2014年8月19日火曜日

阿曇・安曇(113)『日本書紀』講義と解釈⑨

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(113)『日本書紀』講義と解釈⑨

 出典:『日本書紀』講義と解釈


 「やまと」と読む字

 (4)について

  これは『釈日本紀』の記事である。

 これと同内容のものは『日本紀私記』には見られないが、

 ①-b、②、③、④と関連する。


 唐が我国を呼ぶ名は大倭、和奴、日本のほかにもあるのか、

 という問を設け、耶馬臺、耶摩堆、倭人、倭国、倭面など、

 その名は多いが、音は同じでほかに意味があるわけではない、

 という師の説を答えとしている。

 これは

 大倭、和奴、日本、耶馬臺、耶摩堆、倭人、倭国、倭面すべて

 「やまと」と読み、

 それは既定の事実である、といっていることになる。

 しかし前述したように、耶馬臺は「ヤマタイ」と読む者もあり、

 「臺」は万葉仮名では「ト」とは読まないというのが事実であり、

 現実でもある。

 また和奴は倭奴国のことであり、

 「わがくに」のことではないから「やまと」とは読まない。

 倭面は「委面」のことで「入墨をした顔」を意味し、

 これも「やまと」とは読まない。

 中国が紀元前から日本列島の倭・倭人・倭国を

 見てきたその記録をみれば、このことは自明の理である。

 それにもかかわらずこのように、

 耶馬臺も倭奴も倭面もすべてヤマトのことであるとすることに、

 偶然や成り行きではない、彼らの意図を感ぜざるを得ない。

 中国史書では、

 倭奴、耶馬臺、耶摩堆、倭人、倭国、倭面を

 「やまと」と読んでいるわけではなく、

 『日本書紀』と『日本紀私記』や『釈日本紀』が

 そう読ませているだけであることを忘れてはならない。

 『日本書紀』は、中国史書にいう倭国はヤマトのことで、

 日本は倭国が改名したもの、というテーマのもとで書かれている。

 『日本紀私記』はそれを推進し、

 『釈日本紀』は『日本紀私記』を引用することで、

 それをさらに深めていった。

 しかしながら日本国内の事情は

 中国の唐にはなかなか理解してもらえず、

 『旧唐書』には倭国条とは別に日本国条が設けられたのである。

 それからおよそ百年後、

 『日本書紀』講義の効果は『新唐書』で発揮されることになった。

 倭国は「やまとのくに」であり、

 倭国が日本と改名したことが認められ、

 これ以後、中国史書から倭国の記録は消えたのである。

 『旧唐書』と『新唐書』の倭国と日本国に対する記録の変化は、

 このあたりの事情を如実に示しているといえる。

 『私記』を記録した諸博士たちは、

 もしかしたらすべて承知のうえで、

 倭国は「やまとのくに」で日本は倭国が改名したものとする

 『日本書紀』の意思を受け継ぎ、

 日本という国を東アジアの中で

 確固たる立場の国にしようとしたのかもしれない。

 それには中国史書に古くから記録されている倭国の歴史を、

 是が非でも日本の歴史にする必要があった。

 当時の情勢を考えると、この行為は責められないが、

 今歴史という学問を考えるとき、

 現代の研究者が目に見える資料を前にしながら、

 その矛盾に目を瞑り、

 『日本紀私記』や『釈日本紀』の、

 あまりにも幼稚な言い分までも鵜呑みにしてしまっているとしたら、

 それは果たして許されることなのだろうかと、

 私はふと、そんなことを考えてしまうのである。

《参考》




 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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