2014年8月7日木曜日

阿曇・安曇(95)山海経(せんがいきょう):(Wikipedia)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―

 阿曇・安曇(95)山海経(せんがいきょう):(Wikipedia)

 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    山海経

 山海経(せんがいきょう)とは戦国時代から秦・漢期にかけて

 徐々に付加執筆されて成立した中国最古の地理書である。

 禹の治水を助けた伯益の著に仮託される。 こ

 の書はあくまで古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、

 「奇書」扱いされている。

 劉歆が漢室にたてまつった際には18編、

 『漢書』「芸文志」では13編。

 『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、

 『旧唐書』「経籍志」では18巻。

 『日本国見在書目録』では21巻としている。

 現行本には、西晋の郭璞の伝(注釈)を付しており、5部18巻。

 各地の動植物、鉱物などの産物を記すが、

 その中には空想的なものや妖怪、

 神々の記述も多く含まれ、そこに古い時代の中国各地の神話が

 伝えられていると考えられている。

 そのため、後世失われたものの多い中国神話の

 重要な基礎資料となっている。

 3世紀に完成。

 河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている。

 山経5書は、時代を追って成立した本書の中でも最古の成立であり、

 儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で

 貴重な地理的資料となっている。洛陽を中心としている所から、

 東周時期の成立と推定される。

 もともとは絵地図に解説文の組み合わせだったが、

 絵地図は失われ、後世に解説文を頼りに想像で挿絵をつけた。

 と書かれている。

 〔清〕都美行著

 山海経箋琉
 
 18 海内經第十八

 東海之内・北海之隅・有國名曰朝鮮・天毒・其人水居・偶人愛人。

 西海之内・流沙之中・有國名曰壑市。

 西海之内・流沙之西・有園名曰沮葉。

 流沙之西・有烏山者・三水出馬。

 爰有黄金・璿瑰、丹貨、銀臓,皆流于此中。又有准山・好水出鴛。

 《参考》

 出典:山海経

 1 山海経とは

 『山海経』は、BC4世紀~BC1世紀に著作された中国最古の地理書で、

 地理、動植物・鉱物、祭祀、辺境の国々、

 伝説上の帝王の系譜などが記述されている。

 主要な部分は戦国末期(BC3世紀)までに成立した。

 特定の人物の著作ではなく、多数の人の著述を合作し、

 編集したものとされている。

 荒唐無稽な説話を含むため、内容の真偽に疑問を持たれているが、

 記事は個別に判断すべきだろう。

 倭についての記述があるので、その真偽を確認する。

 2 山海経/海内北経

 山海経/海内北経に

 「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」と書かれている。

 鉅燕(BC3世紀初頭の燕)は、戦国時代の渤海湾北岸を拠点とし、

 遼東半島も版図としていた国である。

 蓋国は山東半島の「蓋」

 (現在の山東省淄博市沂源県)として問題はない。

 朝鮮半島江原道の「穢(かい)」とする説、

 馬韓の「乾馬」とする説などがあり、

 「倭の北」という位置関係から主張されているが、

 この主張は、倭が朝鮮半島南端にあったことを、

 中国人が認識していた事を前提にしているから、理屈に合わない。

 漢代になっても中国人は倭の位置を知らなかったからだ。

 当時の中国人には、

 朝鮮半島に箕氏朝鮮以外の政権があったという認識も、

 半島南端に倭があったという認識もなかった。

 春秋戦国時代の朝鮮半島南端に、

 倭人の国があったという証拠もない。

 弁韓の製鉄が始まっていたのかも疑わしい。

 続く文章に、

 「朝鮮は列陽の東に在り。列陽は燕に属す。」と書かれているから、

 朝鮮半島の北西に朝鮮があったことになり、

 正しく認識している様に見える。

 列陽がどこなのかは分からないが、遼東半島辺りだとすれば、

 解釈に無理がない。

 山東半島の南に倭があるのは、世界地図を見れば違和感があるが、

 後漢書の著者の生きた南北朝の宋の時代でさえ、

 中国人には日本列島についての地理的認識がなかった事情が

 書かれているから、地理的な南北感ではなく、

 倭人がどの方面から蓋国に来たのか考えるべきだろう。

