2014年8月6日水曜日

 阿曇・安曇(91)邪馬台国卑弥呼の「倭錦」を考察する

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―
 
 阿曇・安曇(91)邪馬台国卑弥呼の「倭錦」を考察する

 講師:歴史研究家「黒田 光一」


 (1)魏志倭人伝 正始元年(240)の記述

    正始元年、太守弓遵、建中校尉、梯儁等、奉詔書、

    印綬詣倭国拝假倭王

    并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物

    倭王因使上表答謝詔恩


    正始元年、太守弓遵、建中校尉、梯儁等遣わし詔書、

    印綬を奉じて倭国に詣でり倭王に拝仮し、

    ならびに詔をもたらし金、帛、錦、罽、刀鏡、采物を賜う。

    倭王、使に因って上表し詔恩を答謝す。

  <訳>
  
    正始元年(240 一斉王芳)太守弓遵は建中校尉、

    梯儁らを遣わし詔書印綬を奉じて倭国に行き

    倭王に拝仮して詔をもたらし

    黄金と絹帛、錦と罽(けい―毛織物)、刀、鏡、

    采物(さいぶつ―前回と同様の真珠、鉛、丹、

    あるいは彩色文章を施したもの。

    品級によって異なる彩色を施したもの。) 

    解釈『邪馬台国を知る事典』 武光誠・山岸良二

    倭王は使に因って上表文をたてまつり詔恩く天子からの恩典)を

    答謝した。 

 ★ ここでの注目すべき点は絹帛と錦の絹と毛織物が

   渡されていることである。


 (2)魏志倭人伝 正始四年(243)の記述

    其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人、

    上獻生口倭錦絳青縑緜衣丹木拊短弓矢

    掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬


    その四年、倭王また使、大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を遣わし、

    生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊、短弓矢を上献す。

    掖邪狗等率善中郎将の印綬を壱拝す。


 <訳>

    その四年(243)倭王はまた使者の大夫伊聲耆、

    掖邪狗等ら八人を遣わし、

    生口、倭錦、絳青縑(経糸が青で織り目を付けて細かく織った絹)

    緜衣(綿入れの服)、帛(絹帛)、布(ぬの―麻・からむし)、

    丹、木拊(モクフ―弓付、ゆづか)、短弓、と矢を献上した。

    掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。

    ○ 倭錦  中国に無い錦の織物

    ○ 絳青縑 絳は濃い赤色、青は青色、縑は布地のことで、

          濃い赤色と青色で合わせた糸で織った絹布の事で

          染色の技術を持っていたことが判る。

    ○ 緜衣  綿入れの服。緜は同じく繭から製造した綿のこと。

    ○ 帛   絹帛、普通の絹織物 

    ○ 布   麻、からむし、一般的な織物

    ○ 短弓  遊牧民族の弓 ★ 軍事同盟のメッセージを送ったもの

    ○ 矢   短弓と一体の矢★ 軍事同盟のメッセージを送ったもの


 (3)漢代の漢字使用における「白」

    人口の多い民族国家の中で生きる知恵として

    「ゾクド人」などは同じオアシス都市出身者同志

    異境の町で出会ったらすぐ判るように

    都市の頭文字を名前に付けて分る様にした。

 【事例】 

    安 ブハラ

    何 クシャーニア

    康 サマルカンド

    石 タシケント

    曹 カブーダン

    米 マーイムルグ

    史 キッシュ

    羅 (不明)

    こうした方法で都市名ではないが

    中国人はインド系は「白」を付けて区別した。

 「例」詩人白楽天はインド系中国人である。


 (4)白馬寺

    漢代とくに後漢の時代に

    最初に仏教が伝えられた寺院であるが

    インド発祥の仏教と判るように

    インドを意味する白を頭文字においたのではないだろうか。


 (5)古事記では九州は「筑紫」を「白日別」と

    やはり白の文字で表現されでいる。

    古事記上巻『伊邪那岐命と伊邪那美命』 

    次に筑紫島を生みき。

    この島も身一つにして面四つあり。

    面毎に名あり、

    かれ筑紫国を白日別と謂い豊の国を豊日別と謂い…… 

    <講談社学術文庫P45 参考>

    古事記と日本書紀の選者に中国系書記官がおり

    インド系住民の島として

    九州は白の字で表現したのではないだろうか。


  <九州とインド系文化の関係>

  ① 九州大牟田市

    白金川流域の丘陵地帯にある注目すべき遺跡がある。

    「羽山台遺跡」

     住所 大牟田市大字草木字羽山

     甕棺墓 64基(内1基は支石墓)

