2014年8月23日土曜日

阿曇・安曇(117)『後漢書』東夷傳倭章(3)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(117)『後漢書』東夷傳倭章(3)

 『後漢書』東夷傳倭章

 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。

 光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。

 有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。

 侍婢千人、少有見者、唯有男子一人給飮食、傳辭語。

 居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衞。

 法俗嚴峻。


 〔後漢の光武帝〕建武中元二年(57)、

 倭奴国〔王が遣使して〕貢物を奉り朝賀した。

 使者は大夫と自称した。

 〔倭奴國は〕倭國の最南端である。

 光武帝は〔倭奴國王に〕印綬を与えた。

 安帝の永初元年(107)、

 倭國王帥升らが、生口百六十人を献上して、

 皇帝の接見を求めた。

 〔後漢末の〕桓帝、靈帝の治世(147~189)に、

 倭国はたいへん混乱し、たがいに戦い、

 何年もの間〔倭国の〕主なき有様であった。

 〔時に〕一人の女子がいた。

 その名を卑弥呼といい、

 すでにかなりの年かさでありながら未婚で、

 鬼道を用いてよく人々を妖惑していた。

 そこで〔卑弥呼は〕婢千人を傅かせ、

 その姿を見た者は稀である。

 ただ一人の男子が、飲食を供給し、

 言葉を伝えている。

 〔卑弥呼が〕居る処の宮室・楼観・城柵はみな、

 武装した者たちが守備しており、

 規律は極めて厳格である。

 ※出典:異説・日本古代国家:223~225頁

 「スサノオは1世紀に実在」

 この宮之城の名は、もう一つ別の古代史の謎を解いてくれる。

 「後漢書、東夷伝」によると

 「倭面土」国王の帥升が漢の安帝に会見を申し入れた、とあった。

 この国名をヤマトと読むなど諸説があるが、当時の漢文の原則は、

 漢委奴国王の金印でも証明される通り、

 母国名→属国名の二重表示になっており、

 漢の委奴国、倭の面土国と明確に記して、

 村名なしで大字(あざ)小字をいきなり書くようなことは許されない。

 倭が当時の日本の国号である以上、

 これは切り離して読むのが常識である。

 では面土はどう読むか?

 これは後漢の正史であるから漢音で読まねばならない。

 六朝音や呉音で読んでは正しい答えが出るはずがない。

 それは漢音では面(ミャン)、土(ヅゥ)となる。

 これは鹿児島方言の宮之城(ミヤンジュ)に当てた発音としては、

 類を見ない程に完璧な文字であることがわかる。

 当時の倭国内だけでなく、

 現在の日本地名に至る全国の地名を調べてみても、

 ミヤンヅゥに当てはまるものは宮之城以外にない。

 また観点を変えてみても、高句麗、新羅を生み出した倭の中心、

 川内王朝とでも名づけるものの中心地である。

 その王が一大部隊を引きつれて、漢の皇帝に会いに、

 はるばる長安まで大旅行を敢行することができた背景も納得が行く。

 これまでの想像説のように正体不明の一小国王が、

 実行できることではなかったのである。

 では帥升も漢音で読まねばならない。

 これは帥(スイ)升(サヌグ)で、

 これまたスサノウと聴きとれる音になっている。

 音だけでは証拠不充分だが、非常に肉迫していることは疑えない。

 これは充分証拠集めをしてみる価値がある。

 さきの修家(スカ)もその一つだが、さらに史書に幾つも見つかる。

 「勾麗第一番目の都は卒本扶余で、今の成川であったが、

  高朱蒙の子、瑠璃王の代に都を国内城に移し、

  慰那厳に都城を築いた」

 と明記している。

 もう一つは、さきに見た佟江の別名”塩難水(エナミ)”である。

 これも<イミ>が訛ったものと充分考えられる。

 さらにもう一つ。

 ”佟江”というのは、

 冬(トウ)あるいは凍(トウ)をあててもいいもので、

 古語の氷(スガ)を意味した可能性があること。

 というのは、『大韓彊域考』という文献によれば、

 「卒本の故地は今の開原県の東南二水を捗った処にあったと思われ、

  考えるに県の南十余里に”清河”あり云々」とあり、

 半島北部から鴨緑江を越えた土地にも、

 卒本と清河(スガ)とのセットが見られるからである。

 こんな風に、地名の移動を調べる場合、

 このセットになった地名は非常に有力な手がかりと証拠になる。

 それは人名の場合と同じく数が増せば増すほど、

 偶然でない証拠が増すからである。

 これだけ証拠がそろってくると、

 出雲神話の圧巻、

 ヤマタの大蛇退治の舞台が、イナのスガの地、

 すなわち国内(コウチ)城、現在の宮之城であり、

 それが倭の面土国であり、帥升王がスサノオであることが、

 もうひと押しであることを、

 ひしひしとお感じになっていらっしゃるであろう。

 そのひと押しをしてみよう。

 それは出水はどうなるのか?

 ということなのである。

 これは成川を朝鮮半島にあったと思いこんだりしているが、

 それは高句麗は半島にしかないと思いこんでいる、

 先入感のなせる業(ワザ)で仕方がないとして、

 ここに新しく登場した慰那(イナ)の地名は、

 スサノオの本拠地であった葦名(イナ)と完全に一致するのである。

 このイナガンは地名であるから、

 ガンは語尾に<上>または<神>がついた時の

 鹿児島方言であるとして大きな間違いはない。

 ここで注意を要するのは国内城を瑠璃王が築いたのではなく、

 それは以前からあったのであり、都を、

 その国内城を中心にして稲上、

 または井之上といった地区に建設したというのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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