 漢書に、「楽浪海中に倭人有」と書かれているのは、

 倭人は海から来るという認識からだ。

 山海経はそれ以前に書かれたから、

 中国人は、倭人の本拠地に関する情報は持っていなかった。

 漢書地理誌の「楽浪海中に倭人あり」は、

 朝鮮半島沿岸を航行して大陸に向う倭人の船が、

 最初に寄港する中国の領土が、楽浪だったと解釈される。

 この倭人の船の目的地は、黄河沿岸だった。

 これと同じ感覚で考え、倭人は燕に朝貢するにあたり、

 蓋国を通ったか、蓋国を介して燕と接触したという状況になる。

 燕に行くのに、

 倭人が船で直接渤海湾に入れば済むという地理感から考えると、

 何らかの事情があった事が想定される。

 山東省淄博市沂源県から東方に、

 さほど高くない山間を抜け平地を進むと、

 200kmほどで黄海沿岸や膠州湾に達する。

 その通路で最寄りの海岸を探せば、瑯琊になる。

 江南での交易が主体で、沖縄経由で江南に出掛けていた倭人が、

 船で北上して山東半島の瑯琊とか膠州湾に上陸し、蓋国に行った場合、

 当時の地理感では、蓋国は倭の北にあることになるだろう。

 倭人は、日本列島に関する正しい知識を、

 中国人に伝えていなかったから、

 蓋国の人達に自分達は南から来たと言っただろう。

 山東半島の海岸は、南東が海で北西が陸だから、

 海から来るのは、南から来る事と同義だった。

 倭人は海から蓋国に行かなくとも、

 淮河とその支流の沂水を船で遡上しても行く事ができた。

 沂源県とは沂水の源という意味に見える。

 3 地理的、地勢的、環境

 戦国時代後期、燕は急速に勢力を伸張した。

 日本人にもその名を知られる楽毅が活躍した時代である。

 中国の歴史は人物伝に終始するが、

 燕は中華的農耕社会の北端にあった国だから、

 燕の国力の伸張は気候の温暖化が原因だったと考えるべきだろう。

 楽毅は偶然そこに居ただけの人だったかもしれない。

 燕は、蓋国が属していた斉を滅亡寸前にまで追い詰め、

 国力を消尽させた。蓋国は斉を見限り、燕に属したのだろう。

 燕はこの時渤海南岸と山東半島まで掌握したことになる。

 渤海の南岸の国は燕の根拠地と比較し、

 農業生産が豊で富裕な国だった。

 蓋国はその豊かな都市国家群を代表する存在だったのだろう。

 倭人は元々蓋国と交易していたが、

 この事情により燕に朝貢する様になったと解釈すると、矛盾が無い。

 それであれば、渤海湾から直接燕に行かなかった謎も解ける。

 属すという言葉は、朝貢があった事を意味する。

 中国人は、

 臣従の意味を込めて贈り物を持った使者を派遣し成立する行為を

 朝貢と考えていたが、交易民族倭人は、

 高価な財貨を貴人に買ってもらうために、

 先ずプレゼントを持って挨拶に出かけたのだろう。

 中華秩序に組み入れられることを拒み続けていた倭が、

 海で隔てられた燕の属国になる筈はない。

 燕や蓋国がそれを朝貢と勘違いしたと思われる。

 いずれにしても、倭人は斉に勝った燕の国王や貴人と交易し、

 蓋国とも交易したかったのだと考えるべきだろう。

 当時の倭人は、江南方面から山東半島に向っていたことになる。

 朝鮮半島沖の航路は主要な航路ではなく、

 燕などの黄河北岸の国は、倭の交易相手ではなかった様だ。

 春秋時代の寒冷期に農業生産性の観点から考えれば、

 雑穀を主体とした農耕が中心だった燕などの国は、

 倭人としては交易相手として積極的になれない相手だったのだろう。

 この情報は、そんな燕から誇らしげに発信されたと思われる。

 黄河は現在渤海の西南に河口があるが、

 こうなったのは1855年以降の事で、

 それ以前は山東半島の南を回り、黄海に流れていた。

 もう少し詳細に言えば、

 BC2278年~AD1128年は渤海に、

 AD1128年~1546年は黄海と渤海に流れ、

 1546年~1855年は黄海に流れていたとされている。

 黄河は膨大な土砂を流すので、その堆積によって、

 とんでもなく流路を変える河なのだ。

 実際の流路が

 BC2278年から変らず渤海に注いでいたのかも疑問であるが、

 旧河道を船で航行することは可能だったかもしれない。

 倭人は渤海湾の奥に船で出掛けず、淮河とその支流、

 及び黄河の旧河道を使い、戦国時代に最も栄えた都市だった斉の都、

 臨淄(りんし)に往けたのかもしれない。

 このルートが倭人の戦国時代の主要交易路であった場合、

 朝鮮半島経由では却って遠回りになる。

 当時の海洋航行は、陸の位置を確認しながら進むのが基本だから、

 海岸が入り組んだ朝鮮半島経由で天津に行くのと、

 沖縄経由で上海に行くのとでは、大差がない。

 倭人は

 揚子江流域や淮河の流域の各所の豪族を歴訪する交易者だったから、