     土墳墓(木棺)墓 43基…
             
      今後調査が進めばさらに発屈される可能性がある。

      特徴は支石墓の下に獲棺がある。

      この支石墓は朝鮮半島中部以南に多い南方式のもの。

  ② 支石墓 大陸から伝わったもの。

        死者を納めた墓穴の上に載せられた大きな石がある。

        <分布>糸島、唐津、島原、西九州の海岸地帯

        <デザインの源流地>
 
        インド南部→朝鮮半島西側海岸地帯→北九州から西九州

  ③ 中国の歴史書『山海経』の記事

    楽浪海にインド人が居住していたとする記録がある。

    『山海経』 新釋巻十三 山海経十八 海内経

    「東海之内北海之隅、有国名日朝鮮、天毒、

     其人水居人愛之」

     注① 郭撲伝「朝鮮今楽浪郡也」珂案朝鮮巳見海内北経。

     注② 郭僕伝「天毒即天竺国」貴道徳有文書金銀銭貨浮奢出比中也


 (6)日本で「白」がついた地名

    熊本県白川水源は阿蘇山の南、泉村

    サンスクリット語でJaLa → SILa 

    意味は泉よって白川は泉川の意味

    和歌山県白浜

    千葉県白浜


 (7)倭の絹の特徴

  ① 紫色が出せた

   古代では貝で紫色をだした。

   貝紫と言う染色法である。

   イボニシ貝(アクキガイ科)のパープル腺を取り出し

   色い液を絞り出し繊維に浸すと空気に触れて

   しばらくすると酸化して紫色に変色する。
  
   今でも三重県志摩半島の海女の間に伝わっている

   魔よけの風習でドーマン・セーマンのデザインがつかわれている。

   星形:セーマン、天形星とも言われている。

      ユダヤの国のマークと同じ。

      晴明桔梗、五苦星、安倍晴明に由来

   格子形:ドーマン、芦屋道満に由来

   吉野ケ里遺跡の紫は日本橋の染物屋「谷屋」が

   1800年前の技術を復活させている。(参考)

    東京都中央区日本橋室町1 一8 一7B 一1 夢紫美術館

  ★ 中央アメリカのマヤ族やインカ族は

    古くからアクキガイ科の貝(サラレイシ貝)からとれる液体を

    使って染色し同じ紫の色をだしている。

    技術はもっと前から伝播していたのかもしれない。

    興味あることである。


  ★ ここで平安時代の紫の染色法について説明する。

    日本では平安時代は紫根すなわち

    「ムラサキ」と言う植物で染色していた。

    貝紫はすたれていた。

    延喜式の民部下による税に紫草を出した国を列挙しておく。

    相模・武蔵・下総・常陸・近江・信濃・上野・下野・石見・大宰府

  <白絹>

  伊勢・伊賀・近江・丹波・播磨・紀伊・備中・備後・安芸・阿波・讃岐

  ★ 筑紫は紫を築くとも読めるので有明海の貝で

    古代には紫の染色で有名だったなごりではないのか。

    吉野ケ里から約三十種類の織物の断片が出ており

    剣の柄から三種類の平絹と高級の大麻一種でている。

    絹も淡い黄色、赤、紫、こげ茶色と四種の色が確認されている。

    織物文化でも当時先進地域だったことがわかる。

    当時の遺跡で近畿から絹がほとんどでないのは

    この点からだけでも邪馬台国の決め手にかけている。

    始めに検事調書のように結論をきめて思い込みしている。

    また、みんなが言う説を自分の説と勘違いしている。

    集団の意思を自分の意思と混同する軍隊思考に似ているようだ。

   ② 太さ

    当初:華南系だった。

       繊維は細い。

       蚕は四眠

    中期:楽浪郡と交易して「まゆ」を交配させ品種改良している。

       少し太い。

       三眠

  ③ 織り方

    平織、糸もより方が粗い、薄手の絹であった。

    繊維が細く中国の物よりスケスケルックだった。

    透き目薄絹:細い撚糸を使って織った。

    中国:経錦(たてにしき)で経糸を強く引くの 

       耐えうるよう太く改良していった。

       模様も経糸で織った。

       緯糸(よこいと)での模様は西に織物が

       流れる過程でうまれた。

    麻:きめ細かく高級な大麻布が吉野ケ里遺跡から出土した。


 (8)交易国家としての邪馬台国

    邪馬台国は何故、魏と国交を開く必要があったのであろうか。

    二つの理由が考えられる。

    一つは、

    倭の国内で問題が起きており狗奴国との戦争が

    続いていた事である。

    外に関心を向ける必要があった事だ。

    二つ目は、

    中国との交易権を独占する事で邪馬台国が、

    交易連合国の上に立つことであった。

    中国との交易は、魏と国交を結ぶ以前から、

    中国の植民地である帯方郡と邪馬台国は交易があった。

    交易を通して、中国側の情報は手に入っていたのである。

    中国系商人や中国系の政治顧問団が卑弥呼の側にいて

    色んな知恵を授けたのであろう。

    公孫氏が魏に滅ぼされると、

    その翌年に、すかさず、魏に使者を送り、国交を開いたのである。 

    「魏志倭人伝」を、倭国側が交易で持って行った物と、

    中国側からもたらされた物とに分けて分析して見ると、

    以外に繊維製品が多い事に、気がつく。

    けっして倭国側が遅れた国ではなかった事が判る。

    倭国側でも、中国にない倭錦、異文雑錦、

    絳青の謙(青色で織りが紙密な絹)と

    帛(はく)と記録に残っているだけでも

    四種類の絹を中国に持って行てるのだ。

    当時の中国市場に通用したのである。

    交易から見えてくる情景は、

    鉄資源や青銅資源ではなくて、繊維製品が多いことである。

    卑弥呼の宮廷に千人も女性を抱えていれば、

    高級織物は、人心をつないでおく為にも、

    ぜひ必要だったのであろう。

    これらを見ると、平和な交易国家の交流が見えてくる。

    後漢の時代に中国とローマ帝国とは

    海のシルクロードでつながっていた。

    仮説ではあるが、ひょつとすると、

    アラビアのダウ船が中国に行く途中流されて、

    倭国へも来ていたのではないだろうか。

    その鍵はローマン金貨が、

    日本の古墳から将来発掘されれば、直接交流があった事になる。

 <参考文献>

  ① 「邪馬台国を知る事典」武光誠、山岸良二

  ② 「古代文明の形成」日本歴史大系1 、
    井上光貞、永原慶二、児玉幸多、大久保利謙

  ③ 「魏志倭人伝」石原道博編訳

  ④ 文明の道 NHKスペシャル:③海と陸のシルクロード

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