本講座に毎回おつけしている

 カールグレン・リストでよくこ理解戴いていると思う。

 南中国語が古代と大差ないのは、この標準語の交替がないためで、

 日本の方言が古代語の面影を今も止どめているのと同じ事である。

 ただ日本の場合、その南中国語には入るがそれとはまたかなり異なった

 「呉音」が常識化して使われている。

 うっかりしているとそれが呉音であることに気づかない場合が多いほどである。

 たとえば兄弟は「ケイテイ」と「キョウダイ」というふた通りの発音がある。

 後が呉音で仏教用語はこれである。

 「声・姓・生・精=セイ=ショウ」

 「名・命=明・冥=メイ=ミョウ」

 「鹿・境・競・経=ケイ=キョウ」

 「九・久・丘・宮=ク=キュウ」

 などはよくご存じである。

 これらの呉音は従来、中国の呉(長江河口南部の地域)から

 「仏教用語」として日本に伝わったものとされてきた。

 だが、これまでお話したような数々の証拠があるので、

 倭人が間違いなく仏教徒だとわかった後では、それは疑問になる。

 なぜなら、卑弥呼とほぼ同時代の人、

 呉の支配者、孫竪と孫権の父子の時代には呉には仏教はなく、寺もない。

 倭人のほうが先に仏教徒だったから

 「仏教用語」として入ったというのは確実に間違いである。

 また卑弥呼が仏教徒だったという最大の証拠として

 鹿児島県の大隈地方に現代まで残った

 「ヒメコサア=卑弥呼様=観音講」が立証しているように、

 彼女の鬼道が、東アジアと日本における観音信仰の最初のものだとしないと、

 12世紀の朝鮮半島の高麗王朝時代に、

 朝鮮の正史『三国史記』の

 編集者・金富軾が中国へ使節として行ったとき、

 「近くにあなたの国から来た宗教の寺がある」

 と教えられたので訪れてみると、

 観世音菩薩が祭られていたので

 「あれは日本の宗教で、朝鮮のものではない」と

 教えたという記録が理解できない。

 観音は中国から「南海の普陀落」にいる古仏である。

 そこは沖縄周辺であり、

 フダラは中国語の癖を知ると「クダラ」だとわかる。

 普陀落伽山は後世の寺名にすぎない。

 どこからみても仏教は鬼道が呉へ伝わったものが栄えたために、

 呉音が仏教用語になったのである。

 『参考』
  ウワイト(倭人)大学院講義録 

 『My ブログ』
 ウワイト(倭人):大学講義録

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1 件のコメント:

  1. なかなか難しくて理解できません。古代は難しいので、700年以後を見ています。
    安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
    古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され其の後に慶雲以後の大倭年号が続きます。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません。ついでに
    倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 続日本紀記載の720年「日本紀」は普通古代史専門家はこれを「日本書紀」と読み替える前提ですが、理由無く読み替えられない、別物という論証がされています。
    宜しくお願いします。

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