 朝鮮半島沖を主要航路とする必然はなかっただろう。

 結論として、

 山海経に書かれた倭に関する内容は、

 当時の実情を記したものだと判断できる。

 漢書・後漢書の項で検証した、

 華南で東鯷人と呼ばれ漢王朝で倭人と呼ばれていたいう関係を、

 時代を遡った戦国時代ではどうだったのかと検証する観点でみれば、

 燕・斉は黄河流域の国だから、

 黄河流域で倭人と呼ばれていたという流れには合致している。

 蓋国の説明をするのに、基準地点として、

 倭が燕と同格に書かれているから、

 倭人は黄河流域では知られた名前で、

 会稽辺りから来るという認識だった様だ。

 山海経/海内北経の末尾に地理的な知識が羅列されている中で、

 最初に上掲の「蓋」があり、続いて上掲の朝鮮があり、

 更に以下の記録がある。

 「列姑射(れこや)。海の河州の中に在り。」

 「射姑(やこ)國。海中に在り。列姑射に屬す。西南、山が之を環る。」

 「大蟹(だげ)。海中に在り。」

 「陵魚は人の面で手足は魚の身なり。海中に在り。」

 「大鯾(だぴ)。海中に居す。」

 「明組の邑。海中に居す。」

 「蓬莱山。海中に在り。」

  (蓬莱山という地名はここまで遡ることが分かる。)

 「大人(背の高い人)の市。海中に在り。」

 記述された場所の特定は難しいが、

 海中に在るという表現は島に住んでいるという意味になる。

 中国人から見て海上の大きな島と言えそうな場所は、

 日本列島以外は、台湾と済州島しかない。

 台湾はその後も中華に通好を求める行為を行っていないから、

 候補ではないだろう。済州島の住民は、

 魏志倭人伝によれば海上に出ていた様だから候補ではあるが、

 中国大陸に出かける必然が考えにくいから、

 「れこや」、「やこ」、「だげ」、「だぴ」、「明組」、「大人」、

 などと並べた国や邑や市(交易場)の名前は、

 日本列島から渡った人達から聞き取った結果だと思われる。

 200年後の倭を記した漢書に「百余国ある」と書かれたが、

 その内訳だった可能性が高い。

 前項で徐福伝説を検証したが、山海経に書かれた倭の記述に、

 徐福の根拠地だったらしい瑯琊に極めて近い地域が

 登場するのは奇異に感じる。

 斉の人であった徐福は、蓋国と関係のある人だったのかもしれないが、

 根拠のない推測の域を出ない。

 いずれにしても徐福が活動した斉は、

 前代の戦国時代から倭人が活動していた地域であるのは確かだろう。

 他の史書と矛盾の無い説明が出来るということは、

 戦国時代に、倭人は淮河流域、渤海湾、山東半島辺りで、

 海や河川を使って交易活動を行なっていたと考える根拠として、

 使って良いのではないかと考えられる。

 ※燕: 

 燕は周代(BC11世紀~)からあった国で、戦国七雄の一つ。

 現在の北京を中心とする河北省北部と遼寧省を支配した。

 首都は薊(けい)で、現在の北京市域にあった。

 建国の事情や経緯は明確ではない。

 戦国時代の昭王(BC311年~BC279年)の時代に

 領土を拡張した。

 日本人にも馴染みのある楽毅が、

 戦国諸国の連合軍を率いて斉軍を大破し、斉の首都臨淄を陥落させた。

 この頃「朝鮮」を討って、朝鮮半島北部も領有した。

 また、その南部の「真番」を略属させ、

 所々に要塞を築き官吏を派遣して治めた。

 「鉅燕」(巨大なる燕)とか、

 「全燕」(『史記』の記す完全なる燕)は

 この時の燕の状態をさすとの説がある。(以上ウイキペディア)

 「真番」が何処を指すのか不明だが、

 燕は朝鮮半島南端まで軍事支配していたのではない。

 ※蓋:

 「蓋」は「高密」の西100km程の山間地。

 淮水の支流である沂水の上流が 沂源県になる。

 倭人は淮水~沂水を使って「蓋」に到達していた。

 当時の河川の流路を再現する事は難しいが、

 山東半島域を除くこの地図域は、

 黄河の堆積土が積もった平坦な沖積平野で、

 黄河以外の大河は、湖沼を経て水路で繋がる事が多いから、

 倭人は淮河とその支流や、斉水(現在の黄河河道)を使い、

 戦国時代の各国の都に交易に出かけていたかもしれない。

 当時の淮水はこの地図の様に、黄海に流れ出ていた。

 黄河は流し出す膨大な土砂のために常に天井河となり、

 他の河川の流入を拒み、河川を分断してきた。

 当時の渤海湾は現在より東に大きく湾入し、

 そこに黄河が流れ込んでいたから、

 中原地域は縦横に水路となる河川が存在する地域だった。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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