2014年8月16日土曜日

阿曇・安曇(107)『日本書紀』講義と解釈③

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(107)『日本書紀』講義と解釈③


 倭奴国の由来

  まず『日本紀私記』の①からみていくことにする。

 ①はその内容からa~eの五つに分けることができる。

 『釈日本紀』にもa~eそれぞれに対応する記事が書かれているが、

 私の興味を引いたのはこのうちのb、dである。

 ここではb、dに絞って考えることにする。

 ①-b〔 (1)-b、(3) 〕について

  これは、「日本は古くは倭国といったが、倭の意味はよくわからない。

 “我”の音を取って漢人がつけたともいわれる」という意味であるが、

 これについて『釈日本紀』は(3)の「問-答」の形の中で、

 より詳しく書いている。

 そこでは、

 「唐国は我国のことを倭奴国というが、その理由はどういうことか」

  という問に、

 「昔この国の人が唐国に行ったとき、

  唐人が“あなたの国の名は何というのか”と聞いたので、

  その人は東方を指して“わが国のことか” と聞き返した。

  “和奴”は我国の意味であり、それ以後“和奴国”というのである。

  ある書に、筑紫の人が隋の時代に中国に行き、

  こう言ったと書かれている」

 という師の説を答えとしている。

 また「和奴という呼び方は隋代に起こったのか」

 という問に対しては、隋代ではないとしている。
 
 しかしながら、

 そもそも中国側が、

 中国皇帝に会おうという相手の国名を知らないわけがなく、

 「あなたの国の名は何というのか」と聞くこと自体不自然である。

 またもしそう聞かれても、通訳もいたろうから、

 日本語で「わが国のことか」と聞き返すことなどありえない。

 しかもその聞き返した言葉を、

 中国がその国の名と勘違いしたなどというのは、

 さらにありえない話である。

 こんな子供だましのような話が、

 国家の問題として堂々と講義されていたということに、

 私は唖然としてしまう。

 『日本紀私記』では「我国→倭国」であるが、

 『釈日本紀』では「我国→和奴国」であり、

 内容も具体的になっているところをみると、

 時間とともに創作も少しずつ加わったのではないかと想像される。

 『釈日本紀』では、倭奴国という名は我国という音に由来し、

 その時代は唐代とも、また或書では隋代だともされている。

 しかし「唐国は我国のことを倭奴国というが・・・」というのは、

 『旧唐書』の「倭國者古倭奴國也」、

 『新唐書』の「日夲古倭奴也」によったものと思われ、

 これはそんなに新しい時代のことではない。

 「和奴国」とは「倭奴国」のことだといっているのだから、

 それは57年に光武帝から印綬を賜った

 「倭奴国」のことでなければならない

 (『日本紀私記』では漢人が名づけたとあるが、

  それは倭国のことであり、

 この倭奴国であるという意識はないようである)。

 倭奴国は57年にはすでに存在していたのであり、

 「我国」とはまったく無縁の存在である。

 もしこの歴史ある倭奴国を知っていたのであれば、

 この国の名の由来を「我国」とするはずはないのであり、

 この「我国」記事があること自体、

 「倭」の持つ意味は弘仁時代(810~823)には

 すでに完全に忘れ去られてしまっていたことを示すものといえる。

 「倭奴国」の「倭」の意味もわからなくなっていたということである

 (意図的にそうしたということも考えられる)。

 「倭」はすでに本来の意味を失い、

 「ヤマト」の意味しかなく、

 「倭」を「ワ」と発音するときは、

 万葉仮名の「倭」でしかなくなってしまっていたのである。

 ここに「倭」を「ヤマト」としか読まなくなってしまった

 人たちの存在も浮かび上がってくる(倭人ではない人たち)。

 さらに『旧唐書』の

 「倭國者古倭奴國也」は「倭国=倭奴国」を意味するものではなく、

 倭国は倭奴国をその始まりとする、という意味であると私は考えている。

 これは『後漢書』や『魏志』倭人伝を読めばわかる。

 57年に登場する倭奴国は倭国の極南界にあったのだから、

 倭国そのものではなく倭国構成国の一つであった。

 倭国王がはじめて登場するのは107年のことであるが、

 その百年あるいは百数十年後に共立され倭国王となった

 卑弥呼は邪馬臺国の王でもあった。

 このことから考えると、

 はじめての倭国王も倭国を構成する国の中の一国の王であった、

 とみてよいのではないか。

 そうすると、

 敢えて倭国構成国の一つである倭奴国を

 古の倭国あるいは日本だということは、

 “倭奴国が初代倭国王を出した国であったことを表現したもの”と、

 とらえることができるのである。

 『新唐書』は『旧唐書』の倭国を

  日本にすり替えたものであるから何ともいえないが、

 もし『新唐書』の「日本は古の倭奴である」も真実だったとすると、

 倭奴国は九州北部にあったから、

 日本のルーツも九州北部にあったことを

 ヤマト自ら示していることになる。

 ところで「我国」とは当然日本のことであるが、

 日本は「やまと」と読む。

 「倭奴国」は「我国」に由来するとするから、

 倭奴国も当然ヤマトということになる。

 「倭」を「ワ」と読みながら、「倭奴」はヤマトのことだとする。

 だから『日本書紀』の講義をした人たちは、

 「倭奴国」は九州の倭奴国とみることは決してなかった

  (事実は承知していたかもしれないが)。

 それから千数百年の時は流れ、

 多くのきちんとした資料をみることができる今日では、

 「倭奴国」は「我国」に由来すると考えている人は

 まさかいないと思うが、

 「倭奴」はヤマトのことだとする人は、

 今も、それもかなり著名な学者の中にもいるようである。

 『日本書紀』講義の力、恐るべし、である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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