2014年8月18日月曜日

阿曇・安曇(112)『日本書紀』講義と解釈⑧

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(112)『日本書紀』講義と解釈⑧

 出典:『日本書紀』講義と解釈


 書を「不美」と読むこと

  ⑤〔 (11)〕について

  なぜ「書」を「不美」と読むのか、という問である。

 これに対し師は、昔新羅の表に大いに不敬な言詞があり、

 怒り地面に投げつけ踏み潰した、

 それでそれ以後「不美」と訓むのであるが、

 これは先師の説だと答えている。

 また、

 鳥が踏み歩いた足跡を見て蒼頡が文字を作ったという故事を引き、

 「不美」という訓はここからきたのではないか、と付け加えている。

 「新羅所上之表」とあるが、新羅がはじめて上表したのは、

 『日本書紀』によれば推古天皇29年(621)のことである。

 その2月条には、

 「是歳 新羅遣奈末伊彌買朝貢 仍以表書奏使旨 

  凡新羅上表 蓋始起于此時歟」とあるが、

 この時もそれ以後も、

 新羅の表に対してこのような行動をとったという記録は特にない。

 応神天皇28年(423)9月条には、

 「高麗王遣使朝貢 因以上表 其表曰 高麗王敎日本國也 

  時太子菟道稚郎子讀其表 怒之責高麗之使 

  以表状無禮 則破其表」とあり、

 「不美」の事件に近い状況が書かれている。

 しかしこれは新羅ではなく高麗である。

 特に根拠らしい根拠はないのであるが、

 『私記』の講師は

 この高麗の事件を新羅の事件に

 すり替えたのではないかと私は疑っている。

 『日本書紀』は百済滅亡・白村江敗戦以後、

 日本人になった百済系渡来人が中心となり

 書いたものではないかと私は考えているが、

 そこでは新羅は常にヤマトと百済に敵対する国として描かれている。

 百済滅亡以来、

 新羅は百済にとって憎んでも憎みきれない仇となったのであり、

 「不美」の由来を新羅の表を踏みつけたという行為に求めることで、

 その気持ちを晴らしたのではないかと想像するのである。

 このように想像するのも、

 この表を踏みつけるという行為が事実だったとしたら、

 その愚かしい行為が

 文化の象徴ともいえる文字の訓になったことになり、

 それはとてもありえないことに思えるからである。

 講師は蒼頡の故事を引いているが、

 文字の起源としては鳥の足跡の方が重要なのであり、

 踏むという動作ではない。

 しかし講師はその踏むという動作に重点を置き、

 高麗の事件を新羅の事件にすり替え、

 新羅の表を踏みつけたことにして、

 そこに「不美」の由来を見出したのである。

 以上はあくまでも私の想像であるが、

 「不美」の由来の真実は

 新羅の表を踏みつけたことにあるのではない、

 ということだけはいえるのではないかと思う。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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