2014年8月20日水曜日

阿曇・安曇(115)『後漢書』東夷傳倭章(1)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(115)『後漢書』東夷傳倭章(1)

 『後漢書』東夷傳倭章

 倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。

 自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。

 其大倭王居邪馬臺國。

 今名邪摩(惟)堆、樂浪郡徼、去其國萬二千里、

 去其西北界拘邪韓國七千餘里。

 其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近。

 故其法俗多同。


 倭は、韓の東南方の大海の中にあって、

 〔人々は〕山の多い島に居住しており、

 すべてで百余国〔になる〕。

 〔前漢の〕武帝(在位前一四一~前八七年〕が

 〔衛氏〕朝鮮〔王朝〕を滅ぼした(前一〇八)後、

 通訳を連れた使者を漢に通わせた国は、

 〔そのうち〕三十ばかりである。

 〔それらの〕国〔の首長〕はみな王と称して、

 代々その系統を伝えている。

 〔それら諸王の王である〕大倭王は邪馬臺国に居住している。

 楽浪郡の〔南の〕境界は、邪馬臺国から一万二千里も離れており、

 倭の西北と境界をなす拘邪韓国(巨済島)から七千余里離れている。

 倭の地は、おおむね会稽の東冶の東方であって、

 朱崖・儋耳(ともに広東省の海南島)に近い。

 それゆえに倭の制度や習俗には、

 〔海南島地方のそれと〕共通するものが多い。

 ※出典:邪馬壹国大移動:79頁

 「会稽・東冶」の東

 『魏書倭人章』に中国と倭との相対的な位置を、

 はっきり具体的に書いた記事がある。

 それはこう書いてある。

 「その道のりを考えてみると、

  まさに会稽・東冶(トウヤ)の東にある。」

 会稽というのは今の浙江(セッコウ)省・紹興(ショウコウ)で、

 東冶というのは福建省・閩侯(ビンコウ=今の福州)である。

 お手もとの地図で見て戴くとすぐ分るが紹興の真東に奄美大島があり、

 福州(目印は台湾の北端の西、閩侯の河口)の真東に沖縄諸島がある。

 奄美は慶長一四年(1609)以前は琉球に属していた。

 この記事は九州全域に拡大後の3世紀の倭国ではないが、

 それ以前に倭が沖縄圏にあった時の記録が、

 事情を知らない

 『魏書倭人章』編者・陳寿によって混入されたものだという結論になる。

 とすれば、

 古代の中国人は沖縄について非常に正確な知識をもっていたのである。

 しかしそれは不思議なことではない。

 当時沖縄・奄美に住んでいた人々は海洋民族である。

 与那(ヨナ)国島と福州との距離は400kmは、

 那覇までの500kmよりはるかに近い。

 倭人が船で往来すれば自然に互いの地理関係は分かる。

 ただ中国人は海洋人ではないので記録が少ない。

 陳寿はその少ない記録を見つけ出して

 『魏書倭人章』に書き加えたのである。

 ところがこの記事を日本の学者たちは

 「古代中国人が日本を知らなかった証拠だ」として、

 「中国人は日本列島を九州が一番北にあり、

  それから南に本州が伸びていたと誤解していたのだ。
 
  彼等のいう南は本当は東のことだ。」と主張して、

 邪馬台国「大和説」や「宇佐説」の証拠にしてしまった。

 ※出典:JINMU:74~75頁

 「ほんとうに会稽東治の東にある邪馬壹国」

 『倭人章』には[邪馬壹国]と中国との相対的な位置関係を、

 はっきり具体的に書いた記事がある。

 それは「帯方郡から女王国まで万二千余里」と書いた後に

 「その道のりを計るとちょうど、会稽東治の東に当たる。

 この[東治トウチ]を過去の解説者は「東冶トウヤ」と読んできた。

 会稽は今の浙江(チョーチャン)省の紹興(シャオシン)で、

 「東冶トウヤ」は福建(フーチェン)省の福州(フーチョオ)である。

 お手元の地図で見ていただくとすぐ分かるが

 紹興の東が大隅熊毛に当たり、

 福州(目印は台湾の北端の西、閩江(ミンチャン)の河口)の東に

 沖縄がある。

 この距離は朝鮮半島南端から九州本島南端までの距離だ。

 [邪馬壹国]はそんなに大きいわけがないから

 [東冶(トウヤ)]と読むのは間違いだとすぐ分かる。

 それは写真の原典の文字をみても、絶対に[冶(ヤ)]という字ではない。

 <写真:中国の『魏書倭人章』の文字は正確>

 中国の『三国志』のの本はどの版をみても

 「東治(とうち)の「治」の文字は、

 他の「治める」という字と同じ三水偏であり、

 「冶(や)」は二水偏でここに書かれた

 「次」の字のように全然書き方が違う。

 [トウヤ=東冶]と間違うことは絶対にない。

 右は『紹興版』。

 左は『百衲(とつ)影宋本』であり、どの版をみても明瞭である。

 これは福建省の[東冶]が文字だけでなく地理的にも

 無関係なことは常識だからなのだ。

 ※出典:大学講義録10:10頁

 東冶(や)は絶対に間違い。東治(ち)が正しい

 この記事は古来もう一つ論争点をもっていた。

 それは「會稽東治(とうち)の東」を

 「會稽東冶(とうや)の東」と誤解していたことである。

 これは「治」と「冶」という文字の「篇(へん)」が、

 三水(さんずい)か二水(にすい)かという点一個の差なので、

 「古文献類は写し間違いや、虫食いや、染み汚れなどによって

  読めなくなる」

 という多数の事例が災いして、

 いまだに決着がつかない問題とされてきた。

 だがこれは、文字の問題として論争すること自体が問題なのであって、

 それは問題の本質を見抜けずにいたからに他(ほか)ならない。

 この問題が東治(とうち)と東冶(とうや)が指す地域のどちらが

 地理学的に合理的か不合理かで、

 簡単に勝敗が決まる性質のものでしかない。

 東冶(とうや)はいまの中国福建省閩侯(ミンコウ)県福州の古名で、

 台湾の北端から西北約260kmの台湾海峡寄りにある港湾都市である。

 こちらが正しいとすれば、會稽の東は鹿児島県南部なのだから、

 そこから南へ台湾の北端近くまでと限定される地域は

 疑いもなく沖縄、南西諸島一帯である。

 これならまさに「邪馬台国琉球説」だが、

 この説には幾つもの決定的欠陥がある。

 それは女王国の南端・奴国を沖縄の那覇市とみても

 南にあるはずの狗奴国が存在しないし、

 伊都国に合う糸満はあるが南北関係が逆。

 道程も、最大の沖縄本島でも陸行一月もわざわざ歩く必要がない。

 またそんな所にいてはとても連邦全体を統治できないからである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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